194:0.1 1時頃、120人の信者が祈りに従事しているとき、彼らは全員、部屋での奇妙な存在に気づき始めた。同時に、これらの弟子は皆、新しく深遠な精霊的な喜び、安心感、確信の感覚を意識するようになった。精霊的な強さのこの新しい意識のあとに、王国の福音とイエスが甦ったという朗報を公に宣言するために出かけて行くという強い衝動が即座に起きた。[1][2]
194:0.2 ペトロスは、これが、あるじが約束した真実の精霊の到来に違いないと立ち立ち上がって言明し、全員が寺院に行き、自分達の手に委ねられた朗報の公布を始めることを提案した。そこで、かれらは、ペトロスが勧めた通りにした。
194:0.3 これらの者は、説くべき福音は、神の父性と人の子息性であると訓練され、教えられてきたが、精霊的な恍惚感と個人の勝利感のちょうどこの瞬間に、最良の告知、つまり最高の知らせについて考え得ることが、あるじ復活の事実であった。そこでかれらは、天からの力を授けられ、人々に朗報を—イエスを通しての救済さえ—説いて行ったが、かれらは、福音それ自体の代わりに福音に関連する事実のいくつかを用いる意図しない誤りに躓いた。ペトロスは、無意識にこの誤りの口火を切り、他のもの達は、ペトロスの後に続き、新たな朗報の解釈から新宗教を作り出したパウーロスへと続いた。
194:0.4 王国の福音は、人の子息性-兄弟愛の結果として生じる真実と結びつく神の父性の事実である。その日から発展してきたキリスト教は、復活し、栄光に輝くキリストとの信者の親交の経験に関連した主イエス・キリストの父としての神の事実である。
194:0.5 精霊を注ぎ込まれたこれらの者が、あるじを滅ぼし、その教えの感化を絶とうとした力に対する勝利の気持ちを表明するこの機会に飛びついたことは奇妙ではない。このような時、イエスとの個人的な交わりを思い出したり、またあるじがまだ生きていたということ、自分達の友情が終わっていなかったっということ、まさに約束したように本当に精霊が自分達にやって来たといった確信に興奮するのは簡単であった。
194:0.6 これらの信者は、もう一つの世界、喜び、力、栄光の新しい生活に突然移されていると感じた。あるじは、王国は力と共に来ると教えており、そして、そのうちの何人かは、あるじが意味したことを理解し始めていると思った。[3]
194:0.7 そして、このすべてを考慮に入れるとき、これらの者が、いかにして神の父性と人の兄弟愛のそれ以前の知らせの代わりに、イエスに関する新しい福音を説くようになったかを理解することは難しくない。
194:1.1 使徒は、40日間潜んでいた。この日はたまたまユダヤの五旬節の祭礼であり、エルサレムには世界の各所から何千人もの訪問者がいた。大勢がこの祝祭のために到着したが、大多数は、過ぎ越し以来都に滞在していた。さて、これらの怯えた使徒は、数週間の引き込もりから大胆にも寺院に姿を現わし、甦った救世主の新しい知らせをそこで説き始めた。すべての弟子は、洞察と力の何らかの新しい精霊的な付与を受けたことを同じように意識していた。[4]
194:1.2 あるじがこの寺院で最後に教えたまさしくその場所で、ペトロスが立ち上がったのは、2時頃であり、2,000人以上の魂の獲得にいたったその熱の込もった訴えを開始した。あるじは行ってしまったたが、使徒達は、人々が、あるじに関するこの話にかなりの力を感じたと突如として気づいた。イエスへの自分達のかつての献身を証明し、同時に人々にそれほどまでにあるじを信じることを抑制したその公布へと、さらに彼らが導かれたことは不思議ではなかった。6人の使徒が、この会合に参加した。アンドレアス、ジェームス、ヨハネ、フィリッポス、マタイオス。かれらは、1時間半以上話し、その上ギリシア語、ヘブライ語、アラメーア語で演説し、会えば言葉を交わす程度の他の言語でさえ述べた。[5][6]
