124:0.1 イエスは、ガリラヤにおいてよりもアレキサンドリアで学校教育のより良い機会を享受することができたもしれないが、最小限の教育的指導で自身の人生問題を解決をし、同時に、文明世界の各地域からのあらゆる階級の多くの男女との不断の接触からの大きな利点を味わうというそのようなすばらしい環境は、あり得なかったかもしれない。イエスが、アレキサンドリアに留まっていたならば、彼の教育は、ユダヤ人によって、またユダヤ人の線に沿って排他的に指導されていたであろう。イエスは、ナザレにおいて教育を確かなものとし、非ユダヤ人を理解するように許容的な態度で準備ができたし、ヘブライ神学の解釈における東方またはバビロニアと、西洋またはギリシャの相対的長所についてのより良く均衡のとれた考えが得られる教育を受けた。
124:1.1 重病をしたとはほとんど言えないが、この年イエスは、弟達と赤ん坊の妹と幼年期の軽い病気の幾つかに罹った。
124:1.2 学校は引き続きあり、かれは、いまだに好評な生徒で、毎月1週を自由に行動しており、また引き続いて隣接する都市への父との旅行、ナザレの南の叔父の農場での滞在、マグダラからの遠出の漁とにおよそ等分の時を分けて過ごした。
124:1.3 すべての像、絵画、および素描は、事実上は偶像崇拝であるという教えに関して、イエスが敢えてカザンに挑戦した時、学校での最も重大な問題が、晩冬に起ころうとしていた。イエスは、陶芸用の粘土でさまざまな物を形にするのと同じく、風景描写を楽しんだ。その類の全ては、ユダヤの法により厳しく禁じられていたが、かれは、これまでは、これらの活動を続けることを許されるまでに両親の異議を緩めることがなんとかできていた。
124:1.4 しかし、より遅れている生徒の一人が、教室の床の上のイエスが描いた教師の木炭画を発見した時、問題は、学校で再び巻き起こされた。それは、一目瞭然でそこにあり、そこで委員会は、長男の無法を抑圧するために何かが為されることを要求するためにヨセフを呼ぶ前に、長老の多くがその絵を見ておいた。多才で活発な子供の行動に関してヨセフとマリヤに苦情が初めて来たということではなかったが、これは、これまで訴えられた苦情の中で最も深刻なものであった。イエスは、裏口のすぐ外の大きな石に据わり、暫く自分の芸術的努力に対する告発を聞いていた。イエスは、彼らの申し立てた自分の悪行で父を非難することに憤慨した。そこでかれは、堂々と歩いていき、恐れることなく告発するもの達に立ち向かった。長老達は、混乱に陥った。一人か二人は、少年が冒涜そのものではないとしても冒涜的だと考る一方、何人かは、滑稽な出来事と看做そうとした。ヨセフは困惑し、マリヤは憤慨していたが、イエスは、言いたい事を言い、勇敢に自分の視点を守り、争点の的となる他の全ての問題と同様にこれに関しても父の決定を受け入れる、と完璧な自制をもって発言した。そこで長老委員会は、黙して解散した。
124:1.5 マリヤは、イエスが、学校でこれらの疑わしい活動の何も続けないと約束するならば、家での粘土形成を許可するようヨセフに働き掛けると努力したが、ヨセフは、第2の戒律の律法学者の教義の解釈が優先されるべきだと決定せざるを得ないと感じた。それでイエスは、その日から父の家に住む限り、何かに似せて描写も形作りもしなかった。しかしかれは、自分のした事が悪いとか、若い人生の大いなる試みの一つを構成したそのように好きな楽しみをあきらめることに納得してはいかなかった。
124:1.6 6月の後半、イエスは、父共々タボル山の頂上に初めて登った。晴れた日で、眺めは上々であった。この9歳の少年にとり、インド、アフリカ、およびローマを除く全世界を本当に眺めたように思えたのであった。
124:1.7 イエスの2番目の妹マルタが、9月13日、木曜日の夜に生まれた。マルタが生まれて3週間後、ヨセフは、しばらく家にいたが、仕事場と寝室を一つにする家の増築を始めた。イエスのために小さい作業台が作られ、イエスは、初めて自分自身の道具をもった。かれは、長年折々に、このベンチで作業し、くびき作りに関しては大いに技術を高めるようになった。[1]
