56:0.1 神は、和合である。神性は、普遍的に調和している。宇宙の中の宇宙は、絶対的に1つの無限の理性により統制される統合化された1巨大機構である。宇宙創造の身体的、知的、精霊的領域は、神々しく関連づけられている。完全なものと不完全なものは、真に相関関係にあり、それゆえ有限の進化の創造物は、「私が完璧であるように、完璧でありなさい。」という宇宙なる父の命令に服従して楽園に昇ることができる。[1]
56:0.2 創造の多様な段階は、すべて主たる宇宙の建築家の計画と行政に統一されている。宇宙は、時-空の人間の制限ある心には、明白に不調和を表したり、効果的調和の欠如を示す多くの問題や状況を提示するかもしれないが、普遍的宇宙現象のより広範の観察が可能であるもの達や、創造的な多様性の下にある基本的統一性を探知したり、複数性のこの機能のすべてを覆う神性の単一性を見いだすこの芸術においてより経験のあるもの達、我々の中のそれらのものは、宇宙の創造的エネルギーのこれらすべての多種の顕示に示される神性の、しかも一つの目的によく気づく。
56:1.1 物理的あるいは物質的創造は、無限ではないが、それは完全に調和している。原動力、エネルギー、そして力があるが、それらは全て一つの起源である。7超宇宙は、表面上は二重であるらしい。中央宇宙は三位一体である。しかし楽園は一重構造である。また、楽園は、全物質宇宙の現実の源—過去・現在・未来—である。しかし、この宇宙の起源は、永遠の事象である。いかなるときにも—現在、過去、あるいは未来—宇宙あるいは物質宇宙は、光の核の島からは現れない。楽園は、宇宙の源として空間より前に、そして時間より先に機能する。それ故、その起源は、それらの空間の貯蔵所とそれらの時の啓示者と規制者である無条件の絶対者を経て出現しなければ、時と空間における孤児であるかのように思われるであろう。
56:1.2 無条件の絶対者は、物理的宇宙を支持し、他方で神格絶対者は、全物質的現実の絶妙な総括的管理をする。双方の絶対者は、機能上、宇宙なる絶対者により統合される。物質宇宙のこの密着した相互関係は、すべての人格—物質的、モロンチア的、準絶対的、あるいは精霊的—により、楽園の下に集中している重力に対する本物の物質的現実の重力反応の観察により最も良く理解される。
56:1.3 引力統合は、普遍的であり変わらない。純粋なエネルギー反応も、同じく普遍的であり逃れられない。純粋なエネルギー(根本の力、始原原動力)と純粋な精霊は、引力に完全に前反応的である。絶対者に備わるこれらの始原の力は、宇宙なる父により個人的に統制される。それ故に、すべての引力は、楽園の父の純粋なエネルギーと純粋な精霊の人格臨場に、また超物質住居に集中する。
56:1.4 純粋なエネルギーは、すべての相対的な、 無精霊の機能的な現実の祖であり、一方、純粋な精霊は、すべての基本的エネルギー体制の精霊的制御と直接的制御の可能性である。そして、空間全体に渡り明らかにされるように、また時間の動きにおいて観察されるように、まことに多様であるこれらの現実は、双方が、楽園なる父の人格に集中する。それらは、楽園なる父の中で1つ—統合される必要がある、統合されるべき、である。—神は1人であるが故に。父の人格は、絶対的に統合している。
56:1.5 父なる神の無限の性質には、物理的、精霊的といったような現実の二元性はとても存在しえない。だが、我々が、無限の段階と楽園の父の人格の価値の絶対的現実から目をそらす瞬間に、我々は、これらの2つの現実の存在を観察し、また父なる神の個人的臨場に十分にこれらの現実が反応するということを認識するのである。すべてが父なる神の中にある。[2][3]
56:1.6 あなたが、楽園の父の無限の人格の無規制の概念から離れる瞬間、あなたは、心というものが、独創的な統合された主題の創造者の人格、すなわち第一根源と中枢—私はある—のこれらの二重の宇宙表明の常に広がる分岐を統合する避け得ない手段であるものと仮定しなくてはならない。
56:2.1 思考-父は、言葉-息子に精霊表現を実現し、広範囲におよぶ物質宇宙の中の楽園を通じて現実拡大を達成する。永遠の息子の精霊的表現は、無限の精霊の働きにより創造の物質的段階に関連づけられる、つまり精霊反応の心の無限の精霊の聖職活動により、また、無限の精霊の心の物理的-指示的聖職活動のなかに、神格の精霊的現実と神格の物質的な反響のなかで一方が他者と関連づけられる。