194:1.3 ユダヤの指導者達は、使徒の大胆さに驚いたが、使徒の話を信じた者のその数の多さの理由から彼らに危害を加えることを恐れた。
194:1.4 4時半までには、2,000人以上の新しい信者が、シロアーの池まで使徒の後を追った。そこで、ペトロス、アンドレアス、ジェームス、ヨハネが、あるじの名においてこれらの者に洗礼を施した。彼らがこの群衆の洗礼を終わったときには、暗くなっていた。[7]
194:1.5 五旬節は、洗礼の重大な祭、モーシェの掟を守る義務のない改宗者、すなわち、ヤハウェに仕えることを望むそれらの非ユダヤ人の交流を深めるための時であった。この日に洗礼を受けることは、したがって、ユダヤ人と信仰を有する非ユダヤ人の双方にとり、なお一層容易なことであった。こうすることにより、かれらは、ユダヤの信仰から決して自分たちを分離してはいなかった。このしばらく後でさえ、イエスの信者は、ユダヤ教の中の1宗派であった。彼らは全員、使徒を含み、まだユダヤの儀式体系の要件に忠実であった。
194:2.1 イエスは地球に住み、悪魔の子供であるという迷信から人を解放するという福音を教え、自分を神の信仰の息子の尊厳へと高めた。イエスがそれを説き、その時代に真実に生きた通りのイエスの申し送りは、その声明のその時代の人の精霊的な困難のための有効な解決策であった。そして、今や本人はこの世を去り、かれは、代わりに真実の精霊を送り、真実の精霊は、地上に現れる必滅者のあらゆる新しい集団が、人の新たで様々な精霊的な困難に対して有効な溶媒であると証明するであろうちょうどそのような個人の啓蒙と集団的な指導である福音の新たで、時代に相応しい解釈が得られように新世代ごとに、人の中に生きて、イエスの申し送りを言い換えるように考案されている。
194:2.2 もちろん、この精霊の最初の任務は、真実を促進し、個人的な立場でとらえることである、というのも、これが、人間解放の最高の形を構成する真実の理解であるので。次にこの精霊の目的は、信者の孤児の身の上という気持ちを打ち砕くことである。イエスは人の間にいたことがあるので、すべての信者は、真実の精霊が人の心に住まなかったとしたら寂しさを経験するであろう。[8]
194:2.3 息子の精霊のこの贈与は、すべての人類への父の精霊(調整者)の普遍的なその後の贈与のためにすべての通常の人の心を効果的に準備させた。ある意味では、この真実の精霊は、宇宙なる父と創造者たる息子の両方の精霊である。
194:2.4 注入された真実の精霊を強く知的に意識するようになることを期待する誤りを犯してはいけない。精霊は、決して自分自身についての意識を創るのではなく、マイケル、息子についての意識だけを創るのである。イエスは、最初から、精霊が精霊自身について話さないことを教えた。したがって、真実の精霊との人の親交の証しは、この精霊の意識にあるのではなく、むしろマイケルとの人の高められた親交の経験にある。[9]
194:2.5 また精霊は、人が、地球でのあるじの人生を照らしたり、再解釈をすると同時に、あるじの言葉を思い出し理解する手助けのためにやって来た。
194:2.6 次に、真実の精霊は、信者が、イエスの教えと彼が肉体で送ったその人生、そして神の精霊に満たされた息子達の通過していく各世代の個々の信者の間に、いま新たに再び送る人生の現実を証言するための助力にやって来た。
194:2.7 このように、真実の精霊が、すべての真実へと、神との永遠の、そして上昇する子息性の現実の生きている、そして成長している精霊的な意識の経験に関する拡大的な知識へと、すべての信者を真に導くために来ることが明らかになる。[10]