124:1.8 この冬と翌年は、ナザレの数十年の間で最も寒かった。 イエスは、山で雪を見たことがあったし、ナザレにも何度か雪は、降ったことがあり、ほんの短い間地面に残った。しかしかれは、この冬まで氷を見たことはなかった。水が、固体、液体、蒸気として存在し得るという事実—かれは、長らく煮え立つ深鍋からの蒸気について考えた—は、若者に、物質界とその構成について多くを考えさせた。とはいえ、この成長する若者に具体化した人格は、この間ずっと広大な宇宙のこれら全ての物の実際の創造者であり組織者であった。
124:1.9 ナザレの気候は、厳しくなかった。1月は、最も寒い月で、平均気温は摂氏10度前後であった。最も暑い月の7月と8月は、24度から32度の間を上下した。山岳からヨルダン川と死海の谷まで、パレスチナの気候は、極寒から炎熱にまで及んだ。それ故、ある意味でユダヤ人は、ありとあらゆる世界の異なる気候条件で住む準備ができていた。
124:1.10 最も暑い夏の数カ月でさえ、涼しい海風は、通常午前10時から午後10時頃まで西から吹いた。だが、時おり東の砂漠からすさまじい熱風が、全パレスチナに吹いた。この熱い爆風は、通常雨期の終わり近くの2月と3月に襲ってきた。当時雨は、11月から4月まで爽やかなにわか雨であり、降り続くものではなかった。パレスチナには夏と冬、乾期と雨期の2つの季節しかなかった。1月に花が咲き初め、4月末までには国中が、1つの広大な花園であった。
124:1.11 イエスは、この年の5月におじの農場で初めて穀物の収獲を手伝った。かれは、13歳までにナザレ周辺で働く男女の仕事に関する金属工作を除くほとんど全てについて何かを知ることができおり、成長してからは、父の死後、鍛冶屋の仕事場で数カ月を過ごした。
124:1.12 仕事と隊商移動の低調時、イエスは、カナ、エンドル、ナイン近くへ父と娯楽や仕事で多く旅をした。若者の時でさえ、かれは、ナザレから北西へほんの5キロメートルほどの、そして紀元前4年から紀元25年頃までガリラヤの首都であり、またヘロデ・アンチパスが住居の一つであったセフォリスを頻繁に訪れた。不文律
124:1.13 イエスは、身体的に、知的に、社会的に、精霊的に成長し続けた。 家から離れる旅行は、家族へのイエスのより良く、より寛大な理解に大いに役立った。そしてこの頃までには、両親でさえ彼に教えると同時に彼から学び始めていた。青春期にさえイエスは、独創的な思考者であり、巧みな教師であった。かれは、いわゆる「不文法」と絶えず衝突したが、常に家族の習慣に適応しようとした。かれは、同年令の子供等とうまくやったが、彼らの行動の鈍い心に度々落胆するようになった。 10歳前には、成年者—身体的、知的、宗教的—の技能の促進のための一団となった7人の少年団の団長になっていた。これらの少年の中にあって、イエスは、多くの新しい遊びと身体の気晴らしのための様々の改善された方法の導入を果たした。
124:2.1 父との田舎での散策の際、イエスが、特異な性質を帯びる自分の生涯の使命についての自意識を持ち始めたと暗示するような気持ちと考えを初めて表現したのは、7月5日、月の最初の安息日であった。ヨセフは、息子の極めて重要な言葉を注意して聞いたが、ほとんど意見を述べなかった。ヨセフは、進んで情報提示をしなかった。あくる日イエスは、同様の、しかしより長い話をマリヤとした。マリヤは、同じように若者の表明に聞き入ったが、こちらもまた情報を提示しようとはしなかった。イエスが、人格の本質と地上での任務の特性に関する自身の意識内でのこの拡大する顕示について再び両親と話すまでにはおよそ2年の間があった。
124:2.2 8月に教会堂の上の学校に入学した。かれは、質問することに固執し、学校で絶えず問題を引き起こした。ますますかれは、おおよそすべてのナザレを騒ぎに閉じ込めた。両親は、これらの不穏な質問を禁じることには気が進まなかったし、担任教師は、この若者の好奇心、洞察と知識に対する渇望に殊の外好奇心をそそられた。
124:2.3 遊び仲間は、イエスの行為に超自然的なものは何も見なかった。ほとんどの点においてかれは、皆と同じであった。勉強に対する彼の関心は、いくらか平均以上であったが、並外れてというほどではなかった。彼は、学級の他の者より多く質問をした。
