123:0.1 ベツレヘム滞在の不確実性と不安から、マリヤは、アレクサンドリアに無事にたどり着くまで離乳せず、そこで家族は、通常の生活に落ち着くことができた。かれらは、親類と共に暮らし、ヨセフは、到着直後に仕事を確保したので、自分の家族を養うことができた。かれは、数ケ月間大工として雇われ、その後幾つかの公共建築物の一つに携わる大きな労働者集団の長に昇進した。この新たな経験は、ナザレに戻ってからのヨセフに、請負人になる一案を持たらした。
123:0.2 イエスの心もとない幼年早期を通じて、マリヤは、幸福を危うくするかもしれない、あるいはいかなる形での地上での使命を妨害する何かが我が子に降り懸からないように長い監視を続けた。彼女ほどに、我が子に献身したものはいなかった。イエスがたまたま居ることになった家庭には、他に同じ年頃の子供が二人おり、近隣には遊び仲間として年の合う子供が、他に六人いた。最初マリヤは、イエスを身近に置こうとした。彼女は、他の子供と庭で遊ぶのを許せば何か起こりはしまいかと恐れたが、ヨセフは、同じ年頃の子供に順応する方法を学ぶ有用な経験を奪い取ると、縁者の加勢を得て、マリヤを説得することができた。そしてマリヤは、そのような過保護の指導と通常でない養護は、自意識の強い、幾分自己中心的にする傾向があるかもしれないと気づき、約束の子を他の子供と同じように成長させる方策に納得した。彼女は、この決定に従順である傍ら、家の周りや庭で小さい子等が遊んでいる間は何時も必ず見守っていた。嬰児と幼少初期のこれらの年月、マリアが、息子の安全を念じ続けたこの重荷というものは、愛情深い母のみが知ることができるのである。
123:0.3 イエスは、アレクサンドリアでの2年間の滞在を通して健康に恵まれ、普通に成長し続けた。数人の友と、親類は抜きにして、誰もイエスが「約束の子」だとは告げられなかった。ヨセフの縁者の一人は、メンフィスのイクナトンの遠い子孫である幾人かの友人にこれを明かし、かれらは、アレクサンドリアの信者の小集団とともに、ナザレの家族の無事を願い、その子に敬意をはらうためにパレスチナに戻る少し前にヨセフの親類の篤志家の宮殿のような自宅に集った。この折に集まった友は、イエスにヘブライ教典の完全なギリシア語訳を提示した。しかしこのユダヤの聖なる書の写本は、イエスとマリヤの両人が、エジプトに残るようにとのメンフィスとアレクサンドリアの友人達の招待をようやく断わるまでヨセフの手に渡されなかった。これらの信者は、運命の子が、パレスチナのいかなる指定された場所よりもアレクサンドリアの住人としての方がはるかに大きな世界的影響を及ぼすことができると主張した。ヘロデの死報を受けた後、これらの説得が、パレスチナへの彼らの出発をしばらく遅らせた。[1]
123:0.4 ヨセフとマリヤは、友人のエズラエオンの小舟でアレクサンドリアをようやく離れ、ヨッパに向かい、紀元前4年8月下旬にその港に着いた。かれらは、直接ベツレヘムへ行き、そこに留まるべきか、あるいはナザレに戻るべきかを友人や縁者と談義し、9月のまる一月をそこで過ごした。
123:0.5 マリヤは、イエスが、ダヴィデの町ベツレヘムで育つべきだという考えを完全に諦めなかった。ヨセフは、息子がイスラエルの王のような救済者になるとは、実際に信じなかった。その上、かれは、自身が、本当はダヴィデの子孫ではないということを知っていた。自分が子孫にみなされているのは先祖の一人のダヴィデの家系への養子縁組によるものであった。勿論マリヤは、ダヴィデの町こそがダヴィデの王座の新候補者が育て上げられるに最適の場所であると考えたが、ヨセフは、アーカラウスとよりもアンティパス・ヘロデとの賭けを望んだ。ヨセフは、ベツレヘム、あるいはユダの他の市における子供の安全性に大きな懸念を抱いた。ガリラヤのアンティパスよりも、アーカラウスの方が、父ヘロデの威嚇的な政策を進めそうだと推測した。そしてこれらの理由以外にヨセフは、子を養い教育するのにはガリラヤの方が良いと自分の好みをあからさまにしたが、マリヤの反対を押し切るのに3週間を要した。[2]