56:2.2 心は、無限の精霊の機能的贈与であり、それ故、可能性においては無限であり、授与においては普遍的である。宇宙なる父の主要な考えは、二重の表現の中で永遠化される。楽園の島と神格匹敵者、すなわち精霊的である永遠の息子。永遠の現実のこのような二元性は、心の神、無限の精霊を不可避なものにする、避けられないようにする。心は、精霊的現実と物質的現実間の不可欠の疎通回路である。物質的進化の創造物は、心の聖職活動によってのみ内住の精霊を発想し、理解することができる。
56:2.3 この無限かつ普遍的な心は、普遍の心として時空の宇宙において働きかけ、精霊補佐の原始の聖職活動から宇宙の最高責任者の壮大な心へと伸張するのだが、この宇宙の心さえ熟練の7精霊の超宇宙において適切に統合され、熟練の7精霊は、代わって時と空間の崇高なる心と調和し、無限の精霊の全てを擁する心と完全に関連づけられるのである。
56:3.1 普遍的な心の重力が、無限の精霊の中の楽園の個人的臨場に集中されるように、楽園における無限の精霊の個人的臨場に集中されるように、普遍的精霊の重力もまた、永遠の息子の楽園の個人的臨場において集中するのである。宇宙なる父は、1名ではあるが、時-空間にとっては、彼は純粋なエネルギーと精霊の二重の現象に明らかにされる。
56:3.2 楽園の精霊の現実は、同じく1つであるが、時-空間の状況と関係のすべてにおけるこの一つの精霊は、精霊の人格と永遠の息子の放射の二重現象と、精霊の人格と無限の精霊の影響の二重現象とに関連づけられた創造において明らかにされる。そしてさらに第3—純精霊の断片—前人格である思考調整者と他の精霊的存在の父の贈与の現象がある。
56:3.3 あなたが、宇宙活動のいかなる段階の精霊現象に遭遇しようとも、または精霊の存在体に接触しようとも、それらは皆、精霊の息子と無限の心の精霊の働きかけによる精霊である神に由来するということがあなたには分かるかもしれない。そして、精霊のこの広範囲にわたる機能は、それが、地方宇宙の本部から指揮されるままに進化の時の世界の現象として作用する。聖霊と真実の精霊が、これらの創造者たる息子の首都から物質的な心の下方の、また進化する段階へと、心と精霊の補佐の働きかけと共に来る。[4]
56:3.4 心は、崇高なるものと関連する熟練の精霊の段階においてさらに統合され、そして絶対なる心へ従属する宇宙心として統合されるが、進化する世界への精霊の働きかけは、地方宇宙の本部に居住する人格内と取り仕切る神性聖職活動者の本人の中でより直接的に統合され、入れ代わって、取り仕切る神性聖職活動者は、順次ほぼ完全に、永遠なる息子の楽園重力回路と協力し、そこで時空の精霊全顕示の統一が起こるのである。
56:3.5 完全化された創造物の存在は、楽園の三位一体本人の中の誰か1名の前三位一体の精霊の贈与の断片との自意識の心の融合により達成され、維持され、そして永遠化されることができる。人間の心は、永遠の息子と無限の精霊の息子と娘の創造であり、父からの思考調整者と融合するとき、進化の領域の3重の精霊贈与の性質を共にする。だが、精霊のこれらの3表現は、宇宙なる私はあるのなかに永遠の息子と無限の精霊の宇宙なる父になる前ににこのように永遠に統合されたのと全く同様に、終局者に完全に統合されるようになる。
56:3.6 精霊は、常にまた究極的に、表現においては3重に、最終の認識においては三位一体に統合されるようにならねばならない。精霊は、3重表現を通して1つの源に基づいている。そしてそれは、究極的に、父の宇宙的考えの永遠の言葉の無限の表現からの宇宙の心による聖職活動手段によって神を見いだすこと- 神性との一体感 -において経験される神性の統合においてその完全な認識を達成しなくてはならないし、また、そうする。
56:4.1 宇宙なる父は、神々しく統合された人格である。それゆえ物質の人間に宿るために父の命令に服従して楽園から出向いた思考調整者の反射的勢いにより楽園へと運ばれる上昇する子供のすべては、ハヴォーナ到着前に同じように完全に統合される。
56:4.2 本質的に人格は、全構成要素の現実を統一するために手を差し伸ばす。宇宙なる父である第一根源と中枢の無限の人格は、無限の絶対者の全7構成要素を統合する。また宇宙なる父の排他的かつ直接の授与である人間の人格は、同じく死を免れない創造物の構成要素を統合する可能性を所有する。全創造物の人格のそのような統合的創造力は、高く、排他的なその源の母斑であり、人格回路を通してのこの同じ源とのその途切れない接触の一層の証となる。その手段により、創造物の人格は、楽園の全人格の父との直接的かつ持続的接触を維持する。