124:2.4 恐らくイエスの最も希有に目立つ気質は、自分の権利のための争いには不本意なことであった。年の割りにはそのようなよく発達した若者であったので、不当な、あるいは個人攻撃を受けた時でさえ、防御に気が進まないということは、遊び仲間には奇妙に見えた。事はうまく運び、1歳年上の隣人の少年ヤコブとの友情のお蔭で、イエスは、この特徴のために多くは苦しまなかった。ヤコブは、イエスのすばらしい崇拝者であり、ヨセフの商売仲間である石工の息子であった。イエスは、身体的な争い事には反感を持っていたので、ヤコブは、イエスへの手出しを誰にも許さないようにすることを自分の仕事とした。数倍年上で粗野な若者達は、イエスの評判の従順性を頼みにして攻撃をしたが、いつも自薦の覇者であり、常備の護衛者である石工の息子、ヤコブの手による迅速で確実な報復に悩んだ。
124:2.5 イエスは、その時代と世代のより高い理想を表するナザレの少年の中で一般に認められた指導者であった。ただ単に公平であるばかりではなく、愛を示し慎重な恩情に接し、稀で理解ある思いやりもあったので、かれは、若い仲間に本当に慕われた。
124:2.6 この年、年上の者への際立った好みを示し始めた。かれは、年長の人間との文化的、教育的、社会的、経済的、政治的、宗教的な事柄ついての話し合いを楽しんだし、かれの論理の深さと観察の鋭さは、常に話たがるほどに大人を魅了した。両親は、彼が、家の援助の責任を持つようになるまで、そのような嗜好を明示する年上の、より博識のある個人とよりも、むしろ同年令の、またはイエスの年に近い者と付き合うように影響を与えようとしていた。
124:2.7 この年の終わり、ガリラヤ湖の叔父と2ケ月間の漁経験をし、非常に成果もあった。成人前に、かれは、有能な漁師となっていた。
124:2.8 イエスの身体的な発達は続いた。かれは、学校では上級にいて特権を与えられた生徒であった。イエスは、弟妹達とかなり仲が良く、弟妹のうちの一番年上と較べても3歳半も上の利点があった。かれは、小癪であり過ぎるとか、適切な謙遜さと若々しい慎みを欠くとイエスについて評価する鈍感な子供の何人かの親達を除き、ナザレではよく思われた。かれは、若い仲間の遊戯の活動を、より真剣でかつ考え深い方向へ導く傾向をつよく表した。イエスは、生まれながらの教師であり、遊びといえども、教師として機能することを簡単には抑えることができなかった。
124:2.9 ヨセフは、イエスに生計を立てる多様な手段を指導し始め、早くに産業と貿易に比較しての農業の利点をいた。ガリラヤは、ユダヤよりも美しく、繁栄している地区であり、エルサレムやユダヤで暮らすのとでは、わずか4分の1ほどの費用しか掛からなかった。それは、5千以上の人口をもつ200以上の町と1万5千以上の人口をもつ30の町を含む農村であり、盛んな産業都市の行政区であった。
124:2.10 イエスは、ガリラヤの湖での漁業を観察するために父との初めての旅で、漁師になるともう少しで決心するところであった。だが、父の職業との近い関係が、後に大工になる影響を与えた。さらに後の影響の組み合わせが、彼を新しい社会の宗教的な教師になるという最終的な選択へと導いた。
124:3.1 この年を通じて、若者は、父と家から離れて旅を続けたが、頻繁におじの農場も訪ね、自分の本拠地を町の近くに設けたおじと漁のために時折マグダラへ行った。
124:3.2 ヨセフとマリヤは、しばしばイエスに何らかの特別な依怙贔屓を示すか、あるいは、約束の子、運命の子であるという自分達の知識をもらす誘惑にかられた。だが両親は共に、全てのこれらの事柄において並み外れて物分かりがよく賢明であった。数回、彼らが少年に対していかなる方法でもいかなる贔屓でもしたときに、少年は、全てのそのような特別な配慮を、ほんの僅かにしろ、即座に拒否した。
124:3.3 イエスは、隊商用の供給場でかなりの時間を過ごし、世界各地からの旅行者と話すことにより年のわりには驚きに値いするほどの国際的な事柄に関する情報を蓄えた。これは、自由な遊びと若い喜びを満喫する最後の年であった。これ以降、この若者の人生には困難と責任が急速に増えた。
124:3.4 紀元5年6月24日、水曜日の夕方、ユダが生まれた。7番目の子供のこの出生には合併症が伴った。マリヤは、ヨセフが数週間も家に留まるほどの重体であった。イエスは、父の使い走りと母の重病からくる多くの任務でとても忙しかった。この若者は、自分の早年の無邪気な態度には決して2度と戻れないことを悟った。母が病についた時点—11歳の直前—から最初に生まれた息子としての責任を引き受け、通常これらの重荷が自分の責任となるはずの1年あるいはたっぷり2年前にはこのすべてをすることを強いられた。[2]