123:0.6 ヨセフは、10月1日までにナザレに戻ることが自分達にとって最善であると、マリヤやすべての友人を説得した。そこで、紀元前4年10月初旬、ベツレヘムからリッダ、スキトポリス経由でナザレに出発した。ある日曜日の早朝、ヨセフと同伴の5人の親類が、徒歩で進む一方、マリヤとその子供は、新たに手に入れた役畜に乗り出発をした。ヨセフの親族は、ナザレまでの単独旅行を許そうとしなかった。連中は、エルサレム、ヨルダン渓谷経由でガリラヤへ行くことを怖れたし、西の経路は、幼い子を連れた二人きりの旅人にとり必ずしも安全ではなかった。[3]
123:1.1 旅の4日目、一行は、無事に目的地に着いた。かれらは、知らせることもなく家に到着し、そこにはヨセフの既婚の兄弟の一人が、3年以上も住んでおり、かれは、一行を見て誠に驚かされた。かれらは、すべきことをひっそりと為し、ヨセフとマリヤどちらの家族もアレクサンドリアを出発したことさえ知らなかった。あくる日ヨセフの兄弟は、家族を引っ越しさせ、マリヤは、イエスの誕生以来初めて我が家での生活を味わうべく小家族とともに落ち着いた。ヨセフは、一週間足らずで大工仕事を確保し、家族はこの上なく幸せであった。[4]
123:1.2 イエスは、ナザレに帰着時点でおよそ3歳と2ヶ月であった。かれは、全てのこれら旅によく耐えたし、駆け回ったり、楽しめる自分の家があり、健康に優れ、稚拙な歓喜と興奮に満ちていた。しかしかれは、アレクサンドリアの遊び友達との交わりを大いに懐かしんだ。[5]
123:1.3 ヨセフは、ナザレへの途中、ガリラヤの友人や縁者の間でイエスが約束の子であると言い触らすのは賢明ではないとマリヤを説き伏せていた。かれらは、これらの件についての全ての言及を誰からも差し控えることに同意した。そして双方共に、この約束遵守にとても忠実であった。
123:1.4 全年を通してイエスの4年目は、通常の身体発育と心的活動の期間であった。一方かれは、ヤコブという近隣の同じ年頃の少年に非常に近い愛着を覚えるようになった。イエスとヤコブは、二人で遊びを楽しむとともに、優れた友人、忠実な、たいそう睦まじい友へと成長していった。
123:1.5 このナザレの家族生活における次の重要な出来事は、紀元前3年4月2日の早朝の次男ヤコブの誕生であった。イエスは赤ん坊の弟を持つという思いに興奮し、赤子の最初の動きを観察するために何時間も立っていたのであった。[6]
123:1.6 ヨセフが村の泉と隊商の停留場近くに小さな作業場を建てたのは、同じ年の真夏のことであった。これ以降、かれは、昼間の大工仕事はごくわずかしかしなかった。彼には、仲間として2人の兄弟と他に幾人かの職人がおり、自身は、仕事場に残り軛や鋤を作ったり他の木工作業をしながら彼らを働きに出した。かれは、革、綱、粗布でも工作をした。イエスの方と言えば、成長とともに、学校のない折には、 世界の隅々からの隊商案内人や旅行者の会話や世間話を聞いたりする一方で、家の仕事で母を手伝い、仕事場で父の働き振りを観察したりと、父母の間での時を均等に過ごした。
123:1.7 イエスが4歳になる1ヶ月前のこの年の7月に、隊商の旅人との接触による悪性腸疾患の発生が、ナザレ中に広がった。マリヤは、イエスがこの伝染病に晒される危険をとても警戒し、二人の子供を着物にくるみ、ナザレの数キロメートル南のサリド近くのメギド道沿いにある自分の兄弟の田舎の家に逃れた。かれらは、2ヶ月以上もナザレに戻らなかった。イエスは、この最初の農場経験を大いに楽しんだ。
123:2.1 ナザレへの帰還の一年余の後、少年イエスは、何かにおいて個人的で、しかも心の底からの最初の道徳決意の年齢に到達した。楽園の父からの神性の贈物である思考調整者は、先に人間の肉体に似せた超人存在の化身のメルキズィデクのマキヴェンタに仕え、こうして経験を積み、彼に内住するためにやってきた。これは紀元前2年2月11日に起きた。心の内に住み、 心の究極的な崇高化と進化している不滅の魂の永久生存のために働くこれらの思考調整者を受け入れたそれ以前、またその時代以降の幾百万という他の子供達と同様に、イエスは、神性の訓戒者の到来に気づかなかった。