56:4.3 神は、至上性と終局性を経て7重者の領域から絶対の神での顕示であるにもかかわらず、楽園と父なる神本人の中に集中している人格の回路は、知的存在の全段階において、完全な、完成された、また完成されていく宇宙のすべての領域において全創造物の人格に関しては、神性の人格のこれらすべての多様な表現の完ぺき、かつ完全な統合を提供する。
56:4.4 宇宙にとっての、また宇宙における神は、我々が描いてきた全てであるとともに、あなたと他の神を知る全創造物にとっては、それでも、神は1人であり、あなたの父でありそれらの父である。人格にとり神は、複数であるはずがない。神は、被創造物めいめいの父であり、いかなる子供でも1人以上の父親を持つことは文字通り不可能である。[5]
56:4.5 あなたは、哲学的に、宇宙的に、そして顕示の特異の段階と位置に関係し、必然的に、複数の神格の機能を想像し、複数の三位一体の存在を仮定するかもしれないし、そうしなくてはならない。だが、主たる宇宙の崇拝する人格すべての人格的接触からの崇拝に満ちた経験において、神は、一人である。統合された人格的な神格は、楽園の親であり、父なる神であり、賦与者であり、保護者であり、また生息界の人間から光の中央の島の永遠の息子までの人格すべての我々の親である。
56:5.1 楽園神性の、単一性、不可分性は、実存的であり絶対的である。神格の永遠の3者の人格化—宇宙なる父、永遠の息子、無限の精霊—があるが、楽園の三位一体における3者は、実際には分裂していない不可分の1神格である。[6]
56:5.2 実存の現実の原初の楽園-ハヴォーナの段階からは2つの準絶対段階が分化し、その後父、息子、精霊が、多くの個人的な仲間と部下の創造に携わってきた。ちなみに崇高性の超越的段階における準絶対の神格統合についての考察に取り組むことは、不適当ではあるが、神性は、多様な創造分野において、また知性ある存在体の異なる体系において機能上明白なさまざまの神格の人格化統合機能の若干の特徴を見ることは可能なのである。
56:5.3 超宇宙における神性の現在の機能は、崇高なる創造者たち—地方宇宙の創造者たる息子と精霊、超宇宙日の老いたるもの、楽園の熟練の7精霊—の操作に盛んに明らかである。これらの存在体は、宇宙なる父へと導く7重の神の最初の3段階を成しており、また、7重の神のこの全域は、進化する崇高なるものの経験上の神格の最初の段階において調整している。
56:5.4 神格統合は、楽園と中央宇宙における存在事実である。神格統合は、時空の進化する宇宙全体における1つの達成である。
56:6.1 神格である3名の永遠の人格が、楽園の三位一体の中の非分割の神格として機能するとき、完全な統合に達している。同様に、それらが、共同して、あるいはめいめいに創造するとき、それらの楽園の子孫は、神性特有の統合性をみせる。また時空の領域の崇高なる創造者と支配者により明らかにされる神性らしいこの目的は、結果的には宇宙の非個人的エネルギー統合の臨場において、経験的神格に属する経験的人格の現実との適切な統合を通してのみ解決し得る現実の緊張を構成する経験上の崇高性の主権を統合する潜在力となる。
56:6.2 崇高なるものの人格の現実は、楽園の神格から来ており、ハヴォーナの外側回路の先導的世界において雄大な宇宙の創造者の神性から上がってくる全能の崇高者の特権力を統合する。人格としての崇高なる神は、7超宇宙の創造以前にハヴォーナにいたが、精霊段階上においてのみ役割を果たした。進化する宇宙での多様な神性統合による崇高なる全能の力の進展は、ハヴォーナにおいて崇高なる心により崇高のものの精霊的人格と調和した神格の新たな力の臨場に至り、崇高なる心は、無限の精霊の無限の心の中の可能性をもつ住民から崇高者の積極的な機能する心へと付随的に、同時に、変換する。
56:6.3 7超宇宙の進化世界の物質志向の創造物は、神格統合が崇高なるもののこの力と人格の統合において進展しているというだけで神格統合を理解することができる。神は、存在のいかなる段階においてもこのような段階に住む存在体の概念的可能性を越えることはできない。人間は、真実の認識、美の鑑賞、善の崇拝を通し愛の神の認識を発展させ、次に神格の上昇する段階を経て崇高なるものの理解へと進まなくてはならない。神格は、力に統合されるものとして理解されており、創造物の理解と達成にとって精霊的に人格化されることができる。