194:2.8 イエスは、誰のためにも文字通りに後に続く企てのための模範ではなく、父の意志に従う者の顕示である生活を送った。十字架上での死とその後の復活を含む肉体におけるこの人生は、やがて、邪な1団から—不機嫌な神の非難から—このようにして買い戻すために支払われる身代金の新しい福音となった。しかしながら、福音は、大いに歪曲されるようにはなったが、イエスに関するこの新しい知らせは、王国の初期の福音に関する基本的な真実と教えの多くを伝えたという事実としてある。そして、遅かれ早かれ、神の父性のこれらの隠された真実と人の兄弟愛は、全人類の文明を効果的に変えるために浮上するであろう。
194:2.9 しかし、知性のこれらの誤りは、信者の精霊的な成長におけるすばらしい進歩を決して妨げなかった。真実の精霊の贈与から1カ月足らずの間に、使徒は、あるじとのほぼ4年間の個人的で、情愛深い交流以上の個々の精霊的な進歩をした。神との子息性に関する救いの福音の真実とのイエスの復活の事実のこの置換も、彼らの教えの急速な普及を何としても妨げなかった。それどころか、イエスの人物と復活についての新しい教えがイエスの意図を影で覆うことは、朗報の説教をとても容易にするかに見えた。
194:2.10 この頃、とても一般的に使用された言葉「精霊の洗礼」は、真実の精霊のこの贈り物の意志的な受領と神を知る魂により以前に経験された精霊的な影響のすべての拡大としてのこの新しい精霊的な力の個人の承認とを意味するにすぎなかった。[11]
194:2.11 真実の精霊の贈与以来、人は精霊の三重の送りものの教育と指導をまぬかれない。父の霊である思考調整者、息子の霊である真実の精霊、精霊の精霊である聖霊による贈与。[12]
194:2.12 ある意味で、人類は、宇宙の精霊の影響の七重の魅惑を二重に受けている。人間の早期の進化的な民族は、地方宇宙の母なる精霊の7名の補佐の心霊の進歩的な接触がある。人が、知性と精霊的な認識の度合の点で進歩するにつれ、やがてより高い精霊的な7つの影響が、人の上にあり、また、人の間に住むようになる。進歩する世界のこれらの7精霊は次の通りである。
194:2.13 1. 宇宙なる父からの贈与の精霊—思考調整者
194:2.14 2. 永遠なる息子の精霊の臨場—宇宙の中の宇宙の精霊の引力とすべての精霊親交の確かな回路
194:2.15 3. 無限なる精霊の精霊臨場—全創造の普遍的な精霊心、すべての進歩的な有識者の知的な親族的関係の精霊的源
194:2.16 4. 宇宙なる父と創造者たる息子の精霊—真実の精霊、一般的に宇宙の息子の精霊と見なされる。
194:2.17 5. 無限なる精霊の精霊と宇宙の母なる精霊—聖霊、一般に宇宙の精霊の精霊と見なされた。
194:2.18 6. 宇宙の母なる精霊の心霊—地方宇宙の7名の補佐の心霊。
194:2.19 7. 父、息子、そして精霊の精霊—楽園の思考調整者との精霊生まれの人間の魂の融合後、そしてそれに続く楽園の終局者部隊の神性と栄光の地位到達後のその領域の上向する人間の新しい名の精霊。[13]
194:2.20 真実の精霊の贈与は、それゆえ、神探索の上昇の支援をするように工夫された精霊の最後の贈与を世界とその民族にもたらした。
194:3.1 多くの風変わりで奇妙な教えが、五旬節の日の初期の物語と関係するようになった。その後、真実の精霊つまり新しい教師が、人類と住むためにやって来たこの日の出来事は、激しい情緒本位の愚かな発生と混同されるようになった。父と息子のこの注出された精霊の主要な任務は、父の愛と息子の慈悲の真実に関して人に教えることである。これらは、人が、人格のすべての他の神の特徴よりも完全に理解することのできる神性の真実である。真実の精霊は、本来父の精霊の本質と息子の徳性の顕示に関係がある。創造者たる息子は、肉体で人に神を明らかにした。真実の精霊は、心で人に創造者たる息子を明らかにする。人が、その人生で「精霊の果実」をもたらすとき、かれは、あるじが彼自身の地球での人生で見せた特性を本当に示しているのである。地球滞在の際、イエスは、1つの人格—ナザレのイエス—としてその人生を送った。内在する「新しい教師」の精霊として、あるじは、五旬節以来、再度その生活を真実を教えられたあらゆる信者の経験において送ることができた。[14][15][16]