123:2.2 2月のこの日、マイケルの子供に似せた具現の完全な状態に関連があり、宇宙の支配者の直接かつ個人的な監督は、終わった。展開していく人間の具現の期間、その瞬間から、イエスの後見は、この内住する調整者、そして惑星の上司の指図に従い、ある種の決められた任務の履行を割り当てられた中間創造物の代理者により、時おり補充される関連する熾天使等の任務と定められている。
123:2.3 この年の8月イエスは5歳であった。それゆえ我々は、その一生の5年目(数え年)と言おう。この年、紀元前2年、5年目の誕生日の1ヶ月余り前、7月11日の夜生まれた妹のミリアムの到来がイエスを非常に喜ばせた。翌日の夕方、生物の中の様々な集団が、別々の個人としてこの世界に生まれてくる様について、イエスは、父と長い話をした。イエスの初期教育の最も貴重な部分は、深く考え、追い求めるイエスの探求に対しての両親からの答えから確保された。ヨセフは、少年の数多くの質問に充分の労力や時間を費やすことを決して怠らなかった。5歳から10歳までの時期、イエスは質問の塊であった。ヨセフとマリヤが答えられない時、2人は、充分討論したり、または少年の利発な心が仄めかした問題に対して満足のいく解決に至る努力をするイエスを他の可能な限りの方法で助力することを決して怠ったことはなかった。[7]
123:2.4 ナザレからの帰郷以来、家族は忙しく、ヨセフは、新しい仕事場の建設や本来の仕事の再出発に殊の外追われてきた。かれは、それ程までに仕事にかまけていたので、ジェイムズのための揺りかごを作る時間さえなかったが、これは、ミリアムが生まれるかなり前に改められていたので、この稚児には、家族が、可愛がるのに寄り集まってくるとても心地の良い赤ちゃん用のベッドがあった。 幼いイエスは、心から、自然で普通の家庭経験に入った。かれは、弟や赤ん坊の妹をとても可愛がり、マリヤの育児に大いに役立った。
123:2.5 当時のガリラヤのユダヤ人の家庭ほどに子供により知的で、道徳的で、良い宗教教育を与えられる家庭は、非ユダヤ人の世界にはほとんど無かった。これらのユダヤ人は、子育てや教育のための系統だった段階があった。子供の生涯を7段階に分けていた。
123:2.6 1. 新生児、最初の8日まで
123:2.7 2. 授乳児
123:2.8 3. 離乳児
123:2.9 4. 母に依存の期間、5年目終了まで続く
123:2.10 5. 子供の独立の始まり、息子の場合父は、その教育の責任を持つ
123:2.11 6. 思春期の少年と少女
123:2.12 7. 成年男女
123:2.13 子供の躾の責任は、5回目の誕生まで母が担うのが、ガリラヤのユダヤ人の習慣であり、それからは、もしそれが男の子ならその時点から父親が、少年の教育責任を負う。イエスは、したがって、この年ガリラヤのユダヤ人の子供の第5段階に当たり、それに応じて紀元前2年8月21日、マリヤは、更なる教導のためにイエスを正式にヨセフに手渡した。
123:2.14 今度はヨセフが、イエスの知性と宗教教育を直接引受けるのであるが、母は、まだその子の家庭教育に関心を持っていた。彼女は、地所をぐるっと取り囲む庭園の塀のまわりに育つ蔦や花について知り、世話をすることを彼に教えた。彼女はまた、イエスが地図を描き出したり、アラム語、ギリシア語、後にはヘブライ語を書くことで、彼の初期の練習の多くをした砂入りの数個の浅い箱を家の屋根の上(夏の寝室)に用意をした。そしてかれは、流暢な3言語すべての読み、書き、話すことを学んだ。
123:2.15 イエスは、身体的にほとんど完璧な子供に見えたし、精神的にも感情的にも通常の成長を続けた。この年(数えの5歳)の後半、軽い消化不良、最初の軽い病気を経験した。
123:2.16 ヨセフとマリヤは、度々長子の将来について語り合ったが、もしそこに君がいたとしたならば、その時代と場所における普通の健康で伸び伸びとした、だが極めて好奇心の強い子の育つところを観察するに過ぎなかったであろう。
