188:0.1 イエスの必滅の身体が、ヨセフの墓に横たわる1日半、すなわち十字架上での死とその復活の間の期間は、我々にはほとんど知られていないミカエルの地球経歴における1章である。人の息子の埋葬を述べ、その復活に関連する出来事をこの記録に組み入れることはできるが、我々は、金曜日の午後3時から日曜日の朝3時までのおよそ36時間に本当に起きた確かな多くの情報を供給することはできない。あるじの経歴におけるこの期間は、ローマ兵士に十字架から引き下ろされる直前に始まった。イエスは、その死後およそ1時間十字架上にいた。2人の山賊の片付けに手間取らなければ、もっと早くに下ろされていたであろう。
188:0.2 ユダヤ人の支配者達は、イエスの遺体を都の南のゲ ヒンノムの無蓋の埋葬穴に投げ入れさせる計画であった。磔の犠牲者をこのように処分するのが習慣であった。もしこの予定が実行されていたならば、あるじの遺体は、野獣に曝されていたことであろう。
188:0.3 そうしているうちにも、アリマセアのヨセフは、ニコーデモスに伴われてピーラトゥスの元に行き、適切な埋葬のためにイエスの遺体引き渡しを願い出た。磔にされた者の友人がそのような遺体所有の権利のためにローマ当局に賄賂を贈ることは珍しくなかった。ヨセフは、イエスの身体を個人の墓地に移行する許可の代価の支払いに必要な際に備えて、多額の金を持ってピーラトゥスの前に行った。しかし、ピーラトゥスは、このための金を取ろうとはしなかった。ピーラトゥスは、要求を聞くとヨセフがすぐにゴルゴタに赴き、あるじの遺体の即座の、かつ完全な所有を認可する命令書に署名した。そのうちに、砂嵐はかなり弱まり、シネヅリオン派を代表するユダヤ人の一団は、イエスの身体が山賊のそれらと一緒に無蓋の公共の埋葬穴に入れられることを確実にする目的でゴルゴタへと出かけていった。[1]
188:1.1 ヨセフとニコーデモスがゴルゴタに到着したとき、かれらは、兵士達が、十字架からイエスの身体を下ろしており、シネヅリオン派の代表が、追随者の誰もイエスの遺体を罪人の埋葬穴への到達を防げないことを傍観しているのがわかった。ヨセフが、百人隊長にあるじの遺体を求めるピーラトゥスの命令書を提示すると、ユダヤ人達は、騒ぎたててその所有を喧しく要求した。かれらは、喚き散らし、遺体を乱暴に手に入れようとし、そしてこれを果たしたとき、百人隊長は、4人の兵士に自分の側に来るように命令するとともに、抜いた剣を手にして地面に横たわるあるじの遺体を跨いで立った。百人隊長は、激怒するユダヤ人暴徒を退けている他の兵士達に2人の泥棒を残すように命令した。状況が収まると、百人隊長は、ピーラトゥスからの許可証をユダヤ人に読み聞かせ、脇へ寄ってヨセフに「この遺体はお前が適当にしてよい。私と兵士が、誰も手出しをせぬよう待機しておるぞ。」と言った。
188:1.2 磔にされた者は、ユダヤ人墓地に埋葬されることはできなかった。厳しい法律が、そのような手続きに対してあった。ヨセフとニコーデモスは、この法律を知っていた。そして、ゴルゴタの北の近い距離に位置し、サマリアに通じる道路の向かいの道のヨセフの家族の新しい墓、硬い岩石を切り出した墓にイエスを埋葬すると決めた。まだ誰もこの墓には横たえられていなかった。二人は、あるじがそこに休息するのが適切であると考えた。ヨセフは、イエスが蘇ると本当に信じたが、ニコーデモスは、非常に疑わしく思った。シネヅリオン派のこれらの元成員は、多少なりともイエスへの信仰を秘密にしていたが、シネヅリオン派の仲間は、長い間、彼らが協議会から退く前からすでに疑っていた。この後二人は、エルサレム中で最も大胆に物を言うイエスの弟子であった。[2]
188:1.3 ほぼ4時半過ぎ、ナザレのイエスの埋葬行列は、ゴルゴタから道の向こう側のヨセフの墓へと出発した。4人の男性がそれを運び、遺体は、麻布に包まれており、ガリラヤからの忠実な通夜の女性達がそれに続いた。イエスの形ある遺体を墓に運んだ者達は、ヨセフ、ニコーデモス、ヨハネとローマ百人隊長であった。[3]
