162:0.1 イエスは、エルサレムへの10人の使徒との出発に当たり、それが短い道程であることからサマリア経由を計画した。したがって、湖の東岸沿いにスキトイポリス経由でサマリアの境界に入った。日暮れ近く、イエスは、仲間の宿泊所の確保のためにギルボーア山の東の傾斜地にある村にフィリッポスとマタイオスを遣わせた。平均的なサマリア人よりも、偶々これらの村人は、ユダヤ人に対し大いに偏見を持っており、非常に多くのユダヤ人が会堂の祭りに行く途中であったことから、この感情は、この特別な時に高まった。これらの人々は、イエスについてほとんど知らなかった。そしてかれらは、イエスとその仲間がユダヤ人であったので宿泊を拒否した。マタイオスとフィリッポスが憤りを明らかにし、イスラエルの聖なる者への持てなしを断っているのだということをこれらのサマリア人に知らせると、激怒した村人は、棒と石で小さい町から彼らを追い出した。[1]
162:0.2 フィリッポスとマタイオスが仲間のところに戻り、村から如何ように追い出されたかを報告した後、ジェームスとヨハネは、イエスに歩み寄って言った。「あるじさま、これらの横柄で改悛しないサマリア人を滅ぼすために、炎が天から下りてくるように命ずる許可を下さるよう懇願致します。」しかし、復讐のこれらの言葉を聞くと、イエスは、ゼベダイオスの息子等の方に直接向き直り厳しく叱責した。「君が、どういう態度をとっているのか君には分かっていない。復讐は、天の王国の展望を持ってはいない。議論するよりも、ヨルダン川の浅瀬近くの小さい村まで旅しよう。」このように、宗派の偏見のため、これらのサマリア人は、宇宙の創造者たる息子へのもてなしの名誉を否定した。[2]
162:0.3 イエスと10人は、その夜、ヨルダン川の浅瀬近くの村に止まった。翌日早々に、かれらは、川を横切り東部のヨルダン街道経由でエルサレムへと旅を続け、水曜日の夜遅くベサニアに到着した。ロダンとの会談で遅れたトーマスとナサナエルは、金曜日に到着した。[3]
162:0.4 イエスと12人は、翌月(10月)の終わりまで、およそ4週間半エルサレム付近に留まっていた。イエス自身は、ほんの数回街に入り、これらの短い訪問は、会堂の祭りの数日間に為された。かれは、ベツレヘムではアブネーとその仲間と10月の大半を過ごした。
162:1.1 ガリラヤからの脱出のずっと以前、追随者は、イエスの知らせがユダヤの文化と学問の中心で説かれてきたことから威信を得ることができるように王国の福音の宣言にエルサレムに行くことを嘆願した。ところが、いまイエスが実際にエルサレムに教えに来たので、かれらは、イエスの命を危ぶんでいた。シネヅリオン派が、裁判のためにイエスをエルサレムへ連れていこうとしていることを知り、使徒は、死を被らなければならないというあるじの最近繰り返した宣言を思い起こし、会堂の祭りに出席するという突然の決定に文字通り唖然とした。かれは、エルサレムに行くという皆の以前の全ての懇望には、「時は未だ来たらず。」との答であり、今度は、皆の怖恐からの抗議に「だが、時は来たれり。」と答えるだけであった。[4][5]
162:1.2 イエスは、会堂の祭りの間、大胆にも時折エルサレムに赴き寺院で公に教えた。使徒の諌止の努力にもかかわらず、かれはそうした。かれらは、エルサレムで彼の知らせを宣言するように長らく訴えてきたが、律法学者とパリサイ派が、イエスに死をもたらせようと決心しているのを熟知しており、今となっては、イエスが街に入っていくのを見ることを恐れた。
162:1.3 エルサレムでのイエスの大胆な様は、追随者を以前にもまして混乱させた。多くの弟子は、そして使徒のユダ・イスカリオテでさえ、イエスが、ユダヤ人指導者とヘロデ・アンティパスを恐れたのでフェニキアまで急いで逃れたと考えるほどであった。かれらは、あるじの行動の重要性を理解することができなかった。追随者の忠告に反してまでものイエスのエルサレムでの会堂の祭りの出席は、恐怖と臆病に関する全ての囁きに終止符を打つには十分であった。[6]
162:1.4 会堂の祭りの間、ローマ帝国全地域からの何千人もの信者は、イエスの教えを聞き、また多くの者は、各出身地域における王国の進歩に関しイエスと打ち合わせるためにベサニアにまで旅をした。
162:1.5 祭りの数日にわたりイエスが寺院の中庭で公然と説教ができた多くの理由があり、その主なものは、シネヅリオン派の役員各自の位階における秘かな感情の分裂の結果から生まれた恐怖であった。シネヅリオン派の成員の多くが、秘かにイエスを信じるか、または、断じて祭りの際の逮捕に反対であったという事実があり、そして、それほど多くの人がエルサレムに居合わせるとき、その中の多くは、イエスを信じるか、あるいは、イエスが主催する精霊的な運動に少なくとも好意的であった。