123:3.1 すでに、イエスは、母の助力でアラム語系のガリラヤ方言を会得していた。さて今度は父が、ギリシア語を教え始めた。マリヤは、ギリシア語をほとんど話さなかったが、ヨセフは、アラム語とギリシア語双方の流暢な話し手であった。ギリシア語学習のための教科書は、ヘブライ教典—詩篇をふくむ法律と予言者の完全版—の写しであり、それは、エジプトを立つ際に贈呈されたものであった。ギリシア語の完全な写本は、ナザレ中に2冊だけであり、大工の家族によるその中の1冊の所有は、多くの訪問客がヨセフの家を求める場所にすると同時に、イエスの成長につれ、ほとんど絶えることなくひたむきな生徒達や誠実な真の探求者達に会わせることが出来たのである。その年の暮れる前に、イエスは、この極めて貴重な写本の管理をしており、6回目の誕生日には、聖なる書は、アレクサンドリアの友人と親類からイエスに贈られたものだと告げられ、そしてかれは、短い間ですぐその写本を読めるようになった。
123:3.2 まだ6歳にもならない時、イエスの若い人生の最初の大きな衝撃が起こった。父は、—少なくとも父母共に、—全てを知っていると少年には思われた。それ故、かれが、父にたった今起こった弱震についてその原因を尋ねた折、「息子よ、私は余り知らないよ。」とヨセフがいうのを耳にしたこの聞きたがりの子供の驚きを想像してみよ。こうしてイエスには、この地上の両親が、全賢全知ではないことが分かると、長くて混乱させるような幻滅が、始まった。
123:3.3 ヨセフの最初の考えは、地震は神によって起こされたとイエスに言おうとしたが、そのような答えは、より厄介な質問の挑発になると、瞬間の反射がヨセフを諭した。幼いころでさえ迂闊に神か悪魔どちらかの責任にして、物理的あるいは社会現象についてのイエスの質問に答えるのは誠に難しかった。ユダヤ人の普通の信念と調和して、イエスは、心的、精神的現象の可能な説明として善霊と悪霊の教えを長らく快諾していたが、そのような目に見えない作用は、自然界の物理現象によるものであるとずっと前から疑わしくなっていた。
123:3.4 イエスが6歳になる前の紀元前1年の初夏、ザカリヤ、エリザベスとその息子のヨハネが、ナザレの家族を訪ねて来た。イエスとヨハネは、二人の記憶の中での最初の訪問であるこの時を楽しんだ。訪問者は、ほんの数日しか居られなかったが、親達は、息子達の将来の計画を含む多くの事を話し合った。こうして親達が、談話している間、少年達は、屋上の砂で積木で遊んだり、他にもいろいろと実に男の子らしい様子で遊んでいた。
123:3.5 イエスは、エルサレムから来たヨハネに会って、イスラエルの歴史に尋常でない興味を表し、安息日の儀式、会堂での説教や繰り返される祝賀の馳走の意味について詳細を尋ねるようになった。父親は、この全ての時期について説明した。最初は、第一夜に1本の蝋燭から始まり、翌晩にもう1本追加していく八日間続く真冬の祝いの灯明であった。これは、ユダ・マカバイが、モーゼの追悼式の復興後、寺院への奉納を祝ったものであった。次は、エステルの饗宴と彼女によるイスラエル救出の祭、すなわち早春のプリムの祝賀であった。この後に続くのは、厳粛な過ぎ越しの祭りであり、大人達は、都合のつく時にいつでもエルサレムで祝う一方で、子供達は、家でまる一週間酵母のパンを食べられないことを注意するのであった。その後に初物の祭、つまり農作物の収穫があり、最後に最も荘厳な新年の祝い、償いの日があった。これらの祝賀の一部と遵守は、イエスの幼い心には理解しがたいものであったが、かれは、真剣にそれらについて考えた上で、葉の仮小屋で野営をした笑いと娯楽の全ユダヤ人の慣例の休暇時期の会堂の饗宴の喜びに完全に入り込んでいった。
123:3.6 ユセフとマリヤは、この年のずっとイエスの祈りに困惑した。イエスは、まるで地上の父親ヨセフに話すように天国の父に話すと言って譲らなかった。神格との厳粛で敬虔な交わりの手段からのこの離別は、両親に、特に母にいささかの心の動揺を与えたが、変わるようにと彼を説得することはなかった。かれは、教えられてきた通りにお祈りを唱え、その後に「少し天国の僕の父と話」をすると主張した。