188:1.4 かれらは、ほぼ9平方メートルの墓室に遺体を運び、大急ぎで埋葬準備をした。ユダヤ人は、実際には死者を埋葬しなかった。かれらは、実際には腐敗処理を施した。ヨセフとニコーデモスは、大量のミルラとアロエを携帯してきており、これらの溶液を含ませた包帯でさっそく遺体を包んだ。腐敗処理を終えると、かれらは、顔の回りに小片の布を結びつけ、身体には麻布を巻きつけて、うやうやしくそれを墓の棚に置いた。[4]
188:1.5 遺体を墓に納めた後、百人隊長は、兵士達に石戸を墓の入り口の前に転がすのを手伝うようにと合図した。兵士達は、それから盗賊の遺体と共にゲ ヒンノムに出発し、他の者は、モーシェの法に従い過ぎ越しの祝いのためにエルサレムに、悲しみのうちに戻っていった。
188:1.6 これは、準備の日であり、安息日は速やかに近づいていたので、イエスの埋葬はかなり大急ぎであった。男達は都に急いで帰ったが、女達は、とても暗くなるまで墓の近くに留まった。
188:1.7 このすべてが進行する間、女達は、全てを観察し、あるじがどこに横たえられるのかを見届けるために近くに隠れていた。そのような時に男性との交わりが許されていなかったので、女性達は、このように身を隠した。これらの女性は、イエスが埋葬のために適切に支度を整えられていたとは思わなかった。そこで、自分たちであるじの遺体を然るべく準備するためにヨセフの家に戻り、安息日の間休息し、香料と塗薬を用意し、日曜日の朝戻ることにした。この金曜日の夕方、墓に長居していた女性等は、次の通りであった。マグダラのマリア、クロパスの妻マリア、イエスの母のもう一人の姉妹であるマールサ、それにセーフォリスのレベッカ。[5]
188:1.8 ダーヴィド・ゼベダイオスとアリマセアのヨセフは別として、イエスが3日目に墓から甦るはずであるということを本当に信じたり、または理解していたのは、弟子のほんのわずかであった。
188:2.1 イエスの追随者達が3日目に蘇る約束に無頓着であったとしても、敵は無頓着ではなかった。祭司長、パリサイ派、サドカイ派等は、イエスが死から蘇ると言う報告を受け取ったことを思い出した。
188:2.2 この金曜日の夜、過ぎ越しの夕食後の真夜中頃、一団のユダヤ人指導者は、カイアファスの家に集まり、死後3日目に甦るというあるじの主張に対する自分達の恐怖について語り合った。この会合は、イエスの友人達が、不正に動かすことのないように、イエスの墓の前にローマの護衛兵が配置されるようにとのシネヅリオン派の公式要求を携え、翌日早くピーラトゥスを訪問すべく数人のシネヅリオン会員を任命して終わった。この委員会の代弁者は、ピーラトゥスに言った。「閣下、我々は、この詐欺師、ナザレのイエスがまだ生きている時に、『3日後に甦る。』と言ったことを覚えています。我々は、それ故、その追随者に対し、少なくとも3日後まで、墓を安全にする指示を出されることを要求しに参りました。我々は、弟子達が夜やってきてそれを盗み去り、次には、甦ったと人々に発表しないかと大いに恐れております。これを生じさせてしまいますと、この誤りは、奴を生きらせるよりもはるかに具合が悪いでありましょう。」[6]
188:2.3 ピーラトゥスは、シネヅリオン会員のこの要請を聞くと、「10人の護衛兵を与える。戻って墓を守れ。」と言った。会員達は寺院に戻り、10人の護衛兵を確保し、それから、ユダヤ人のこれら10人の衛兵と10人のローマ兵士と共に、この安息日の朝にもかかわらず、墓の前にこれらの衛兵を配置するためにヨセフの墓へと行進した。これらの男は、墓の前にもう一つの石を転がして行き、知らぬ間に妨害されるといけないのでこれらの石の周りにピーラトゥスの封印をした。ユダヤ人達は、彼らに食べ物と飲み物を運び、この20人の男は、復活の時間まで見張りに残った。[7]
188:3.1 弟子と使徒は、この安息日中、隠れたままでおり、エルサレム全体では、十字架上でのイエスの死を論じ合われていた。このときエルサレムにはローマ帝国とメソポタミアのあらゆる地域からのおよそ150万人のユダヤ人が来ていた。これは、過ぎ越しの始まりの週であり、すべてのこれらの巡礼者は、この都にいてイエスの復活を知り、各自の家にその知らせを持ち帰ることになるのであった。