56:6.4 上昇する人間が、超宇宙の首都の全能者についての理解力とハヴォーナの外回路の崇高のものの人格理解とに至るとき、楽園神格を見いだすように定められているようには崇高なるものを実際には見いださない。終局者、第6段階の精霊でさえ、崇高なるものを見いださなかったのであるし、第7段階の精霊の身分を達成するまでは、また崇高なものが、未来の外宇宙活動にあって実際に機能的になるまでは、そのような可能性はありそうにもない。
56:6.5 しかし、上昇者は、七重の神の第7段階としての宇宙なる神を見いだすとき宇宙の創造物との個人的な関係の全神格段階の最初の人格に達したのである。
56:7.1 時空宇宙における進化の着実な躍進は、全知的創造物による絶えず-拡大する神格顕示を伴う。世界、体制、星座、宇宙、超宇宙における、あるいは雄大な宇宙における進化発展の頂点到達は、創造のこれらの発展的単体への、またその中での相当する神格機能の拡大を示す。また、神性認識のそのような局部的拡張のすべては、創造の他の全分野に拡大された神顕示の一定の明確な効果を伴う。認識され達成された進化の各新領域は、楽園から外へと、宇宙の中の宇宙への新たで拡大された経験上の神性の顕示からなる。
56:7.2 地方宇宙の構成要素が次第に光と生命に定着されるにつれ、7重の神はますます明白になる。時空の進化は、惑星において支配する7重の神—創造者たる息子-創造の精霊の関係—の最初の表現から始まる。この息子-精霊のつながりは、光における体制の定着で機能の充足性を達成する。七重の神の第2段階は、星座全体がこうして定着するときそのような領域全体に渡りより活発になる。地方宇宙の完全な行政上の進展は、超宇宙の熟練の精霊の新たでより直接的聖職活動をもたらす。また、この時点で、ハヴォーナの第6回路の世界を通過する間に、崇高なるものへの上昇者の理解が頂点にいたる崇高なる神に対し絶えず増加する顕示と認識もまた始まる。高なるものへの上昇者の理解が頂点にいたる。
56:7.3 宇宙なる父、永遠の息子、それに無限の精霊は、知力ある創造物への実存する神格顕示であり、それゆえに、全創造の心と精霊との人格関係においては同様には拡大されない。
56:7.4 上昇する人間は、人格的存在としてのこれらの神格の、経験上の個人的認識と、またそれとの接触に至るために十分に精霊的になり適切に教育されるようになるずっと以前に、神格の連続する段階の非個人的臨場を経験するかもしれないということが付記されるべきである。上昇する人間は、人格的存在としてのこれらの神格の、経験上の個人的認識に至るために十分に精霊的になり、適切に教育されるずっと以前に、神格の連続段階の非個人的臨場を経験するかもしれないということが付記されるべきである。
56:7.5 創造分野におけるそれぞれの新しい進化の到達には、神性表明による空間のすべての新たな侵入と同様に、全創造のそのとき既存の、また以前に組織された単体の神格の機能と顕示の同時拡大が伴う。宇宙とその構成単体の事務のこの新たな侵入は、行政の新統制の次と継その後の時代のために用意すべき管理者の先遣隊の送り込みが慣習であることから、通常は、ここに概要された方法に従い確実になされているとは必ずしも見えないかもしれない。究極なる神さえも、光と生命に定着した地方宇宙の後の段階において宇宙の超越的統制を予示する。
56:7.6 時間と空間の創造が、次第に進化の状態に定着するにつれ、七重の神の最初の3顕示の撤回に付随する崇高なる神の新たで十分な働きが見られる。もし壮大な宇宙が、光と生命に定着するならば、また、そうなるとき、すなわち、もし崇高なる神が、時間と空間のこれらの創造の直接的制御を担うならば、そのとき、何が、七重の神の創造者と創造的な顕示の未来の機能であるのか。時空の宇宙のこれらの組織者と開拓者は、外宇宙における類似の活動のために自由にされるであろうか。我々には分からないが、我々はこれらと、それに、これらに関連する問題に関して大いに推測するのである。