194:3.2 人間の人生の間に起こる多くのことは、理解し難く、つまり真実が行き渡り、正義が勝利を収める宇宙というものであるという考えに調和させることは難しいのである。中傷、虚言、不正直、不義—罪—が、たびたび横行するようである。信仰は、結局、悪、罪に打ち勝つのか。勝つのである。そして、イエスの生と死は、善の真実と精霊に導かれる被創造者の信仰が、いつも擁護されるという永遠の証しである。かれらは、十字架上のイエスを「神が彼を救いに来るかどうかを見よう」と言って罵った。磔の当日は暗く見えたが、復活の朝は見事に明るかった。五旬節の日には、さらに明るく、一層喜ばしかった。悲観的な絶望の宗教は、人生の重荷からの解放を得ようとする。それらは、無限のまどろみと休息における消滅を切望する。これらは、原始の恐怖と畏怖の宗教である。イエスの宗教は、奮闘する人間性に宣言する信仰の新しい福音である。この新しい宗教は、信仰、望み、愛に基づいている。[17][18]
194:3.3 イエスにとっての現世の人生は、最も困難で、容赦のない、痛烈な一撃であった。そして、この男性は、信仰、勇気、および父の意志をする不動の決断をもってこれらの絶望の奉仕に相対した。イエスは、すべての凄まじい現実の人生に遭遇し、それを克服した—死においてさえ。イエスは、人生からの釈放として宗教を用いなかった。イエスの宗教は、次の世界のもう一つの存在の至福の享受のためにこの人生を逃がれようとはしない。イエスの宗教は、人がいま肉体で送る生活を充実し、高めるためにもう一つの精霊的な存在の喜びと平和をもたらす。
194:3.4 宗教が人々への阿片剤であるならば、それは、イエスの宗教ではない。イエスは、十字架上で死を速める薬剤を飲むことを拒否し、全ての人に注がれたその精霊は、人を上へ導き、前方へ促す力強い世界的な影響である。前向きの精霊的衝動は、この世界に存在する最強の原動力である。真実を学ぶ信者は、地球において進歩的かつ積極的な魂をもつ者である。
194:3.5 イエスの宗教は、五旬節の日に国家の全制限と人種的な足枷を打破した。「主の精霊があるところに自由がある」というのは、とこしえに、本当である。この日に真実の精霊は、あるじからのすべての必滅者への個人の贈り物となった。この精霊は、より効果的に信者に王国の福音を説く資格を与える目的のために注がれたが、かれらは、注がれた精霊の受領の経験を彼らが無意識に定式化した新しい福音の一部と感違いをした。[19]
194:3.6 真実の精霊が、すべての誠実な信者に授与されたという事実を見過ごしてはいけない。この精霊の贈り物は、使徒だけに来たのではなかった。全世界遍く、すべての正直な者がそうであったように、上の部屋に集まった120人の男女全員が、新しい教師を迎えた。この新しい教師は、人類に授けられ、そしてあらゆる魂が、真実への愛と精霊の現実を把握し、理解するための能力に応じて新しい教師を受け入れた。ついに、新の宗教は、司祭の管理と神聖なすべての階級から救われ、人の個々の魂にその真の権限を見い出す。[20]
194:3.7 イエスの宗教は、最高の人格の型を構築し、その人の神聖さを宣言する点において人間の文明の最高度の型を育成する。
194:3.8 五旬節に真実の精霊の来ることは、急進的でも保守的でもない宗教を可能にした。それは、古いものでもなく新しいものでもない。それは、老人にも若人にも支配されるのでもない。イエスの地球での人生の事実は、時間の錨のための固定点を提供し、一方真実の精霊の贈与は、彼が生きた宗教と宣言した福音の永遠の拡大と無限の成長に備える。この精霊は、すべての真実へと導く。かれは、無限の進歩と神性展開の拡大し、成長し続ける宗教の教師である。この新しい教師は、求める信者に人の息子の人格と特質にとても神々しく包まれている真実を永久に展開し続けるであろう。