188:3.2 土曜日の夜遅く、ヨハネ・マルコスは、11人の使徒に自分の父の家に来るように秘かに呼び出しを掛けて、かれらは、ほんの夜中近くに、2晩前にあるじと最後の晩餐をとった上階の同じ部屋に集合した。
188:3.3 イエスの母マリアは、ユダとルースと共に、この土曜日の夕方、ちょうど日没前にベサニアに戻り家族に合流した。ダーヴィド・ゼベダイオスは、使者達が日曜日の朝早々に集合する手筈をしていたニコーデモスの家に留まった。イエスの身体のなお一層の防腐処理をするために香料を準備したガリラヤの女性達は、アリマセアのヨセフ宅に滞在した。
188:3.4 ヨセフの新しい墓で横たわっているはずのこの1日半の間、我々は、ナザレのイエスにまさしく何が起こったのかを説明することは完全にはできない。明らかに、同じ情況においていかなる必滅者もそうであるように、イエスは、十字架上で同様の自然な死を遂げた。我々は、彼が、「父よ、あなたの手に、私の精霊を委ねます」と言うのを聞いた。我々は、イエスの思考調整者が、イエスの人間としての存在とは別にずっと以前に専属化され、維持されていたことから、完全にそのような声明の意味を理解するわけではない。十字架上の物理的な死によってあるじの専属調整者は、いかなる点においても影響を受けることはできなかった。イエスがしばらくの間父の手に委ねたことは、大邸宅世界への人間の経験の写しの転送に備えるように、調整者が必滅者の心を精霊的にする早期の仕事の精霊の割り符であったに違いない。球体上の信仰が成長している必滅者の精霊の性質、あるいは魂に類似したイエスの経験において、何らかの精霊的な現実があったに違いない。しかし、これは、単に我々の意見である—我々は、イエスが父に何を委ねたかを本当に知らない。[8]
188:3.5 我々は、あるじの肉体が、日曜日の朝の3時頃までヨセフの墓で横たわっていたのを知っているが、36時間のその間、イエスの人格の状態に関しては全く確信がない。我々は、時々大胆にもこれらのことについて我々自身に次のような幾つかの説明をした。
188:3.6 1.ミカエルの創造者の意識は、物理的な肉体に関連する人間の心から全体的には完全に自由であったに違いない。
188:3.7 2. この期間中、そして集められた天の軍勢の直接の指揮をして、イエスの元思考調整者が地球にいたことを、我々は、知っている。
188:3.8 3. 肉体の人生の間に確立されたナザレのその男性の身につけた精霊的主体性は、まずは思考調整者の直接努力により、後には、父の意志の決して止むことのない選択によってもたらされたように、必滅者の理想的な生活における物理的な必要性と精霊的な要求の間の彼自身の完全な調整により楽園の父の保護に委ねられていたに違いない。我々は、この精霊の現実が、復活した人格の一部になったかどうかは知らないが、そうなったと信じる。しかし、外周空間の体系化されていない領域の未だ創造されていない宇宙に関して明らかにされていない彼らの目標において、終局者のネバドン部隊の指導力を発揮するために後に解放されるイエスのこの魂の主体性が、現在「父の懐」に安息していると考える者達が、宇宙にはいる
188:3.9 4. 我々は、イエスの人間の、または必滅の意識が、この36時間の間、眠ったと考える。我々には、人間イエスがこの期間、宇宙で生じたことを何も知らなかったと信じる理由がある。人間の意識には、何の時間の経過もなかったようであった。生命の復活は、ちょうど同じ瞬間に、死の眠りに続いた。
188:3.10 これが、墓でのこの期間のイエスの状態に関して我々が記録に残せる全てである。我々は、それらの解釈の着手に全く適してはいないが、言及できるいくつかの関連事実がある。
188:3.11 サタニアの第一大邸宅界の復活の広間の広大な中庭では、現在ガブリエルの紋章入りで「ミカエル記念碑」として知られるすばらしい有形-モランチア構造が、いま観測できる。この記念碑は、ミカエルがこの世界から出発した直後に作成され、次の碑文がある。「ユランチアにおけるナザレのイエスの必滅の変遷を記念して。」
188:3.12 この期間100名を数えるサルヴィントンの最高協議会は、ユランチアにおいてガブリエル主宰の下に行政委員会が開かれたという現存する記録がある。この時期、ユヴァーサの日の老いたるものが、ネバドンの宇宙の状況に関してミカエルと連絡をとったことを示す記録もある。