56:7.7 経験上の神格の最前線が、無条件の絶対者の領域へと外に拡張されるにつれ、我々はこれらの未来の創造の早期の進化時代における七重の神の活動を思い描く。我々は全員が、日の老いたるものと超宇宙の熟練の精霊の未来の状況に関し同じ意見をもっているわけではない。また、崇高なるものが、その中で7超宇宙でのように役割を果たすかどうかも知らない。だが、我々は皆、創造者たる息子であるマイケル系が、これらの外宇宙において役割を果たすことが定められていると推測する。我々のうちの何名かは、提携する創造者たる息子と神性の聖職者の間の何らかの連合形態的なものが後の時代にみられるであろうと考える。そのような創造者連合は、究極の性質の関係する創造者の自己性の何らかの新表現に行き着くかもしれないということが可能でさえある。だが、我々は、明らかにされていない未来のこれらの可能性について実際のところ何も知らない。
56:7.8 我々は、しかしながら、時空の宇宙において、七重の神が、宇宙なる父への進歩的な接近を提供するということ、そしてこの進化的接近が、崇高なる神において経験的に統合されるということを知っている。我々は、このような計画が、外宇宙において普及しなくてはならないと推測するかもしれない。一方では、いつかこれらの宇宙に居住するかもしれない存在体の新系列が、究極の段階上において、また準絶対手段による神格への接近が可能であるかもしれない。要するに、我々は、未来の外空間において操作可能となるかもしれない神性への接近手段に関わるほんのわずかの概念さえ持ってはいないのである。
56:7.9 にもかかわらず、我々は完成された超宇宙は、何らかの方法でこれらの外側の創造物に居住するかもしれないそれらの存在体の楽園上昇経歴の一部になるであろうと思う。その未来の時代に熟練の7精霊の協力で、あるいは協力なしで崇高な神によって治められている7超宇宙を経て外空間者がハヴォーナに接近するところを我々が、目撃するかもしれないということは全く可能なのである。
56:8.1 崇高なるものは、死を免れない人間の経験において3重部分から成る機能を持っている。彼は、第一に、時間と空間の神性の統合者、つまり七重の神であり、第二に、有限の創造物が実際に理解することのできる神格の最大限である。第三に、彼は準絶対の心、永遠の精霊、楽園の人格との死を免れない人間の、超自然的交流経験への唯一の手段である。
56:8.2 地方宇宙に生まれ、超宇宙で養成され、中央宇宙で訓練された上昇の終局者は、個人的経験において崇高者に統合する七重の神の時間と空間の神性についての理解の可能性を十分に擁している。終局者は、出身の超宇宙以外の超宇宙において引き続き役目を果たし、それによって、生物の可能な経験において七重の多様性の完全さが成就されるまで経験に経験を重ねる。終局者は、内住する調整者を通して宇宙なる父を見いだせるようになるが、このような終局者が本当に崇高なるものを知るようになるのはこれらの経験手段によってであり、終局者には外空間の未来の宇宙での、またそれへのこの崇高なる神格の勤めと顕示へと運命づけられている。
56:8.3 心に留めおきなさい。父なる神と楽園の息子が我々に為すすべてを。同様に、また精霊的に、我々は、出現しつつある崇高なるもののための機会を、またその中でするべき機会を持つ。宇宙の愛、喜びと奉仕の経験は相互的である。父なる神は、息子たちに贈与したすべてを自分に返してもらう必要はないが、息子らは、仲間や進化する崇高なるものにこのすべてを与える、(あるいは、そうすることができる)。
56:8.4 全創造現象は、前の、既述の、創造者-精霊の活動の反映である。イェススは次ぎのように言ったし、それは文字通り本当である。「息子は、父がすることを見てそれらのことだけをする。」時の世界においてあなたがた人間は、仲間への崇高者の顕示を開始できりし、楽園へ向かって登るにつれ、ますますこの顕示を増大できる。永遠の世界おいてあなた方は、最高段階—究極段階さえ— の進化的創造物のこの神のますますの顕示が許されるかもしれない。--第7段階の終局者として。[7]
56:9.1 無条件の絶対者と神格絶対者は、宇宙なる絶対者に統合されている。絶対者は、究極者に調整され、崇高者に条件づけられ、七重の神の中で時間と空間により変更される。準無限段階には、3絶対があるが、それらは、無限に1つのようである。楽園には、神格の3人格化があるが、三位一体においては1つである。
56:9.2 主たる宇宙の主要な哲学的命題とは、これである。絶対性(無限には一つとしての3絶対性)は、三位一体以前に存在したのか。また、絶対性は、三位一体にとっての先祖であるのか。もしくは、三位一体は、絶対性に先行するのか。