123:3.7 この年の6月ヨセフは、ナザレの仕事場を男のきょうだいに譲り、建築業者として正式に仕事を始めた。年が終わる前には、家族の収入は3倍以上となった。ヨセフの死後まで二度と再びナザレの家族が貧困の危機を感じることは決してなかった。家族は、より大きく膨らみ、余分の教育や旅行に多額を費やしたが、ヨセフの増収入は、増額出費との足並みをそろえていた。
123:3.8 続く数年間、ヨセフは、ナザレ内外での建築と併行して、カナ、ガリラヤのベツレヘム、マグダラ、ネイン、セフォリス、カペルナム、エンドルでかなりの仕事をした。ジェイムズが、家事や幼い子供達の世話の手伝いができる年齢に成長するにつれ、イエスは、父と家を離れ、これらの近隣の町村への頻繁な旅をした。イエスは、鋭い観察者であり、これらの旅で多くの実用的な知識を得た。かれは、人間とその地上の生き様について勤勉に知識を蓄えた。
123:3.9 この年、自己の強い感情と強烈な衝動を家族の協力や家庭教育の要求に合わせることにイエスは、大きく前進した。マリヤは、愛情ある母であったが、かなり厳しい規律励行者であった。しかしヨセフは、いつも少年と腰を下ろし、様々な点において、家族全体の幸福と平穏のために個人的な欲望の節制の必要性について真実の、しかも根本理由について充分に説明するのが常であったので、イエスに対する大きな影響力を振るった。その状況が説明されると、イエスは、つねに聡明に、かつ快く親の願いや家庭のきまりに協力的であった。
123:3.10 母が家の手伝いを必要としない時の余暇の多くは、昼間は花と植物、夜間は星の考察に費やされた。かれは、この秩序立ったナザレ一家の就寝時間のずっと後に、横になり不思議そうに星空を見上げるといったやっかいな傾向を明らかにした。
123:4.1 これは、イエスの生涯で多事の年であった。1月初旬、ガリラヤで大きな吹雪が起きた。61センチメートルの深さの雪が降り、イエスがその一生で見た中で最大の降雪であり、ナザレで百年間に降った中でも最も深いものであった。
123:4.2 イエスの時代のユダヤ人の子供の遊びは、むしろ限定的であった。子供達は、あまりにしばしば年上の者がしているのを見てその中で真剣な事をして遊んだ。かれらは、しばしば目にし、いかにも壮観な儀式である結婚式や葬式の真似事をよくした。かれらは、踊ったり、歌ったりしたが、後の時代に子供達がよく楽しんだ決まりを伴うような遊びはそれほどなかった。
123:4.3 イエスは、隣の少年と、後にはジェイムズと共々に、大工の仕事部屋の一番奥の角での遊びを楽しんだ。そこでかれらは、鉋屑や木片で大いに面白く遊んだ。 安息日に禁じられている特定の遊びの害悪について理解することは常に難しかったが、かれは、両親の意に即さないことは決してしなかった。イエスは、ユーモアと戯れの能力を持っていたが、その時代と世代の環境においてそれを表現する機会はほとんどなかったものの、14歳まではたいてい陽気で気楽であった。
123:4.4 マリヤは、家と隣接した動物小屋の上に鳩小屋を置いてあり、家族は、鳩の売却から得た利益から十分の一を差し引きそれを特別慈善基金として会堂の役員に渡した後、イエスが残りを管理した。
123:4.5 この時までにあった事故らしい事故は、粗布製の屋根の寝室に続く裏庭の石段での転倒であった。それは、東からの突然の7月の砂嵐の際に起きた。熱風は、通常は雨季に、特に3月と4月に粒砂の突風をもたらした。そのような嵐が7月にあるというのは、番外なことであった。 嵐が襲ってきた時、イエスは、乾燥期の大半は、これが遊戯場であったので例によって屋根で遊んでいた。かれは、階段を下りているとき砂で目つぶしにあい倒れた。この事故の後ヨセフは、階段の両側に手摺を設けた。
123:4.6 この事故を予め防ぐ方法はなかった。現世の中間の保護者達、つまりこの少年の見守りを任されていた正、副の中間者の怠りであるとは、責められなかった。守護天使の責任にも問えなかった。ただ単に避け得られるものではなかった。だが、ヨセフのエンドルへの留守中に起きたこの些細な事故は、心に多大の不安を広げていったので、マリヤは、無分別にも何ヶ月もの間、自分の極近くにイエスを居させようとした。