194:3.9 「新しい教師」の贈与に関連する顕現、そしてエルサレムに集う多様な民族や国家の人々による使徒の説教の受け入れは、イエスの宗教の普遍性を示している。王国の福音は、特定の民族、文化、または言語に結びつけられるようにはなってはいなかった。五旬節のこの日は、ユダヤ人の引き継がれたその足枷からイエスの宗教を解放するための精霊の大いなる努力の部隊となった。使徒は、すべての肉体へ注ぐこの実演の後にさえ、最初は転向者達にユダヤ教の必要条件を押しつけようと努めた。パウーロスでさえ、非ユダヤ人をこれらのユダヤ人の習慣に服従させることを拒否したので、かれは、エルサレムの同胞との間で揉めた。何らかの国家の文化に浸透されたり、確立した人種的、社会的、または経済的習慣に関わるという重大な誤りが起こるとき、いかなる啓示宗教も全世界に広がることはできない。[21]
194:3.10 真実の精霊の贈与は、すべての様式、儀式、神聖な場所、およびその顕現を充分に受けた人々による特別な行動から独立していた。精霊が上の部屋に集う者達にやって来たとき、皆は、単にそこに座り、ちょうど黙祷に従事していた。精霊は、田舎でも都市同様に授けられた。使徒達は、この精霊を受けるために長年孤独な思索の目的で孤立した場所に行く必要はなかった。五旬節は、永久に、特に良い環境の概念から精霊的な経験についての考えを分離する。
194:3.11 その精霊的な贈与と相まっての五旬節は、永遠に、物理的な力への全ての依存からあるじの宗教を解き放つように考案された。この新しい宗教の教師達は、現在、精霊的な武器を備えている。かれらは、尽きることのない許し、無類の善意、豊かな愛で世界を征服しに出かけるのである。教師達は、善で悪を克服し、愛で憎しみを負かし、勇気と生きる信仰で恐怖を打ち破る能力がある。イエスは、自分の宗教が決して受け身でないことを既に追随者に教えた。弟子が、その慈悲の活動において、また愛の顕現においていつも活動的であり、積極的であることを。もはや、これらの信者は、ヤハウェを「軍勢の主」として見ていなかった。かれらは、そのとき、永遠の神性を「主イエス・キリストの神と父」と考えた。神が、あらゆるの個人の精霊的な父でもあるという真実をある程度まで完全には理解はしなくても、かれらには少なくとも、その進歩があった。[22][23][24][25][26]
194:3.12 五旬節は、最悪の不正の直中にあっても、個人的な損害を許し、友好関係を保ち、恐るべき危険に面し平然とし、そして愛と慎みの恐れを知らない行為によって憎しみと怒りの悪に挑戦する力を必滅者に授けた。ユランチアは、その歴史における大きく破壊的な戦争の惨害を経験した。これらの恐ろしい闘いの全ての関係者は、敗北に終わった。わずかに1人の勝者がいた。一層の評判をえてこれらの敵意の闘いから出てきた者がおり、—それは、ナザレのイエスと善で悪に打ち勝つ福音であった。より良い文明の秘密は、あるじの人の兄弟愛、つまり愛の善意と相互信頼の教えに結びつけられる。[27]
194:3.13 五旬節まで、宗教は、人が神を求めることだけを明らかにしてきた。五旬節以後、人はまだ神を捜し求めてはいるが、神もまた人を捜し求め、人が神を見つけるとその人間の中に住む神の精霊を送る光景が、世界の上に際立っている。
194:3.14 五旬節で頂点に達したイエスの教え以前、古い宗教の教義における女性にはほとんど信仰上の地位はなかった。五旬節の後、女性は、王国の兄弟関係において男性と平等に神の前に立った。精霊のこの特別な訪れを受けた120人の中には多くの女性の門人がおり、これらの天恵を男性信者と等しく共有した。もはや、男性は、祭祀活動を独占することは考えられない。パリサイ派は、「女、癩病患者、または非ユダヤ人に生まれなかった」ことを神に感謝し続けるかもしれないが、イエスの追随者の間で、女性は、性に基づくすべての宗教上の差別からは永遠に自由の身となった。五旬節は、人種的な区別、文化的な違い、社会的な役割、または性的な偏見に基づくすべての宗教的な差別を抹消した。新しい宗教のこれらの信者が、「主の精霊がいるところに自由がある」と大声で叫ぶことは驚きに値しない。[28]