56:9.3 無条件の絶対者は、三位一体から独立した力であるのか。神格絶対者の臨場は、三位一体の無制限の機能を暗示するのか。また、宇宙なる絶対者は、三位一体の、三位一体の中の一個の三位一体でさえの、最終機能であるのか。
56:9.4 まず考えつく事は、万物—三位一体ですら—の祖先としての絶対者についての概念は、—三位一体ですら—一貫性の充足と哲学的統合における一過性の満足をもたらすように思われるが、いかなるそのような結論も楽園の三位一体の永遠の現実によって無効にされる。我々は、宇宙なる父と三位一体の仲間は、特質と存在において永遠である、と教えられているし信じてもいる。してみると、ただ1つの一貫した哲学的結論がある。そして、それは、絶対者は、すべての宇宙の知性にとり宇宙内外の空間のすべての基本的かつ主要な状況への(三位一体の)三位一体の非人格の、調和の反応である。雄大な宇宙のすべての人格の知性あるものにとっての楽園の三位一体は、個人的な理解と創造物認識の実際の目的のためには、終局的に、永久的に、崇高的に、究極的に、絶対のままでいつまでもある。
56:9.5 創造物の心は、その心がこの問題をとらえることができるように、三位一体と絶対者双方の根本誘因と無条件の源としての宇宙なる私はあるの最終的確認に導かれる。従って、我々は、絶対の個人的概念を受け入れることを切望するとき楽園の父についての我々の考えと理想に立ち戻って考える。我々は、他の点では非人格のこの絶対者に関する理解の促進を、あるいは意識の増大を望むとき、宇宙なる父が、絶対の人格性の実存の父であるという事実に逆戻りする。永遠なる息子は、経験上の意味における絶対の人格化ではないものの、絶対の人格である。そして、次に我々は、崇高性、究極性、無限性を伴う統合され調和された神格結合—三位一体の三位一体—からくる非人格の活動の明白な臨場の宇宙現象と外宇宙の現象を構成するのであると宇宙なる絶対者を概念化する一方で、神格絶対者の経験上の人格化において頂点に達すると経験上の三位一体を心に描いてさらに進む。移る
56:9.6 父なる神は、有限から無限への全段階において認識でき、楽園から進化世界までの創造物は彼をいろいろに認知してきたが、ただ永遠なる息子と無限の精霊だけが父なる神を無限として知っているのである。
56:9.7 精霊の人格はただ楽園上において絶対であり、絶対者についての概念は無限においてのみ無条件である。神格臨場は、楽園上においてのみ絶対であり、神の顕示は、神の力が無条件絶対者の空間潜在能力で経験的に無限になるまでは、常に部分的で、相対的で、前進的でなければならない。一方、その人格顕示は、神格絶対の明白な臨場において経験的に無限になり、また、無限のこれらの2つの可能性が宇宙の絶対者において現実と統合される。
56:9.8 しかし準無限段階を越えた3絶対者は1つであり、したがって存在する他のいかなる系列が、今までに無限の意識を自分で理解するかどうかにかかわらず、神格によって理解された無限なのである。
56:9.9 もう一つの永遠は、無限の永遠—永遠の無限—に備わる経験上の可能性の自己認識の経験が必要であるかもしれないとはいえ、永遠における実存的地位は、無限の実存的自意識を暗示している。
56:9.10 父なる神は、宇宙の中の宇宙すべてにおいて知性ある創造物と精霊の存在体への神格と現実の全顕示のための人格の源である。人格として、今、あるいは永遠の未来の一連の宇宙経験において、もしあなたが、七重の神到達にいたるか、崇高なる神を理解するか、究極なる神を見いだすか、あるいは神、 絶対なる神の概念の把握を試みるならば、あなたは、それぞれの冒険達成において、新しい経験上の段階において、rediscovered永遠なる神—宇宙のすべての人格の楽園の父—絶えることない満足で発見するであろう。
56:9.11 宇宙なる父は、宇宙統合の説明である。宇宙統合は、絶対的価値と意味—無条件の現実—の後究極統合の中で崇高的に、究極的にさえ、気づかれなくてはならない。
56:9.12 熟練の原動力の組織者は、空間へと向かい、楽園へと引く宇宙なる父の力に反応する引力になるためにそのエネルギーを動員する。そして、引き続いて創造者たる息子がきて、これらの引力に反応する原動力を生息宇宙へと編成し、その中で楽園の父の精霊を自身に受け入れ、続いて可能な全神性特質が、父に似るように父のもとへ上って行く知性ある創造物を巻き込む。これらの引力に反応する原動力を生息宇宙へと編成し、その中で楽園の父の精霊を自身に受け入れ、続いて可能な全神性特質が、父に似るように父のもとへ上って行く知性ある創造物を巻き込む創造者たる息子が続いて来る。