188:3.13 あるじの遺体が墓に横たわっている間、少なくとも1件の情報が、ミカエルとサルヴィントンのイマヌエルに交わされたことが我々には分かっている。
188:3.14 イエスの身体が墓で休んでいる間、召集されたジェルーセムの惑星王子の組織協議会において、何らかの人格が、カリガスティアの席に座ったと信じるに足る理由がある。
188:3.15 エデンチアの記録は、ノーランティアデクの星座の父が、ユランチにいたということ、そしてイエスがこの墓にいる間、ミカエルから指示を受けたということを示している。
188:3.16 そして外見上の物理的なこの死の間、イエスの人格のすべてが眠っていたのではなく、また無意識ではなかったと示唆する他の多くの証がある。
188:4.1 イエスは、必滅の運命にある人間の民族的な罪を償うためや、あるいは、機嫌を損ね寛大でない神に何らかの効果的な接近法を提供するために十字架でこの死を遂げたのではなかった。人の息子は、自身を神の激しい怒りを静めたり、罪深い者に救済を得る道を切り開く犠牲として提供したのではなかったが、それにもかかわらず、償いと宥めについてのこれらの考えは誤りであるとはいえ、見落とされてはならない十字架上のイエスのこの死に伴う重要性がある。ユランチアが「十字架の世界」として他の隣接する棲息惑星の中で知れ渡ったことは、事実である。
188:4.2 イエスは、ユランチアにおいて肉体での完全な人間生活を送ることを望んでいた。死は、通常、人生の一部である。死は人間の劇における最後の一幕である。十字架上の死の意味の誤った解釈の迷信的な誤りを逃れる善意の努力において、あなたは、あるじの死の真の重要性と本当の意味を認識しないという重大な誤りを犯さぬように慎重でなければならない。
188:4.3 必滅の人間は、決して大詐欺師には属さなかった。イエスは、背教支配者の一団や球体の堕落の王子達の掌握から人を身請けをするために死んだのではなかった。天の父は、先祖の悪行のために人間の魂を要求するそのような馬鹿げた不正を決して発想はしなかった。十字架上のあるじの死は、人類の民族が神に負うこととなった債務返済の努力の犠牲でもなかった。
188:4.4 イエスが地球に住む以前、人はそのような神を信じることが正当だったかもしれないが、あるじが人間の仲間の間で生きて死んでからはそうではなかった。モーシェは、創造者たる神の威厳と正義を教えた。しかし、イエスは、天の父の愛と慈悲を描写した。
188:4.5 動物的な性癖—悪行に向かう傾向—は、遺伝であるかもしれないが、罪は、親から子供へと受け継がない。罪は、意志をもつ個々の生物による父の意志と息子の法に対する意識的かつ故意の反逆行為である。
188:4.6 イエスはこの1つの世界の民族のためだけでなく、1つの宇宙全体のために生きて死んだ。イエスがユランチアで生きて死ぬ以前にさえ、領域の必滅者には救済があったが、それでも、この世界に関するイエスの贈与が救済の方法を大いに照らしたことは、事実である。彼の死は、肉体における死後の人間生存の確実性を永久に明らかにするのに大いに役立った。
188:4.7 イエスを犠牲者、受け戻し人、または贖い主として話すことは、全く適切ではないが、救済者として言及することは全く正しい。かれは、永久に、救済(生存)の方法をより明確で確かにした。ネバドンの宇宙にある全世界の必滅者全ての救済の道をよりよく、より確かに示した。
188:4.8 人は、本当の、そして情愛深い父としての神の概念、イエスがかつて教えた唯一の概念を一旦理解するとき、その主な悦びが、悪行をしている臣下を見つけ、自分にほぼ等しい何らかの存在が、彼らのために苦しむこと、すなわち彼らの代わりに死ぬことを志願しない限り、それらが適切に罰せられることを見届けるもの、怒る君主、厳格で万能の支配者としての神に関するすべてのそのれら原始的概念を、一貫して、直ちに完全に捨てなければならない。身受けと償いの全構想は、それがナザレのイエスによって教えられ、例示されたような神の概念とは相容れない。神の無限の愛は、神性における何物にも勝る。