124:3.5 カザンは、イエスと毎週一晩過ごし、イエスのヘブライ経典の習得の手助けをした。かれは、有望な生徒の進歩に大いに興味があった。したがって、あらゆる面で喜んで援助してくれた。このユダヤ人教師は、この発達する心に大きな影響を及ぼしたが、学識のあるラビの下で教育を続けるためにエルサレムに行く見込みに関してイエスがすべての自分の提案に対しあまりにも無関心である理由を決して理解をすることができなかった。
124:3.6 5月の中頃、若者は、デカポリスの主要なギリシアの都市、すなわちベツ‐シアンの古代のヘブライの都市であるスキトポリスへ出張する父に同伴した。 途中ヨセフは、サウル王、ペリシテ人、それにイスラエルの混乱以降の出来事の古の歴史の多くを詳しく話した。イエスは、このいわゆる異教徒の都の清潔な外観と秩序立った佇いに非常に感銘を受けた。かれは、戸外劇場に驚嘆したり、「異教徒」の神々の崇拝のために捧げられた美しい大理石の寺院に見とれた。ヨセフは、若者の熱意に非常に戸惑い、エルサレムのユダヤ人の寺院の美と壮大さを褒めそやすことにより、これらの好感を打ち消そうとした。イエスは、ナザレの丘からこのすばらしいギリシアの都市をしばしば物珍しそうに見つめて、その大規模な公共事業と華麗な建物に関して何度も尋ねたが、父は、いつもこれらの質問への答えを避けようとしたのであった。今、かれらは、この非ユダヤ人の都市の美しさに向かい合い、ヨセフは、イエスの質問を体よく無視することができなかった。
124:3.7 ちょうどこの時、デカポリスのギリシアの都市対抗の恒例の腕力競技大会と公開実演が、スキトポリスの円形劇場で進行中であり、イエスは、競技を見に連れて行くように父にせがみ、ヨセフは、イエスのあまりのしつこさに拒否をためらった。少年は、競技にぞくぞくし、身体発達と運動技能の誇示の精神に心の底からのめり込んでいった。ヨセフは、「異教徒」の強い虚栄心に見入る息子の熱狂振りを目にし、言い表せないほどの衝撃を受けた。 競技終了後、イエスが競技への賛意と、健全な野外活動からの利益が得られれば、ナザレの青年達の為に良いかもしれないとの提案を耳にした時、ヨセフは、生涯での驚きを受けた。ヨセフは、本気で、しかもそのような習慣の不道徳な特質についてイエスと長く話したが、少年が納得していないことはよく分かっていた。
124:3.8 イエスがこれまでに父が立腹しているのを見たのは、その夜宿の部屋での長話の中で、少年が、ユダヤ人の考えの傾向を全く忘れたうえで、家に戻りナザレに円形劇場の建設のために働くことを提案した時のこの一度きりであった。ヨセフは、長男が、そのような非ユダヤ人的な感情を表明するのを聞くと、普段の穏やかな態度を忘れ、イエスの肩を掴み、「息子よ、お前が生きている限り決してそのような不道徳な考えを2度と口にして私に聞かせるでない。」と立腹し、声高に言った。イエスは、父の感情表示に驚いた。かれは、今まで父の憤りに個人的な痛みを一度も感じさせられたことがなかったので、表現できないほどに驚き、かつ衝撃を受けた。「良く分かりました。お父さん、そう致します。」とだけ答えた。少年は、父の生きている間、わずかな態度でさえも、ギリシア人の競技と他の競技の活動について触れることはなかった。
124:3.9 後にイエスは、エルサレムでギリシアの円形劇場を見て、そのようなものがユダヤ人の見解からはいかに憎むべきものであるかを知った。それでもその人生を通じて、ユダヤ人の慣例が許す範囲において、十二使徒のための定期的な活動の後の予定に、かれは、健康的な娯楽の考えを個人の計画に、取り入れることに努力した。
124:3.10 この11年目の終わり、イエスは、活発でよく発達した、適度にユーモラスで、またかなり気楽な若者であったが、またこの年以後は、ますます深い瞑想と真剣な熟考の独特の時期として過ごした。かれは、世界での使命の要求に従順であると同時に、家族への義務をどのようにして果たそうとするのかについて考えるのに多くの時間を費やした。かれは、すでに自分の聖職活動は、ユダヤ民族の改善に限られてはいないと心に受けとめていた。