162:1.6 アブネーとその仲間の全ユダヤにおける努力は、王国に有利な感情を強めることに大いに役立ち、イエスの敵が反対の態度をあまり明らさまにできない程であった。これは、イエスが公然とエルサレムを訪問し、生き残ることができた1つの理由であった。この1、2ケ月前に、イエスは、確実に殺されていたことであろう。
162:1.7 しかし、エルサレムに公然と現れるイエスの不敵な豪胆さは、敵を畏怖させた。かれらは、そのような大胆な挑戦への備えがなかった。シネヅリオン派は、この月に何度かあるじを拘禁する微弱な試みをしたが、これらの努力からは何も生じなかった。敵は、エルサレムでのイエスの予想外の公の場への出現に不意を突かれ、イエスが、ローマ当局による保護を約束されているに違いないと億測するほどであった。シネヅリオン派の成員は、フィリッポス(ヘロデ・アンティパスの兄弟)が、ほぼイエスの追随者であったことを知っており、フィリッポスが敵からのイエスの保護の約束を保証したと推測した。エルサレムでのイエスの突然で大胆な出現が、ローマの役人との秘かな同意によるものであるという思い込みに気づく前に、イエスは、それらの管内から離れてしまっていた。
162:1.8 12人の使徒だけは、マガダンを出発したとき、イエスが会堂の祭りに出席するつもりであることを知っていた。あるじが、寺院の中庭に現れ、公に教え始めると、他の追随者は大いに驚き、ユダヤの当局は、寺院で教えていると報告されたとき、表現し難いほどに驚いた。[7]
162:1.9 弟子は、イエスの祭りへの出席を期待はしていなかったが、イエスについて聞いたことのある遠方からの大多数の巡礼者は、エルサレムで彼にあえるかもしれないという望みを抱いた。そして、かれらは失望しなかった、というのは、イエスは、幾度もソロモンの回廊や寺院の中庭の他の場所で教えたので。これらの教えは、本当にユダヤ民族と全世界へのイエスの神性の公式の、または正式の発表であった。[8]
162:1.10 あるじの教えを聞いた群衆の意見は、分かれていた。ある者は、イエスが良い人であると言い、ある者は、予言者であると言い、ある者は本当に救世主であると言い、他の者は、奇妙な教義で人々を惑わせている悪戯好きのお節介屋であると言った。イエスの敵は、彼の好意的な信者を恐れ、公然と糾弾することを躊躇い、一方イエスの友人達は、シネヅリオン派が、彼を死に追いやる固く決心していることを知っており、ユダヤの指導者達を恐れ、公然と承認することを懸念した。しかし、彼がユダヤ教の律法者の育成学校で教育を受けていないことを知るその敵でさえも、イエスの教えに驚嘆した。[9][10]
162:1.11 イエスがエルサレムに行く度に、恐怖が使徒を襲った。イエスが地上での任務の本質に関してますます大胆な表明を聞くにつれ、かれらは、日々ますます恐れた。彼の友人の間で説教する時でさえ、イエスがそのような積極的な要求と驚くべき主張を聞くことに、かれらは不慣れであった。
162:2.1 寺院で教えた最初の午後、大勢の人は、新しい福音と自由と良い知らせを信じる者の喜びについて描写するイエスの言葉を座って聞いていると、好奇心の強い聴取者が、彼を遮って、「先生、あなたはユダヤの師からの教育を受けていないと聞いていますが、なぜそれほど流暢に聖書を引用したり人々に教えることができるのですか。」と尋ねた。イエスは答えた「誰も、私が表明する真実を教えてはくれなかった。またこの教えは、私のものではなく、私を送ったあの方のものである。誰かが、本当に父の意志を為すことを望むならば、それが神の教えであろうが、私が自分に関して話す教えであろうが、その人は、私の教えを確かに知るであろう。自分のために話す者は、自身の栄光を求めているが、父の言葉を表明するとき、私は、それによって私を送られたあの方の栄光を求めている。しかし、新たな光に入ろうとする前に、あなたは、むしろすでに持っている光の後を追うべきではないのか。モーシェは法を与えたが、あなた達のどれほど多くの者が、その要求を正直に満たそうとしているのか。モーシェは、この法で『殺してはならない』と命じているにもかかわらず、あなた方の一部は人の息子を殺そうとしている。」[11][12]
162:2.2 これらの言葉を聞くと、群衆は口論を始めた。ある者は、イエスは気が狂っていると言い、ある者は、彼には悪魔がいると言った。他のものは、これが、本当に筆記者とパリサイ派が長い間殺そうとしていたガリラヤの予言者であると言った。ある者は、宗教当局は危害を加えるのを恐れていると言い、他のものは、彼らが彼の信者になったので逮捕しないと思った。かなりの議論の後、群衆の一人が、前進してイエスに尋ねた。「支配者達はなぜあなたを殺そうとするのですか。」そこで、イエスが答えた。「王国の朗報、つまり、これらの教師が、どうしても支持すると決めている形式的な宗教儀式の人の重荷になっている伝統から人を解放する福音に関する私の教えに憤慨するが故に、支配者達は、私を殺そうとしている。