56:9.13 間断なく拡大する楽園の創造的原動力の空間的進行は、宇宙なる父の絶えず広がる引力把握の領域を予示するようであり、神を愛することができ、神に愛されるもの、また神のようになることを選ぶかもしれないもの、こうして神を知るようになることにより楽園到達を選択し、そして神を見いだすかもしれないものであるさまざまな知性ある創造物の型の決して終わらない増加、
56:9.14 宇宙の中の宇宙は、完全に統一される。神は力と人格において一つである。エネルギーの全段階と人格の全局面の調整がある。哲学的に経験的に、概念的に現実的に、万事万物は楽園なる父を中心とする。神はすべてであり、すべての中にあり、万事あるいは万物も、神なくしては存在しない。[8]
56:10.1 光と生命に定着した世界は、初段階から第7新世紀へと前進するにつれ、創造者たる息子への敬慕から楽園の父の崇拝におよぶ七重の神の現実の認識をするようになる。進歩し続ける人間は、究極の神の影を投げかけている聖職活動の現実を漠然と識別する一方で、そのような世界歴史の継続的7段階にわたり、崇高の神への知識を増大している。
56:10.2 輝かしいこの時代にわたり、前進しつづける人間の主なる追求は、理解し得る神格の根本—真、美、善—についてより良い理解とより充実した認識の探求である。これは、心、物質、精霊に心的、物質的、精霊的に神を識別しようとする人間の努力を表している。人間は、この探索を進めるにつれ、哲学、宇宙学、神学についての経験上の研究に次第に熱中している自身に気づく。
56:10.3 あなたは、いくぶんか哲学を把握し、礼拝、社会奉仕、個人の精霊的経験における神性,神学を理解するが、美—宇宙学—の追求に関してはあなたがたは、皆が、人間の粗野の芸術的努力の研究に制限する。美、すなわち芸術とは、主として対照の統一に関わる問題である。多様性は、美の概念に欠くことができない。崇高の美、有限の芸術の頂点は、創造者と被創造者の宇宙両極端の広大さの統一劇である。神をみつける人間と人間をみつける神—創造者がそうであるように完全になる被創造者—それは、この上なく美しいものの崇高的達成、すなわち宇宙芸術の頂上到達である。
56:10.4 それだからこそ、唯物論、無神論は、醜悪の最大限、美に対する限りある対照の頂点である。最高美は、前存在の調和のとれた現実から生まれた多様性の統一の全景にある。
56:10.5 思考における宇宙科学段階の到達は、次を含む。
56:10.6 1. 好奇心。調和への飢餓と美への渇望。調和の取れた宇宙関係の新段階を発見する不断の試み
56:10.7 2. 審美的鑑賞力。現実の全段階における全創造的顕示の芸術的特徴の美しく、絶えず前進する評価への愛。
56:10.8 3. 倫理的感性。美の評価は、真実の認識を通してすべての存在体との神格関係において神性善の認識に影響を与えるそれらのものの永遠的適合の直感に導く。かくして、宇宙科学でさえ神性現実の価値の追求へと—神意識へと導く。
56:10.9 真、美、善というこれらの質の高い価値が、時間と空間の領域に神格の顕示を受け入れるが故に、光と生命に定着した世界は、完全に真、美、善の理解に関係している。永遠の真理の意味は、必滅の人間の結合された知的かつ精霊的性質に訴える。普遍的な美は、宇宙の創造の調和のとれた関係とリズムを受け入れる。これは、より鮮明に知的な魅力であり、また物質宇宙の統一的、同時性の理解に向かって導く。神性の善は、有限の心への無限の価値への啓示を表し、そこで認知され、そして人間の理解の崇高な段階のまさしくその敷居へと引き上げられる。
56:10.10 宗教の知的な礎を提示する真実は、科学と哲学の基礎である。美は、芸術、音楽、そして人間の経験すべての意義あるリズムである。善は、倫理の、道徳の、宗教の意味- 経験上の完全性への飢餓—を擁している。
56:10.11 美の実在は、進歩的発展の事実が崇高な心の支配を示すのと同程度に確かに創造物の感謝する心の臨場を暗示している。美は、そのすべてが前存在の、かつ永遠の統一性から生じる知覚可能な現実の広範囲の多様性の時間と空間における調和的統合に関わる知的認識である。