123:4.7 物理的災害、物理自然のありふれた出来事には、天界の人格は濫りに手出しをしない。普通の情況下においては、中間の被創造物のみが、宿命の男性、女性である人間達を護るために物質状況に介入することができるのであり、特別の状況においてさえ、これらの存在体でさえ上司の特定の指図に限って行動できる。
123:4.8 そして、これは、この好奇心と冒険心に溢れた若者の上にその後起きたそのような軽い事故の中の一つにすぎない。活発な少年の平均的な幼少時代や青春時代を心に思い描けば、あなたは、イエスの若々しい経歴に関するかなりはっきりとした見当がつくであろうし、彼が、両親に、特に母親にいかほどに憂慮させたか想像できるであろう。
123:4.9 ナザレの家族ヨセフに、4番目の家族が、紀元1年3月、水曜日の朝生まれた。[8]
123:5.1 イエスは、今や、ユダヤの子供の教会堂の学校において正規の教育が始まる年齢の7歳となった。そこでかれは、この年の8月、ナザレでの波瀾万丈の学校生活に踏み入った。この少年は、すでにアラム語とギリシア語の二つの言語の流麗な読み手、書き手、話し手であった。かれは今度は、ヘブライ語の読み、書き、話すことの学習課題に習熟しようとするところであった。そしてかれは、目前にある新しい学校生活を本当に熱望していた。
123:5.2 かれは、3年間—10歳まで—ナザレ教会堂の小学校に通った。かれは、この3年間ヘブライ語で書かれた法典の基本を学んだ。次の3年間は、その上の学校で学び、神聖な法律のより深い教えを反復朗読により記憶することに集中した。かれは、13歳の年にこの会堂の学校を卒業し、会堂司達から「戒律の息子」として、この後イスラエル国家の責任ある国民として、エルサレムでの過ぎ越しの祝いへの出席を課され、 教育を受けたとして両親に引き渡された。依ってかれは、その年父母と共に最初の過ぎ越しの祝いに参加した。
123:5.3 ナザレでは、生徒達は、床に半月になって座り、一方先生、つまりハザン、教会堂役員は、生徒に向かい合って座った。かれらは、レビ記に始まり、他の法典の学習、それに予言者、詩篇と次々に学習していった。ナザレの教会堂は、ヘブライ語の経典の完全な写本を所有していた。 12年目までは旧約聖書のみの学習であった。夏間の学習時間は、大幅に短縮された。
123:5.4 イエスは、早々とヘブライ語の熟練者となった。際だった訪問者がたまたまナザレに逗留していなかったりすると、若者として、会堂での通例の安息日の礼拝に集った忠実な支持者にしばしばヘブライ語の教典を読むことを頼まれるのであった。
123:5.5 これらの会堂学校に、勿論教科書はなかった。指導にあたっては、ハザンが声に出し、生徒達がその後について復唱するというものであった。学生は、その書物を手にする時は、朗読と不断の復誦により学んだ。
123:5.6 イエスは、更なる正規の学習に加えて、方々の土地からの人間が父の修理場に出入りするにつれ、あらゆる方面からの人間性と接触し始めた。かれは、成長すると、休憩や食事のために泉の近くに滞在する隊商人と自由に交わった。ギリシア語が堪能な話者あるかれは、大部分の隊商の旅人や案内人との談話にほとんど苦労はなかった。
123:5.7 ナザレは、隊商の中間駅であり、分岐点であり、構成人口は主に非ユダヤ人であった。同時にそれは、ユダヤ人の伝統的な法律の自由な解釈の中心地としても広く知られていた。ユダヤ人は、ユダでよりもガリラヤにおいてより非ユダヤ人と自在に混じった。ナザレのユダヤ人は、非ユダヤ人との接触からくる堕落の恐怖に基づく社会規制の解釈においてガリラヤの全都市の中で最も寛大であった。これらの状況が、エルサレムに「ナザレから何か良い事が起こり得るか。」という諺を引き起こした。[9]