194:3.15 イエスの母と弟は、120人の信者の中に居り、弟子のこの共通の集団の成員として、二人もまた、注ぎ込まれた精霊を受けた。二人は、他の追随者よりも良い贈り物を受けたという訳ではなかった。何の特別な贈り物も、イエスの地球の家族に授けられはしなかった。五旬節は、神聖な家族の中での特別な聖職とすべての信仰の終わりを記した。
194:3.16 五旬節以前、使徒は、イエスのために多くを諦めていた。かれらは、家庭、家族、友人、財産、身分を犠牲にしていた。五旬節で、かれらは、自分自身を神に捧げ、そして父と息子は、人に自分たちを与えること—人のあいだで生きるために精霊を送ること—で応えた。自己を失い、精霊を見つけるこの経験は、感情の一つではなかった。それは、知的な自己投降と心からの献身の行為であった。
194:3.17 五旬節は、福音の信者の間での精霊的な統一への要請であった。精霊が、エルサレムで弟子達に下りてきたとき、同じ事が、フィラデルフィア、アレキサンドリアと真の信者の住む他のすべての場所で起きた。「おびただしい信者の間にただ1つの心と魂があった」ということは、文字通り本当であった。イエスの宗教は、世界がこれまでに知っていた最も強力に統一する影響がある。[29]
194:3.18 五旬節は、個人、集団、国家、民族の独断性の減少のために設けられた。この独断の精神こそが、周期的に破壊的な戦争に陥る緊張を非常に増大するのである。人類は、精霊的な方法によってのみ統一されることができ、真実の精霊は、普遍的な世界的な影響である。
194:3.19 真実の精霊の到来は、人間の心を浄化し、受け手に神の意志と人の福利の人生の一つの目的へと導く。自分本位の物質的な精霊は、無私のこの新たな、精霊的な贈与に飲み込まれてきた。五旬節は、その時も現在も、歴史のイエスが、生きた経験の神性の息子になったことを示している。それが人間の人生で意識的に経験されるとき、この注ぎ込まれた精霊の喜びは、健康の強壮剤、心の刺激、魂のための絶えることのない活力である。[30]
194:3.20 祈りは、五旬節当日に精霊をもたらしはしなかったが、個々の信者を特徴づける感受性の容量の決定に大いに関係があった。祈りは、神性の心を贈与の気前のよさへと動かしはしないが、誠実な祈りと真の崇拝を通して製作者との切れ目ない親交維持を忘れない人々の心と魂に注ぐことができるように、より大きくより深い通路をたびたび掘り起こす。
194:4.1 イエスがあまりにも急に敵に捕らえられ、直ちに2人の泥棒の間で磔にされると、その使徒と弟子は、完全に士気を挫かれた。逮捕され、縛られ、鞭打たれ、磔にされたあるじへの思いは、使徒の手に負えるものではなかった。かれらは、その教えと警告を忘れた。かれは、本当に、「神と全ての民の前で、業にも言葉にも力ある予言者」であったかもしれないが、決して彼らが望むイスラエルの王国を回復する救世主ではあり得なかった。[31]
194:4.2 そして、復活は、絶望からの救出とあるじの神性への彼らの信仰に返報である。再三、かれらは、あるじに会い、話し、またあるじは、皆をオリーヴ山に連れて行き、そこで皆に別れを告げ、自分は父の元に戻るところであると告げる。かれは、力が授けられるまで—真実の精霊が来るまで—エルサレムに留まるように彼らに言った。そして、五旬節のその日にこの新しい教師が来て、かれらは、新しい力で福音を説きに直ちに出かける。かれらは、生きている主の大胆で勇敢な追随者であり、死んでうち負かされた指導者達ではない。あるじは、これらの伝道者の心に生きている。神は、彼らの心の教義ではない。神は、皆の魂の生ける存在となった。