かれらは、安息日の法に沿って割礼を施すが、私が、一度安息日に苦悩に束縛されている男性を解放したというので私を殺したいのである。彼らは、安息日に見張りのために私の後をつけるが、私が、別の機会に、痛ましい傷ついた男性を安息日に完全に癒すことにしたので、私を殺したいのである。あなたが正直に信じ、思い切って私の教えを受け入れると、伝統的な宗教形態が覆される、永遠に崩壊されるであろうということを充分に知っているので私を殺そうとするのである。このように、かれらは、この新しく、より栄えある神の王国の福音を受け入れることを断固として拒否するので、自分達の人生を注いだ権威を奪われるのである。さて、今度は、私が、あなた方一人一人に訴える。外観で判断するのではなく、これらの真の教えの精霊によって判断しなさい。公正に判断しなさい。」[13]
162:2.3 その時、別の尋問者が言った。「はい、先生、私達は救世主を探していますが、救世主来るとき、その見かけは、神秘であるということを知っています。私達は、あなたが何処からいらしたか知っています。始めからあなたはあなたの同胞の中におられます。救出者は、ダーヴィドの王国の王座を再建すために政権を携えて来ます。あなたは、救世主であると本当に主張されるのですか。」そこで、イエスが答えた。「あなたは私を知り、また、どこから来たかを知ると主張する。私は、あなたの主張が本当であったならばと思います、なぜならば、あなたは、本当に、その知識によって豊かな人生を発見するであろうから。だが、私は、自分自身ではあなたの所に来なかったと断言する。私は父によって送られ、私を送られた方は、真実で誠実である。私の言うことを拒否するということは、私を寄こされたあの方の受け入れを拒否しているのである。もしこの福音を受け入れるならば、あなたは、私を送られた方を知るようになるであろう。私は、父を知っている、というのも、私は、彼について宣言し、示すために父の元から来たのであるから。」[14]
162:2.4 律法者の間者達は、イエスを逮捕を欲したのだが、多くの者が彼を信じていたことから群衆を恐れた。洗礼以来のイエスの働きは、すべてのユダヤ人によく知られるようになり、また、これらの人々が、これらのことについて詳しく話すとき、彼らの間で、「この師は、ガリラヤの出身ではあるが、また我々の救世主への期待のすべてに当て嵌まるという訳ではないが、救出者が来るとき、かれは、このナザレのイエスがすでにした以上に本当に何か素晴らしいことをするのか疑問に思う。」と言うのであった。[15]
162:2.5 パリサイ派とその間者は、人々がこのように話しているのを聞くと、指導者達と相談し、寺院の中庭におけるイエスのこれらの公けの出現を阻止するために直ちに何かをすべきだと評決した。一般に、ユダヤ人の指導者は、ローマ当局が、捕縛免除を彼に約束したと信じて、イエスとの衝突を避ける傾向にあった。かれらは、さもなければ、このときのエルサレムへの到来のイエスの大胆さを説明することができなかった。しかし、シネヅリオン派の役員は、この噂を全く信じなかった。かれらは、ローマの支配者がそのようなことを秘かに、またユダヤ国家の最高首脳部に知れずにはしないと推論した。[16]
162:2.6 従って、シネヅリオン派の然るべき役員エベーが、2人の助手を伴いイエスの逮捕に派遣された。エベーがイエスに向かって進んでいる間、あるじは言った。「私に近づくことを恐れてはいけない。私の教えを聞きながら近づきなさい。あなたが、私の逮捕のために送られてきたのは分かっているが、その時が来るまで人の息子には何も起こらないということを理解するべきである。あなたは私に相対して配置されてはいない。あなたは、ただ主人の言いつけ通りにするために来たのであり、また、秘かに私の滅亡を求めるとき、ユダヤのこれらの支配者達さえ神への奉公をしていると本当に思っている。[17][18]
162:2.7 私は、何の悪意もあなたに抱いてはいない。父はあなたを愛しており、私は、それ故、偏見の束縛と伝統の暗黒からのあなたの解放を切望しているのである。私は、命の自由と救済の喜びをあなたに提示している。私は、新しくて生きた道、悪からの救出と罪の束縛の破壊を宣言する。私は、あなたが命を得られるように、永遠に得られるように来た。あなたは、私と不安にさせる私の教えを取り除こうとしている。あなたが、私はあなたとほんの少しだけいることになっていると、分かることができさえすればよいのだが。ほんのわずかの時間で、私は送られたあの方の元に行くのである。そして、それから、あなたの多くは、勉めて私を探すが、私が行こうとしているところへあなたは来ることができないのだから、私を探し当てはしないであろう。しかし、本当に私を見つけようとする者すべては、私の父につながる人生にいつか到達するであろう。」[19][20][21][22][23]