123:5.8 イエスは、主に家庭において修身と精神的な修養を受けた。ハザンからは、知的かつ神学上の教育の多くを得た。だが真の教育—人生における難題と取り組む実際の試練のための心と情感の素養—は、同胞に混じることで得た。人類を知る機会をイエスにもたらしたのは、老若の、ユダヤ人と非ユダヤ人であるこれらの仲間の人々とのこの親しい交友であった。イエスは、人間を完全に理解し、心から愛したという点において大いに教育を受けた。
123:5.9 会堂での歳月を通じて、かれは、聡明な生徒で、3言語に精通しており、大いなる利点を備えていた。ナザレのハザンは、イエスの学校での課程修了に際し、「少年に教える事が出来た」よりも自分は、「イエスの探究的な質問からもっと学んだ。」とヨセフに打ち明けた。
123:5.10 イエスは、修業課程を通して多くを学び、会堂における定例の安息日の説教から多大の激励を得た。ナザレでは、安息日に立ち寄った著明な訪問者に会堂での演説を依頼するのが慣例であった。イエスは、成長するにつれ、全ユダヤ世界の偉大な思想家達が意見を述べるのを聞いたし、ナザレの会堂は、ヘブライの思想と文化の先進で自由主義の中心地であったことから、多くの者もまたほとんど保守的なユダヤ人ではなかった。
123:5.11 7歳の入学時に、(この時期ユダヤ人は、義務教育法を開始したばかりであった)、その学習を通して手引きとなる適切な教え「誕生日の文章 」を選ぶことが慣行であり、生徒達は、13歳の卒業の際にそれについてしばしば詳細に述べた。イエスが、選択した原文は、予言者イザヤからの「主なる神は我上にあり。主は我に油を塗られ給われたから。弱き者に良き報せをもたらすために、傷ついた者を癒すために、捕われた者へ自由を宣言するために、精神の囚人を解き放つために、あの方を遣わされた。」であった。[10]
123:5.12 ナザレは、ヘブライ国家に24ヶ所ある僧の中心地の一つであった。しかしガリラヤの僧門は、伝統的な法の解釈においてユダヤの代書人やラビよりも寛大であった。ナザレにおける安息日遵守は、より自由であった。ヨセフは、それ故、安息日の午後、イエスを散歩に連れ出すのが慣習であり、彼らの気に入りの小旅行の一つは、家の近くの高い丘に上ることであり、そこからはガリラヤの全景が臨めた。晴れた日には、北西の方角に海へと続くカルメル山の長い尾根が見えた。そしてイエスは、父が、ヘブライ予言者の長い系列の最初の一人であるアハブを叱責し、バールの僧達を暴き出したエリヤの話をするのを幾度も聞いた。北には、ハーモン山が、堂々たる華麗さでその雪の頂を高くして、万年雪で白く煌くおよそ910メートルの上向きの稜線を占有していた。また遠く東には、ヨルダン渓谷とはるか先にはマオブの岩の多い丘が横たわるのが見えた。南と東には、太陽が、大理石の壁を照らしており、円形劇場と人目を引く寺院のあるデカポリスのグレコローマンの市街が見えた。彼らが、日の沈む方向へ散策していくと、西には遠い地中海に帆船を見てとることができた。[11]
123:5.13 イエスには四方からナザレに出入りする隊商が見え、南の方角にはギルボア山とサマリアへと続く広大で肥沃なエスドラエロンの平原が見下ろせた。
123:5.14 遠景を見渡す高さまで登らない時は、かれらは、近郷を逍遥し、季節にそって様々な自然の趣を注視した。家庭的団欒の他に、イエスの初期の教育は、敬虔で思いやりのある自然との触れ合いに関係があった。
123:5.15 イエスは、8歳前には、ナザレの全ての母親や若い女性に知られており、彼女たちには家から遠くなく、町全体の接触と噂話の中心地の一つである泉で出会い、話したことがあった。この年イエスは、家族の雌牛の搾乳や他の動物の世話の方法を習った。この年とその翌年には、チーズ作りと機織りも学んだ。10歳のかれは、織機操作の名手であった。イエスと隣の少年ヤコブが渾々たる泉の近くで働く陶工と大の親友となったのは、この頃であった。二人は、ろくろの上の粘土を形作るナタンの巧妙な指を見て、成長したら陶工になると何度となく心に誓った。ナタンは、この少年達が気に入り、粘土を与え、色々な物や動物を競って形にすることを提案し、二人の独創的な想像力を刺戟しようとした。