56:10.12 善は、神性の完全性のさまざまな段階の相対的価値に対する精神的認識である。善の認識は、心の道徳的状態、善悪を区別する能力を持つ人格的な心を意味する。しかし、善、すなわち偉大さの所有は、真の神性到達である。
56:10.13 真の関係についての認識は、真実と誤りを区別する力をもつ心を暗示する。ユランチアの人間の心に注ぎ込む真実の贈与の精霊は、神へ向けての永遠の上昇において調整されるように真実に的確に反応する。
56:10.14 あらゆる電子、思考、あるいは精霊の全衝動は、宇宙全体において一行動単位である。精神の段階と精霊の段階において罪のみが孤立し、邪悪のみが引力に抵抗している。宇宙は、一つの纏まりである。孤立しては、何事も存在せず何の存在体も生きてはいない。自己認識は、もしそれが反社会的であるならば、潜在的に邪悪である。「人は一人だけでは生きない。」というのは、文字通りに本当である。宇宙規模の交流は、人格統一の最高の形を構成する。イェススは、「あなた方の中で最も偉い人は、すべての者に仕えるものになるべきである。」と言った。[9][10]
56:10.15 真、美、善でさえ—心、物質、精霊の宇宙への人間の知的接近—神格的、崇高的理想の統一された一概念へと結合されなければならない。人間の人格が、人間の経験を物質、心、精霊と統一するように、この神性と崇高の理想は、力により崇高性へと統一されるようになり、次に父らしい愛の神として人格化されるようになる。
56:10.16 どの全体と部分の関係への全洞察は、部分全てとその全体の関係の理解ある把握を必要とする。また、これは、宇宙においては創造された部分と創造の全体者との関係を意味する。神格は、こうして、普遍的、かつ永遠達成の超自然的目標、無限の目標にさえなる。
56:10.17 宇宙の美は、物質的創造における楽園の島の反映の認識、表彰であり、他方、永遠の真実は、人類への自身の贈与ばかりではなく、すべての民族への真実の精霊の注出をもする楽園息子の特別な聖職活動である。表彰、聖職活動ともに楽園息子に属?神性の善は、無限の精霊の多重的人格の優しい聖職活動においてより完全に示される。しかし、愛は、すなわち、これらの3特質の総体は、自分の精霊の父としての神についての人間の認識である。
56:10.18 物理問題は、絶対の神格についての輝くエネルギーの楽園の時間と空間の影である。真実の意味は、神格の不滅の言葉からくる人間の知性の反響—時間と空間における崇高な概念の理解である。神性の善の価値とは、宇宙なるもの、永遠なるもの、そして無限のものが、精霊人格の進化する球体の時間-空間の有限の創造物へ行う慈悲深い聖職活動である。
56:10.19 神性の意味あるこれらの現実の価値は、神性の愛としての各人格の創造物との父の関係において混ざり合う。それらは、神の慈悲として息子とその息子たちの中において調整される。神性の意味あるこれらの現実の価値は、精霊とその精霊の子供たちを通してそれらの特質を神性の聖職活動として、すなわち、時間の子供たちへの優しい愛の描写として表す。これらの3神性は、力-人格統合として主に崇高なるものによって明らかにされる。それらは、7重の神により上昇の7段階における神性の意味と価値の7つの異なる関係で様々に示されている。
56:10.20 有限の人間にとっての真、美、善は、神性現実の完全な顕示を包含する。神格のこの愛-理解が、神を知る人間の生活における精霊的表現を見いだすとき、神性の果実:知性の平和、社会の進歩、道義的満足感、精霊的な喜び、宇宙の英知が、もたらされる。7段階の光と生命の世界の先進的な人間は、愛が宇宙で最も素晴らしいものであることを知り、 その上に、神が愛であることを知っている。[11]
56:10.21 愛とは、他者に親切にしたいという願望である。
56:10.22 [ネバドンの天啓部隊の要請により、また、ユランチアの惑星の王子の代理人である特定のメルキゼデクと共同し、ユランチア訪問中の強力な使者による提示]
56:10.23 ~ ~ ~ ~ ~
56:10.24 宇宙なる統合に関するこの報告は、マンツーチア メルキゼデクの指示に基づいて活動する12名のネバドンの人格の委員会によるいろいろな著者による一連の提示である。我々は、ユランチア時間の1934年に、上司に認可された手法によりこれらの物語を組み立て、英語で掲載した。