194:4.3 「日々心を一つにして、絶えず寺院に集い、家ではパンをちぎる。神を賛美して、人々に好意を持たれ、喜びと真心とで食事をともにする。一同は、いっせいに精霊に満たされ、神の言葉を大胆に話した。信じた者の群れは、1つの心と思いを一つにした。そして、誰一人その持ち物を自分のものと言うことなく共有した。」[32][33]
194:4.4 王国の福音、神の父性、人の兄弟愛を説くためにイエスが任命したこれらの男性達に一体何が起きてしまったのか。かれらには、新しい福音がある。かれらは、新しい経験に燃えている。かれらは、新しい精霊的な活力で満たされている。彼らの趣意は、キリスト復活宣言へと突如向きを変えてしまった。「ナザレのイエス、神が、偉大な働きと驚嘆の業により認められた方。神が定めた計画と神の予知とによって引き渡された方を、君達は、十字架につけて殺した。神がすべての予言者の口によって前触れしたことを、かれは、このようにして成し遂げた。このイエスを、神は甦らせた。神は、彼を主とキリストの両者にした。神の右手により高められ、父から精霊の約束を受け取り、イエスは、人が見て聞くこれを注ぎ込んだ。悔い改めなさい、罪を消し去ってもらうために。父が、人のために予め定めていたキリストを、万物の更新の時まで天に留めておかなけらばならない他ならぬイエスをさえ、遣わすために。」[34]
194:4.5 王国の福音、イエスの主旨は、突然に主イエス・キリストの福音に変えられた。かれらは、そのとき、イエスの人生、死、復活の事実を宣言して、彼が着手した仕事を終えるために、この世界へのイエスの迅速な帰還の望みを説いた。このように初期の信者達の主旨は、イエスの第1回の到来の事実についての説教をすることと、第2回の再臨の希望、彼らが非常に近いと考えた出来事を教えることに関係があった。
194:4.6 キリストは、急速に形を成している教会の教義になろうとしていた。イエスは生きている。イエスは人のために死んだ。イエスは精霊を与えた。イエスは再来する。イエスは、彼らのすべての考えを満たし、彼らの神と他のすべての新概念を決定した。かれらは、「神はすべての人の情愛深い父である、」あらゆる個人にとってさえ、という古い主旨にはあまり関知せず、「神は主イエスの父である」という新たな教義にあまりにも夢中になり過ぎた。本当である。兄弟愛と類例のない善意の現れは、信者のこれらの初期の共同体に起きた。しかしそれは、イエスの信者の親交であり、天の父の家族の王国における兄弟の親交ではなかった。彼らの善意は、必滅の人間の兄弟愛の認識からではなく、イエスの贈与の概念から生まれる愛から生じた。それでも、かれらは、喜びに満たされ、すべての人が、イエスに関する彼らの教えに引きつけられるというような新しく、独特の人生を送った。その福音のために、かれらは、王国の福音に生きた、例証的な注釈を用いるという重大な誤りを犯したが、それさえも、人類がこれまでに知った最も偉大な宗教を意味した。[35][36]
194:4.7 紛れもなく、新しい親交が世界に起きていた。「信じる多くの者が、使徒の教えと親交に、パンをちぎる際に、祈りに、しっかりと続いた。」かれらは、互いを兄弟、姉妹と呼び合った。かれらは、聖なる口づけで挨拶し合った。かれらは、貧者に奉仕した。それは、崇拝のみならず生きる親交であった。かれらは、法令による共同体ではなく、皆の所有物を仲間の信者と共有するという願望による共同体であった。かれらは、イエスが、自分達の世代の間に、父の王国の設立の完了のために戻っくると自信をもって待ち望んだ。世俗の財産の自然発生的なこの共有は、イエスの教えそのままの特徴ではなかった。それは、これらの男女が、イエスはその仕事を終え、王国を完成するために戻ると本当に心から、大変に自信をもって信じたがゆえに起きた。しかし、軽率な兄弟愛におけるこの善意の試みの最終結果は、破壊的で悲しみを繁殖させるものであった。何千もの熱心な信者は、その財産を売り払い、すべての資財と他の生産的資産を処分した。時の経過と共に、「等しい共有」というキリスト教徒のやせ細りの資力は、終わった。しかし世界は、終わらなかった。間もなく、アンチオケの信者は、エルサレムの信者仲間を飢えから守るための徴収に着手していた。[37][38][39][40][41][42][43]