162:2.8 嘲笑者の何人かは、仲間うちで言った。「我々が見つけることのできないいずこにこの男は行くのだろうか。ギリシア人の間に暮らしに行くのだろうか。自滅するつもりなのだろうか。すぐに我々から離れると宣言するのは一体どういうことか。」[24]
162:2.9 エベーとその助手達は、イエスの逮捕を拒否した。かれらは、イエスを連れずに自分達の会合場所に戻っていった。イエスを連れて来なかったので、主だった祭司とパリサイ派が、エベーとその助手を咎めると、エベーは単に、「我々は、多くの者がイエスを信じているので群衆の真っ只中で逮捕するのを恐れました。また、我々は、この男のように話す者を決して聞いたことがありません。この先生には並外れた何かがあります。あなた方全員、彼の話を聞きに行かれた方がいいでしょう。」と言った。すると主だった支配者は、これらの言葉を聞くと驚いて、エベーに嘲って言った。「お前も惑わされたのか。この詐欺師を信じようとしているのか。我々学識ある者や支配者の誰かが、彼を信じたと聞いたのか。筆記者やパリサイ派の誰かが、彼の巧みな教えに騙されたと聞いたのか。なぜ、法も予言者達も知らないこの無知な群衆の振舞いに影響されるのか。教育を受けていないそのような者達は、呪われているのを知らないのか。」すると、エベーが答えた。「例えそうだとしても、ご主人様、この男は、慈悲と希望の知らせを群衆に伝えております。落胆者を励ましておりますし、その言葉は、我々の魂にとってさえ慰めであります。聖書の救世主ではないかもしれなくても、これらの教えの何が間違いであり得ましょうか。そして、それでも、我々の法は、公正を必要とはしていませんか。あの男の言うことを聞く前に非難するのですか。」すると、シネヅリオン派の長は、激怒してエベーに向かって言った。「気が狂ってしまったのか。もしかするとお前もガリラヤの出か。聖書をよく見てみろ。そうすれば、ガリラヤからは予言者は出ず、ましてや、救世主など出てはこないということが分かるであろう。」[25][26]
162:2.10 シネヅリオン派は、混乱して解散し、イエスは、その夜ベサニアに撤退した。[27]
162:3.1 その告発者とイエスの敵が、悪い評判の一人の女性を彼の元に連れて来てイエスが対処したのは、エルサレムのこの訪問中のことであった。この出来事についての歪曲された記録は、この女性が、筆記者とパリサイ派によってイエスの前に連れて来られたということ、そしてイエスが、これらのユダヤ人の宗教指導者が、不道徳の罪を犯したかもしれないと暗示しているかのように彼らを扱ったということを示唆している。イエスは、これらの筆記者とパリサイ派が、精霊的に盲目であり、伝統への忠誠心で知的に偏見を抱くと同時に、その時代と世代の最も徹底的に品行方正である人々のなかに数えられるということをよく知っていた。[28]
162:3.2 本当に起こったのは、こうであった。祭りの3日目の早朝、イエスが寺院に近づいていると、一人の女性を引き摺っているシネヅリオン派に雇われた間者の一団が、会いにきた。彼らが近づくと、代表者が言った。「先生、この女は姦淫—まさにその行為—で捕まりました。さて、モーシェの法は、そのような女には投石をするべきであると命じています。あなたは、この女に何をすべきだと言われますか。」[29]
162:3.3 敵の企みは、イエスが、自白した違反者に投石を要求するモーシェの法を支持すれば、ローマ裁判所の承認なしで死刑を課すユダヤ人の権利を否定したローマの支配者達との困難に彼を巻き込むことであった。彼が、女に投石することを禁じれば、かれらは、シネヅリオン派の前でモーシェとユダヤ人の法より上に彼自身をもち上げたとして告訴するつもりであった。かれらは、彼が、黙したままでいるならば、臆病者だと批難するつもりであった。ところが、あるじは、全体の陰謀がそれ自体の浅ましい重さで粉々になるように状況を取り仕切った。[30]
162:3.4 かつて器量の良かったこの女は、彼の若い時代ずっとイエスに対して揉め事を起こしていたナザレの野卑な市民の妻であった。この女と結婚した男は、不届きにも妻の身体で商売をさせ、自分達の生計を立てることを強要したのであった。男は、財政的な収益のために、妻がこうして肉体的な魅力を売ることができるようにエルサレムの祭にやって来たのであった。その結果、営利化された悪習でこのように妻に対する背信行為のためにユダヤ人支配者達の金目当てに働く者達と契約を結んでいた。そこで、間者の一団は、イエス対して逮捕に際して使用できる何らかの申し立てを作り、イエスを罠にはめる目的のために女とその犯罪の相手とやって来たのであった。