123:6.1 この年は、学校での興味深い年であった。イエスは、変わった生徒ではなかったが、勤勉な生徒で三分の一のより進んだ集団に属しており、よく勉強をしたので、毎月一週間休みを許されるほどであった。通常この一週間は、マグダラ近くのガリラヤの湖岸の漁師のおじか、それともナザレの8キロメートル南の農場のもう一人のおじ(母の兄弟)と過ごした。
123:6.2 母は、イエスの健康と安全を過度に案じるようになったが、これらの旅を次第に仕方がないと思うようになった。叔父や叔母達も全員イエスを非常に気に入り、この年とそれ以降、家々の間では、月々の自分達の仲間の確保のための活発な競争が起きた。おじの農場での第1週目の逗留(幼児以来) は、この年の1月であった。ガリラヤ湖での最初の週の漁の経験は5月であった。
123:6.3 イエスは、この頃ダマスカスからの数学の先生に会い、数の扱いのいくらかの新方法について学び、数年の間、数学に多くの時間を費やした。数、距離、割合に関しての鋭い感覚を身につけた。
123:6.4 イエスは、弟のジェイムズをとても可愛がるようになり、この年末までには弟に文字を教えるようになった。
123:6.5 この年イエスは、乳製品を竪琴の授業料と引き換える段取りをつけた。かれは、音楽の全てに対し尋常でないほどの好みがあった。後にかれは、若い仲間の間において声楽への関心を強めた。かれは、11歳までには上手な竪琴奏者で、並外れた解釈と巧みな即興で家族と友達の両方をもてなすことを大いに楽しんだ。
123:6.6 イエスは、学校で羨ましがられる程の進歩を続ける傍ら、両親や先生達にとっては全てが円滑にいくというわけではなかった。イエスは、科学、宗教の双方に関する、特に地理と天文に関して当惑させる多くの質問をすることに固執した。かれは、特に、何故パレスチナでは乾期と雨期があるのか知りたがった。繰り返し、ナザレとヨルダン渓谷との大きな温度差の説明を求めた。かれは、そのような利口な、しかし面倒な質問を決して簡単には止めなかった。
123:6.7 3番目の弟シモンが、この年紀元2年4月、金曜日の夕方に生まれた。.[12]
123:6.8 2月にラビのエルサレム学院の先生の一人ナホルが、イエスを観察するためにやってきて、エルサレムの近くのザカリヤの家に類似の使命を帯びていた。かれは、ヨハネの父にそそのかされてナザレにきた。最初かれは、イエスの率直さと宗教的な事柄に自身を結びつける型破りな態度に幾らか驚かされたが、それはガリラヤが、ヘブライの学問と文化の中心地から遠いせいであるとし、イエスをユダヤ文化の中心地で教育と実習の利点があるエルサレムに彼とともに連れ帰ることをヨセフとマリアに勧めた。マリヤは半ば説得させられた。彼女は、長男が、メシア、ユダヤの救済者になるのだと確信していた。ヨセフは躊躇した。同様にかれは、イエスが、運命の人になるために成長すると納得させられていたが、その運命が如何ようなものになるのか全く不確かであった。しかしかれは、息子が地上においてある大きな使命を果たすということを決して疑わなかった。かれは、ナホルの助言を考えれば考えるほど、提案されたエルサレム滞在の妥当性をますます疑問に思うのであった。
123:6.9 ナホルは、ヨセフとマリヤのこの意見の食い違いのために、この問題すべてをイエスに任せる許可を要請した。イエスは、注意して聞き、ヨセフ、マリア、それにその息子が自分の気に入りの遊び相手である隣人の石工のヤコブと話し、それから二日後、両親と助言者の間にそのような意見の差があり、どちらにも強く感じることはなく、また自分自身が、そのような決定責任をもつに足るとは思わないので、全体の情況を見て、かれは、「天国の父と話す」とついに決めた。かれは、その答えに完全には自信がないので、むしろ「父母と」家に留まるべきだと感じていると報告告した上で、「私のことをそれ程に愛している二人の方が、私の身体だけが見え、そして私の心を観察はできるが、私を本当には知ることのできない他人よりも、私のためにより多く出来るし、より安全に導くことができるはず。」だと付け加えた。皆は、驚嘆し、ナホルは、エルサレムへと戻っていった。イエスが家を離れることが再び検討事項となるのは、何年も先のことであった。