188:4.9 償いと犠牲の救済のこのすべての概念は、我欲に深く根を下ろしている。イエスは、仲間への奉仕が、精霊信者の兄弟愛の最高の概念であることを教えた。救済は、神の父性を信じる人々によって当然のことと思われなければならない。信者の主な関心は、個人の救済への利己的願望ではなく、むしろ愛することへの寡欲な衝動であり、したがって、イエスが必滅の人間に愛をもって仕えたように自分の仲間に仕えるべきものである。
188:4.10 本物の信者もまた、罪に対する将来の罰にあまり悩んではいない。本物の信者は、神からの現在の分離への心配だけである。本物の、かつ賢明な父達は、息子達を罰するかもしれないが、かれらは、愛と矯正目的のためにこのすべてをする。かれらは、怒りで罰しもしないし、報復で制裁もしない。
188:4.11 神が、正義が最高であると司る宇宙の厳しく合法的な君主であったとしても、潔白な被害者を罪ある犯罪者の代理をさせる子供っぽい画策に決して満足はしない。
188:4.12 実際には人間の経験の豊かさと救済方法の拡大に関係があるように、イエスの死の素晴らしさは、その死の事実ではなく、死の遭遇に際しての見事な態度と無類の精神である。
188:4.13 償いの身受けのこの全体の考えは、救済を非現実性の平面に配置する。そのような概念は、純粋に哲学的である。人間の救済は、本当である。それは、被創造者の信仰により理解され、それによって、個々の人間の経験に取り込まれる2つの現実、神の父性の事実とその相関する真実、人の兄弟愛に基づく。「ちょうどあなたが負い目のある者を許すように、あなたの負い目が許される」ということは、つまるところ、本当なのである。[9]
188:5.1 イエスの十字架は、群れに相応しくない者達のためにさえ、真の羊飼いの最高度の無私の愛を描く。それは、家族の基礎の上に神と人とのすべての関係を永遠に配置する。神は父である、人はその息子である。愛は、息子への父の愛は、創造者と被創造者—悪行を働く者の苦しみと罰に満足を求める王の正義ではなく—の宇宙関係の中心的な真実になる。。
188:5.2 十字架は、罪人に向けてのイエスの態度が、非難でも償いでもなく、むしろ永遠の、情愛深い救済であることを永遠に示している。イエスは、彼の人生と死が、人間を善と義の生存に首尾よく引き入れるという点で本当に救世主である。その愛が人間の心にある愛の反応を目覚めさせるほどに、イエスは、非常に人を愛している。愛は、実に、伝播し易く、永遠に創造的である。十字架におけるイエスの死は、罪を許し、すべての悪行を飲み込むに十分に強く、神々しい愛を例示している。イエスは、道義—単なる法解釈上の善し悪し—よりも公正さの高い特質をこの世界に明らかにした。神の愛は、単に誤りを許すだけではない。神の愛は、それらを吸収し、実際に破壊する。愛の許しは、まったく慈悲の許しを超える。慈悲は、悪行の罪悪感を片側に押しやる。しかし、愛は、罪とそこから結果として生じるすべての弱さを永遠に破壊する。イエスは、生きる新たな方法をユランチアにもたらした。かれは、我々に悪に抵抗するのではなく、彼を通して悪を効果的に破壊する善を見つけることを教えた。イエスの許しは、容赦ではない。それは、非難からの救済である。救済は、悪事を軽視しない。それらを正す。真の愛は、妥協もせず憎しみも容赦しない。それを破壊する。イエスの愛は、単なる許しでは決して満たされない。あるじの愛は、復帰、永遠の生存を暗に意味する。人がこの永遠の復帰を意味するのであれば、救済のことを贖いとして話すことは全く妥当である。[10]
188:5.3 イエスは、人に対するその個人の愛の力によって罪と悪の支配力を破壊することができた。かれは、人を解放し、それによって生活のより良い道を選ぶことができるようにした。イエスは、それ自体が未来への勝利を約束する過去からの救出を描いた。許しは、救済をこのように提供した。人間が一度完全に心に受け入れられると、神性の愛の美は、とこしえに罪の魅力と悪の力を破壊する。
188:5.4 イエスの受難は、磔だけに限られてはいない。実際は、ナザレのイエスは、現実の、そして激しい人間存在の十字架の上で25年以上を費やした。十字架の真の価値は、それが、彼の愛の崇高で最終的な表現、彼の慈悲の完成された顕示であったという事実にある。