162:3.5 イエスは、群衆を見渡して女の夫が群衆の後ろに立っているのを見た。それがどういう男であるかを知っており、卑劣な取り引きに関係していると知った。イエスは、まずこの堕落した夫の立っている近くを歩き回り、そして砂に幾つかの言葉を書くと、男は急いで去って行った。次に、かれは、この女の前に戻り、自称の告発人達のために、再び地面に書いた。イエスの言葉を読むと、かれらは、また、一人ずつ立ち去った。あるじが3度目に砂に書くと、この女性の悪事の相手は出発した、それで、この書く動作から立ち上がると、あるじは、自分の前に一人で立つ女性を見た。イエスは、「女よ、告発者達はどこにいるのか。誰もあなたに石を投げるために残らなかったのか。」と言った。すると、女性は目を上げて、「誰も居ません、ご主人様」と答えた。そこで、イエスは、「私はあなたについて知っている。私もあなたを非難はしない。穏やかに行きなさい。」そして、この女性、ヒルダナは、邪悪な夫を見捨て王国の弟子に仲間入りした。[31]
162:4.1 スペインからインドまでの既知の世界の全域からの人々の出席は、イエスにとり会堂の祭りをエルサレムで初めて公的に全福音を宣言する理想的な機会にした。人々は、この祝祭日に多くの時を野外で、枝葉でできた仮小屋で生活をした。この時がそうであったように、それは、収穫の祭であり、涼しい秋の到来であったし、冬の終わりの過ぎ越し、あるいは、夏の始めの五旬節よりもより広範囲にわたって世界からのユダヤ人が出席していた。使徒は、全世界の前で地球での自分の任務について、あるじが、大胆な発表をするのを遂に目にした。[32]
162:4.2 他の祝日には何の生贄も捧げなかった埋め合わせが、この時にすることが出来たので、これは、祭の中の祭であった。これは、寺院への捧げ物の受領の時であった。それは、宗教的な崇拝の厳粛な儀式と休暇の喜びの組み合わせであった。ここには、生贄、レビ族の聖歌、祭司の銀のトランペットの厳粛な吹奏音の入り混じる民族的な歓喜の時であった。夜、寺院とその巡礼者の群れの感動的な光景は、女性用の中庭で明るく燃えるすばらしい枝つきの燭台と、寺院の中庭の周囲に立つ何十個ものかがり火の煌めきに鮮やかに照らされた。全市は、アントニアのローマの城以外は華やかに飾りつけがされており、また厳しい対照でこの祝祭と信心深い光景を見下ろしていた。そしてユダヤ人は、このつねに存在するローマのくびきの名残りをいかに嫌ったことか。[33]
162:4.3 異教の70ヶ国の象徴である70頭の去勢牛が、祭中に生贄として捧げられた。水のほとばしりの儀式は、神霊のほとばしりを象徴した。祭司とレビ族の日の出の行列の後には、水のこの儀式が続いた。礼拝者達は、銀のトランペットの連続する吹奏音と共に、イスラエルの中庭から女性専用の中庭へと繋がる階段を下りていった。そうして、忠実な信者達は、美しの門に向かって行進した。その門は、非ユダヤ人の中庭に通じていた。ここで、かれらは、西に向いて聖歌を繰り返し、象徴的な水の方角に行進を続けるために向きを変えた。
162:4.4 祭の最終日、レビ族の数に相当するおよそ450人の祭司は、役目を務めていた。夜明けには、巡礼者の各々が、左手にギンバイカと柳と棕櫚の枝の束を、右手にはヤマ林檎—シトロン、または「禁断の果実」の枝を抱え街の全域から集まった。これらの巡礼者は、この早朝の儀式のために3集団に分かれた。1つの集団は、朝の生贄の儀式に出席するために寺院に残った。別の集団は、生贄の祭壇の飾りつけ用の柳の枝を切るためにエルサレムを下ってマーザ近くへと行進すると同時に、3番目の集団は、銀のトランペットの音に合わせてオペルから噴水門のあるシロアー近くに向かう象徴的な水を堪えた金色の水差しを持つ水祭司の後に続いて寺院から行進した。金の水差しがシロアーの池で満たされた後、行列は、寺院へと行進し手戻り、水の門に入り、司祭の中庭に直接行き、そこで飲み物の提供のためにワインを持つ祭司が、水差しを持つ祭司と合流した。それから、この2人の祭司は、祭壇の土台に通じる銀の漏斗に向かって行き、そこに水差しの中身を注いだ。ワインと水を注ぐこの儀式の遂行は、集まった巡礼者に詩篇の113から118までの詠唱をレビ族と交互に始める合図であった。かれらは、これらの節を繰り返しながら、祭壇に束を振って合図をした。それからかれらは、祭りの最終日の詩篇82であることから当日の詩篇の反復に関連づけて5節目の詩で始めてその日の生贄の儀式を執りった。[34][35]
162:5.1 祭りの最終日の前夜、場面が枝つき燭台と松明の灯りで鮮やかに照らされているとき、イエスは、集いきた人々の真っ只中に立ち上がって言った。