194:4.8 その頃、かれらは、その設立の様式通りの聖餐を祝った。すなわち、親睦の社交的な食事のために集い、食事の終わりに聖餐を相伴した。
194:4.9 まず、かれらは、イエスの名において洗礼した。それは、彼らが「父と息子と聖霊の名」において洗礼し始めるおよそ20年前であった。洗礼は、信者の親睦への承認に必要なすべてであった。かれらには、まだ組織がなかった。それは、単にイエスの兄弟関係であった。[44]
194:4.10 このイエスの一派は、急速に成長しており、サドカイ派は、もう一度彼らに注意を払った。パリサイ派は、その教えのどれ一つとしてユダヤ人の法の遵守を何らかの方法で妨げないことがわかり、その状況をあまり気にはしなかった。しかし、主なユダヤ教の教師の一人ガムリエルの、「これらの男から遠ざかり、放っておきなさい。この教え、あるいは、この仕業が人間から出たものならば、それは打倒されるであろうから。しかし、もし神から出たものであるならば、それらを打倒することはできない。まかり間違えば、神と戦うことになるかもしれない。」という助言を受け入れるよう説き伏せられるまで、サドカイ派は、イエスの一派の指導者達を投獄し始めた。かれらは、ガムリエルの助言に従うと決め、そエルサレムには平穏と静けさが続き、その間に、イエスに関する新しい福音がたちまちのうちに広まった。[45][46][47]
194:4.11 そして、大勢のギリシア人がアレキサンドリアからやって来るまで、エルサレムでは万事がうまくいった。ロダンの門弟の2人は、エルサレムに到着し、ギリシアの影響を受けた非ギリシア人の多くを転向させた。初期の転向者の中には、ステパノとバーバナスがいた。これらの有能なギリシア人は、ユダヤ人の視点をあまり持たなかったし、ユダヤ人の崇拝や他の儀式的習慣の流儀にそれほどまでには従わなかった。そして、イエスの同志の団体と、パリサイ派とサドカイ派との平和な関係を終結させたのが、これらのギリシア人信者の行ないであった。ステパノとそのギリシア人仲間は、イエスが教えたように説教し始め、これが、ユダヤ人の支配者達との直接の対立に至らせた。ステパノの公への説教の1つで、講演が好ましくない部分に至ると、かれらは、裁判のすべての形式をとることなく、投石によりその場で死に至らせた。[48]
194:4.12 エルサレムにおけるイエスの信者のギリシア植民団の指導者ステパノは、このように早期のキリスト教会の正式組織のための新しい信仰と特定の理由の最初の犠牲者となった。信者がユダヤ人の教義の中の一派としてもはや進むことができないという認識は、この新たな危機に直面した。かれらは、自らを無信仰の者達から切り離さなければならないという同意に至り、ステパノの死から1カ月以内には、エルサレムの教会が、ペトロスの統率のもとに組織化され、イエスの弟のジェームスが、その名義上の長として任命された。
194:4.13 そして、ユダヤ人による新手の、容赦のない迫害が勃発し、後にアンチオケでキリスト教と呼ばれたイエスについての新宗教の活発な教師達は、イエスを宣言しに帝国の果てまでも出向いて行った。この主旨を伝えるに当たっては、パウーロスの時代以前は、主導権はギリシア人の手にあった。そして、これらの最初の宣教師達は、後の者達も、ガザとツロを通りアンチオケに、そして次には、小アジアへ、そしてマケドニアを経て、ローマ、および帝国の最果ての地へと当時のアレクサンダーの行進の通り道をたどった。[49][50]