188:5.5 何百万もの棲息界では、道徳上のもがきを諦め、信仰のための努力を捨てるように誘惑されたかもしれない何十兆もの進化する被創造者が、いま一度十字架のイエスに目をやり、次に、先に進む、人の寡欲な奉仕への献身において具現された自分の命を横たえる神の光景により奮い立った。[11]
188:5.6 十字架上の死の勝利は、自分を攻める者へのイエスの態度の精神にすべて要約されている。「父よ、彼等をお許しください。自分達のしている事を知らないのですから。」と祈るとき、イエスは十字架を憎しみに対する愛の勝利と悪に対する真実の勝利を永遠の象徴とした。愛のその献身は、広大な宇宙の至るところで伝播した。弟子達は、あるじからそれを捕らえた。この奉仕において命を捨てることを求められた福音のまさしく最初の師は、人々に石で死に追いやられているとき、「この罪を彼らに負わせないでください。」と言った。[12][13]
188:5.7 十字架は、自己の人生を仲間への奉仕に進んで捨てる者を明らかにするので、人の最善部分に最高の訴えをする。これよりすばらしい愛を何人も持つことはできない。友のためにすすんで自分の命を横たえるであろうという愛—そして、イエスには、敵のためにすすんで自分の命を横たえようとするそのような愛、これまでに地球で知られた何よりもすばらしい愛があった。[14]
188:5.8 他の世界で、また同じようにユランチアで、ゴルゴタの十字架における人間イエスの死のこの荘厳な光景は、必滅者の感情を刺激するとともに、それは、天使達の最高の献身を掻き立てた。
188:5.9 十字架は、神聖な奉仕のその高い象徴、つまり仲間の福祉と救済への人の人生における献身である。十字架は、罪人の代りや機嫌を損ねた神の激憤を静める潔白な人の息子の犠牲の象徴ではないが、それは、地球や広大な宇宙の至るところで、自らを善人が悪人に授与し、それによって他ならぬこの愛の献身によって悪人を救う神聖な象徴として永久にある。十字架は、無欲の奉仕、心からの奉仕活動における、死、十字架上の死に至ってさえも、正しい人生の完全な贈与における最高の献身という高い形の象徴としてある。そして、イエスによる贈与の人生のこのすばらしい象徴の光景こそは、我々全員が、同様にしたいと真に奮い立たせる。
188:5.10 考え深い男女が、十字架に自分の人生を捧げようとするイエスを見るとき、かれらは、人生の最も厳しい苦労にさえ、まして取るに足りない迷惑行為や彼らの完全に偽りの多くの苦情に関して、不平を言うことを決して再び自分に許さないであろう。イエスの人生は、非常に輝かしく、その死は昂然としており、我々皆が、両方を共有したいという意欲に魅惑される。その若者時代から十字架上の死のこの圧倒する光景までのミカエルの全贈与には、本当に引きつける力がある。[15]
188:5.11 それゆえ、神の顕示として十字架を見るとき、人は、神を厳しい正義と厳正な法執行のきびしい君主と見なしていた原始人の目や後の野蛮人の視点で見ることのないように心しなさい。むしろ、広大な宇宙の必滅の人種へのイエスの贈与における人生の任務への愛と献身の最後の顕現を十字架に見るように心にしなさい。むしろ、人間界の息子等に対し繰り広げる父の神性愛の極みを人の息子の死に見なさい。十字架は、そのような贈り物と献身の受け入れを望む者への自らの愛の献身と自発的救済贈与をこのように描写している。父が要求したものは、十字架には何もなかった—イエスがそれほどまでに進んで与えたもの、避けることを拒否したもの以外は。
188:5.12 イエスを認め、地球でのその贈与の意味を理解することができなくても、人は、人間イエスの受難の不幸を少なくとも理解することができる。誰も、創造者が現世の苦悩の性質や範囲を知らないと恐れることはできない。[16]
188:5.13 我々は、十字架における死というものが、神への人の和解に作用するものではなく、父の永遠の愛とその息子の果てしない慈悲への人間の認識を刺激し、そして、全宇宙にこれらの普遍の真実を伝えることであるということを知っている。