162:5.2 「私は世の光である。私について来る者は暗闇を歩まず、命の光を持つであろう。あなた方は、私を裁判にかけ、私の裁判官として座ると決め込んでおり、もし私が自分自身の証言をしても、私の目撃者が本当であるはずがないと宣言する。しかし、被創造者が創造者を裁判することは決してできない。たとえ私が自分自身の証言をしたとしても、その証言は永久に本当である、なぜならば、私は自分がどこから来て、誰であるか、どこへ行くのかを知っているのであるから。人の息子を殺したい者は、私がどこから来て、誰であるのか、どこへ行くのかを知らない。あなた方は、肉体の外見から判断するだけである。あなた方は、精霊の現実を認めない。私は、誰をも、宿敵さえも審判しない。しかし、私が、裁くことを選ぶならば、私は単独ではなく、私を世界に送り出し、すべての真の審判の源である私の父と共同して裁くので、私の審判は、真実で、公正であるだろう。あなた方は、頼りになる2人の目撃者が受け入れられることを許しさえする—さて、それから、私は、これらの真実の証言をする。それでまた、天の私の父も、またそうされる。そして、私が、昨日これを伝えたとき、あなたは、暗闇で『あなたの父はどこにいるのか。』と私に尋ねた。確かに、あなた方は、私も私の父も知らない。もし私を知っていたならば、父も知っていたであろうから。[36][37]
162:5.3 私は、私が立ち去る予定であるということ、そして、あなた方が私を探すが、私が行くところへは来られないので、私を見つけないということを、すでに伝えてきた。この光を拒む者は、下から来た者である。私は上から来たのである。暗闇に座ることを好む者は、この世の者である。私は、この世の者ではなく、光の父の永遠の光の中に生きている。あなた方全員には、私が誰であるかを学ぶ有り余るほどの機会があったが、人の息子の正体を確認する他の証拠は、まだまだあるであろう。私は命の光であり、故意に、また知りつつこの救いの光を拒絶する者は誰でも、罪で死ぬのである。私には、言わなければならないことが、たくさんあるが、あなた方は私の言葉が受け入れられない。しかしながら、私を送られた方は真実であり、誠実であられる。私の父は、自分の過ちを犯している子供さえ愛される。父が話されたその全てを、私もまた世界に宣言する。[38][39][40][41]
162:5.4 「人の息子が上げられるとき、あなたは全員、私がその者であり、私が何も勝手にしたのではなく、父が私に教えられた通りにしたのだということを知るであろう。私はこれらの言葉をあなたと、その子供達に話す。また、今でも、私を送られた方は、私と一緒におられる。私がいつも父の目に喜ばしい事をするので、あの方は、私を放ってはおかれなかった。」[42]
162:5.5 多くの者は、イエスが寺院の中庭で巡礼者にこのように教えた通りに信じた。そして、誰もイエスを敢えて捕らえようとはしなかった。[43]
162:6.1 最終日、祭りの重要な日、シロアーの池からの行列が寺院の庭を通り抜け、祭司が祭壇で水とワインを注いですぐ後に、イエスは、巡礼者の間に立って言った。「誰でも喉が渇いているならば私のところに飲みに来させなさい。上におられる父から、私が命の水をこの世に持って来る。私を信じる者は、この水が意味する精霊に満たされるであろう、なぜなら聖書にさえ『あの方から生ける水が流れ出すであろう。』とある。人の息子が、地球での仕事を終えたとき、真実の聖霊は、すべての肉体に注がれるのである。この精霊を受ける者は、決して精霊的な渇きを知らないのである。」[44][45]
162:6.2 イエスは、これらの言葉を話すために礼拝を中断しなかった。ハレルの唱和直後、イエスは、祭壇前で枝を振るのに合わせて詩篇からの交読文を礼拝者に述べた。生贄が準備される間の丁度ここでひと一区切りあり、巡礼者は、あるじが、魅力的な声で自分が精霊に渇きを覚えるあらゆる魂に生ける水を与える者であると宣言するのを聞いたのが、このときであった。
162:6.3 この早朝の礼拝のまとめに当たり、イエスは、さらに群衆に続いて教えた。「あなたは、聖書の以下の部分をまだ読んではいないのか。『見よ、水が乾いた地面に注がれ、からからの土壌に広がるように、私はあなたの子供に、あなたの子供のその子供にまでも聖なる精霊を与えよう。』人間の習わしで魂に水を注ごうとしながら、儀式用の壊れた水差しで注ごうとしながら、あなたは、なぜ精霊の活動に渇望するのであろうか。あなたがこの寺院の周りで起きていることを見ることは、あなたの父が信仰の子等に神霊の贈与を象徴しようとする手段であり、あなた達はこれらの象徴を、この世代にまでも、よく永続きさせてきた。しかし、今、精霊の父の顕示が、息子の贈与を通してこの世代にやって来ており、そして、この全ては、人間の子等への父と息子の精霊の贈与に確実に続くであろう。信仰を持つあらゆる者には、精霊のこの贈与が、永遠の命に通じる道への、地上の王国での、そして、あちらの父の楽園での真の命の水に通じる道への真の教師になるであろう。」[46][47]
162:6.4 そして、イエスは、群衆とパリサイ派の両方の質問に答え続けた。ある者は、イエスが予言者であると思い、ある者は救世主であると信じた。他の者は、彼が、ガリラヤの出身であったこと、また救世主は、ダーヴィドの王座を回復しなければならないということから、キリストであるはずがないと言った。それでも、彼らは、イエスを逮捕する勇気がなかった。[48]
162:7.1 祭の最終日の午後、そして、使徒が、エルサレムから逃げるようイエスの説得の努力に失敗した後、イエスは、教えるために再び寺院に入った。かれは、ソロモンの回廊に集合した信者の大集団を見つけて話した。[49]
162:7.2 「私の言葉があなたにとどまり、私の父の意志をする気があるならば、あなたは、本当に私の弟子である。あなたは真実を知るであろうし、真実はあなたを自由にする。私には、あなたがどう答えるかが分かっている。我々は、アブラーハームの子孫であり、誰にも束縛されてはいない。では、我々はどのように自由になるのであろうか。だとしても、私は、他者の命令への実際の隷属について話しているのではない。私は、魂の自由に言及している。誠に、誠に、言っておく。罪を犯す者は誰でも、罪の奴隷である。そして、あなたは、奴隷が、あるじの家にいつまでも留まりそうにないということを知っている。あなたは、息子が、父の家に留まるということも知っている。従って、もし息子があなたを自由にするならば、あなたを息子にするというのであれば、あなたは、本当に自由になるであろう。[50]
162:7.3 私は、あなたがアブラーハームの子孫であることを知っているが、あなたの指導者達は、彼らの心の中で私の言葉が変わる影響を許さなかったので、私を殺そうとするのである。指導者達の魂は、偏見によって堅く閉ざされ、高慢な報復に目がくらんでいる。これらの騙された教師達が、この世の祖先だけから学んだことをしようとする一方で、私は、永遠なる父が私に示す真実をあなたに宣言する。そして、あなたが、アブラーハームが父であると答えるとき、あなたがアブラーハームの子孫であるならば、そこで、私は、アブラーハームの業をするようにあなた教えるのである。あなた方の一部は、私の教えを信じるが、他の者達は、私が神から受ける真実を話したので、私を滅ぼそうとする。だが、アブラーハームは、神の真実をそのように扱わなかった。私は、あなた方の中の何人かが、邪悪な者の働きをすることを決意していると察知する。神があなたの父であるならば、あなたは、私を知り、私が明らかにする真実を愛するであろうに。私が、父からやって来たということ、神に遣わされたということ、自分勝手にこの仕事をしていないということが分かってもらえないであろうか。私の言葉をなぜを理解してくれないのか。それは、悪の子になる方を選んだからなのか。あなたが闇の子であるならば、あなたは、私が明らかにする真実の光の中を歩くことはほぼないであろう。悪の子は、詐欺師であり、いかなる真実ももって生まれなかったので真実を支持しなかった自分達の父の方法だけに続いていく。しかし、いま、真実を語り真実に生きる人の息子が訪れるているのに、あなた方の多くは、信じることを拒否している。[51][52][53]
162:7.4 「あなた方のうちの誰が、私に有罪判決を下すのか。それから、私が、父によって示された真実を宣言し、真実に生きるならば、あなたは、なぜ信じてくれないのか。神と共にいる者は、快く神の言葉を聞く。あなたは、神と共にいないこの理由から、あなたの多くは、私の言葉を聞かない。あなたの師は、私が悪魔の王子の力で仕事をすると決めつけて言いさえしてきた。私の近くにいる者は、私には悪魔がいると、悪魔の子であると言ったところである。しかし、正直に自身の魂に対処するあなた方全員には、私が悪魔ではないということがよくわかっている。あなたは、私を恥しめる間さえ、私が父を敬うということを知っている。私は、私自身の栄光ではなく、楽園なる父の栄光だけを求める。そして、私は、あなたを裁きはしない。私の代わりに裁く方がおられるので。[54]
162:7.5 「私は、人が、真実のこの言葉をその心に生かし続けるならば、その人は、決して死を味わうことはないと福音を信じる者に、誠に、誠に、はっきりと言っておく。いまちょうど私の側では、筆記者が、アブラーハームが死んでおり、予言者も死んでいることから私には悪魔がいる、とこの声明が立証していると言っている。そして、かれは、『ここに敢えて立ち、お前との約束を守る者は、誰とても死を経験しないと言うまでにお前はアブラーハームと予言者達よりもはるかに偉大であるのか。大胆不敵にもそのような不敬な言葉を発するとは自分が誰であるというのか。』と尋ねている。私は、自分自身を讃美しているのであれば、栄光など何一つないと皆に言う。だが、私を誉められるのは、父、他ならぬあなたが神と呼ぶ同じ父である。しかし、あなたは、このあなたの神であり私の父を知ることができなかった、そこで、私は、本当に神の息子になる方法をあなたに示すためにやって来た。あなたは父を知らないが、私は本当に父を知っている。アブラーハームでさえ私の時代を見ることを喜び、そしてかれは、信仰によりそれを見て、喜んだのであった。」[55][56]
162:7.6 この時までに集まってきた懐疑的なユダヤ人とシネヅリオン派の間者達は、これらの言葉を聞くと騒ぎ立て、「お前は50歳ではないのにアブラーハームに会うということを話す。お前は悪魔の子だ。」と叫んだ。イエスは、講話を続けることができなかった。出発に際し、かれは、「誠に、誠に、私は、アブラーハーム以前に私はいるとあなたに言う。」とだけ言った。信じないものの多くは、イエスに投げようと急いで石を取りに、また、シネヅリオン派の間者は、イエスを捕縛しようとしたが、あるじは、素早く寺院の廊下を擦りぬけ、マールサ、マリア、ラーザロスの待ち受けるベサニア近くの密会場所へと逃れた。[57]
162:8.1 ユダヤ当局が再びイエス逮捕の計画に大胆になっていたので、イエスにはラーザロスとその妹達と友人の家に宿泊するという手配がされ、使徒達は、小班で散在するこれらの予防措置がとられた。[58]
162:8.2 長年、イエスが偶々訪問するときはいつも、この3人は、すべてを差し置いてその教えを聞くのが習慣であった。両親を亡くしたことで、マールサは、家庭生活の責任を引き受けてきており、この時も、ラーザロスとマリアは、元気づける教えに深く聞き入りイエスの足元に座ったが、マールサは、夕食の用意をした。マールサは、数多くの不必要な仕事で余計に必要以上に気が散り、また、多くの些細な心配事で苦労すること、それが、彼女の気質であるということが理解されるべきである。[59]
162:8.3 マールサは、これらのすべての想定した任務で忙しくしており、マリアが何も手伝わないので不安になっていた。したがって、彼女は、イエスのところに行って「あるじさま、妹が給仕の支度の全てを私一人に任せているのを気になさらないのですか。来て手伝うように命じてもらえませんか。」と言った。イエスは答えた。「マールサ、マールサ、何故いつもそんなに多くのことを気に掛けたり、多くのつまらないことに煩わされるのか。1つのことだけが、本当に価値があるのだよ。そして、マリアは、この良くて必要な部分を選んだので、私は、彼女からそれを取り上げるつもりはないよ。それにしても、あなた方二人は、私が教えたように生き、協力して仕え、調和して二人の魂を新たにすることをいつ学ぶのであろうか。すべてには時間があるということ—人生の小事は、天なる王国のより重要な事柄に道を譲るべきであるということ—を学ぶことができないのかい。」[60]
162:9.1 多くの信者が、会堂の祝宴の翌週を通してベサニアに集まり、12人の使徒から指示を受けた。シネヅリオン派は、イエスが出席していなかったので、これらの集会に危害を加える努力をしなかった。イエスは、この間ずっと、アブネーとその仲間と共にベツレヘムで働いていた。祭り終了の翌日、イエスは、ベサニアに出発し、エルサレムへのこの訪問の間、寺院では二度と教えなかった。
162:9.2 この時、アブネーは、ベツレヘムに本部を置いており、そしてそこからユダヤと南のサマリアの都市へ、また、アレキサンドリアにさえ多くの労働者を送り出していた。イエスとアブネーは、イエス到着の数日中に使徒の2集団の仕事の整理統合の手筈を終了した。
162:9.3 会堂の祭りへの訪問中、イエスは、ベサニアとベツレヘムにほぼ等分の時間を配分した。かれは、ベサニアでは、かなりの時間を使徒と過ごした。ベツレヘムでは、アブネーと他の元ヨハネの使徒に多くを教えた。そして、これらの者にイエスを信じるように最終的導いたのは、この親密な接触であった。洗礼者ヨハネのこれらの元使徒は、イエスのエルサレムでの公の教えで示した勇気と、ベツレヘムでの個人的な教えで経験した思いやりのある理解によっても影響を受けた。これらの影響は、最終的に、そして完全にアブネーの仲間をそれぞれの王国の心からの受け入れとそれへの踏み出しの含意へと引き入れた。
162:9.4 遂にベツレヘムを去る前、あるじは、肉体での地球経歴の結末に先立ち皆が一丸となって払う努力で自分に合流するように手配をした。それは、アブネーとその仲間が、近い将来マガダン公園でイエスと12人に合流しようとの同意であった。
162:9.5 この同意に従い、11月上旬、アブネーとその11人の仲間は、イエスと12人と運命を共にし、磔刑までずっと1組織として働いた。
162:9.6 10月後半、イエスと12人は、エルサレムの近隣地域から引き上げた。10月30日、日曜日、イエスとその仲間は、イエスが数日間一人離れて休息していたエフライェムの街を出発し、西ヨルダン街道経由で真っ直ぐにマガダン公園に向かい、11月2日、水曜日の午後遅くに到着した。
162:9.7 使徒達は、あるじが親しみのある土地に戻り、大いに安心した。これ以上、かれらは、王国の福音の公布のためにエルサレムに行くことをあるじに急き立てることはなかった。