124:4.1 これは、イエスの人生で多事多端な年であった。ますますそれによって人間が生計を立てる方法の研究を遂行する一方で、イエスは、学校では進歩をし続け、自然についての研究では疲れを知らなかった。かれは、家の大工場での定期の仕事を始め、ユダヤ人の家族では非常に変わった取り決めであったが、自分自身の所得の管理を許された。この年、そのような問題を家族の秘密にしておく知恵も学んだ。かれは、村で問題を引き起こした方法を意識するようになっており、これからは仲間とは異なるとみなされるかもしれない全てを隠すことにますます慎重になった。
124:4.2 この年を通して、かれは、自分の使命の本質に関し、実際の疑いとまではいかないとしても、長期にわたる不確実性の時期を経験した。自然に育む自身の人間の心は、イエスの二元的な現実をまだ完全には把握していなかった。自分には一つの人格があるという事実は、彼が、その同一人格と関連する特質を構成する要素の二重の起源の認識を難しくした。
124:4.3 かれは、この後ずっと弟妹達とより仲良くなった。かれは、ますます手際よく、つねに情け深く思いやりがあり、彼らの利益と幸福において公的任務の始まりまで弟妹達との良い関係を楽しんだ。より明確に、かれは、ジェームス、ミリアムと二人のより幼い(まだ生まれていない)子供たち、アモスとルツと仲良くした。かれは、いつもマーサととても仲がよかった。イエスの家庭での問題は、主にヨセフとユダ、特に後者との摩擦から起きた。
124:4.4 ヨセフとマリヤにとり神格と人間性のこの前例のない組み合わせの育みを請け負うことは、苦しい経験であり、それでいてかれらは、親の責任をとても忠実に、首尾よく履行したのですばらしい名誉に値する。徐々に、イエスの両親は、超人的な何かがこの長男の中に住んでいると理解したが、約束のこの息子が、本当にこの地域宇宙の物質と生命の実際の創造者であるということを、決して夢にさえ思わなかった。ヨセフとマリヤは、自分達の息子イエスが、本当は死ぬべき運命の肉体に化した宇宙の創造者だということを決して知ることなく終わった。
124:4.5 この年、イエスは、 これまでよりも多く音楽に注意を払い、弟妹のために自宅教育を続けた。若者が、自分の使命の本質に関してヨセフとマリヤの間での視点の違いを鋭く意識するようになったのは、およそこの頃であった。イエスは、両親の異なる意見について多くを考え、かれが熟睡していると思い二人が、議論しているのをしばしば聞いた。ますます、かれは、父の視点に傾き、そのため母は、息子の人生の経歴に関する問題における自分の指導を徐々に拒絶しているという実感に傷つく運命にあった。そして時が過ぎるにつれ、この理解の隙間は広がった。ますますマリヤは、イエスの使命の意義を理解しなかったし、このいい母親は、気に入りの息子が、彼女の好む期待を実現させないことに愈々傷つくのであった。
124:4.6 ヨセフは、イエスの使命の精霊的な特徴に対して発達する自分の信念を楽しんだ。そして、他の、より重要な理由がなければ、ヨセフがイエスの地上での贈与の概念の遂行を見るまでいきることができなかったことは、不運に思われる。
124:4.7 学校での最後の年、12歳の時、イエスは、家の出入りの都度、戸口の側柱に釘づけされた一片の羊皮紙に触り、触れたその指に口づけをするユダヤの習慣に関して父に抗議した。この習慣の一部として、「主は、これから、さらには永久に、我々が出かけ、また入るのを守ってくださりますように。」と言うのが習わしであった。ヨセフとマリヤは、そのような創造が、偶像崇拝的な目的に使用されるかもしれないと説明して、像形を作らない、あるいは絵を描かない理由について繰り返し教えてきた。イエスは、像形と絵に対する二人からの禁止を完全に理解したという訳ではないが、一貫性への高い概念を持っていたので、側柱の羊皮紙に対するこの習慣的儀礼は、本質的には偶像崇拝的であると父に指摘した。そこでヨセフは、イエスが抗議した後、羊皮紙を除去した。[3][4]
124:4.8 時が経過するにつれて、イエスは、家族の祈りやその他の習慣の宗教的な慣行を修正のために多くのことをした。その礼拝堂が、有名なナザレの教師ホゼによって例示される自由主義のラビの学校の影響を受けていたので、ナザレでそのような多くのことをすることは、可能であった。
124:4.9 この年と次の2年間、イエスは、彼の宗教的実践と社会的快適さへの個人的な視点を両親の確立した信念に合わせるために、恒常的な努力の結果として、かなりの精神的苦悩を被った。自身の信念に忠誠であろうとする衝動と両親への忠実な服従の良心的な訓戒との対立に心が乱れた。イエスの最高の対立は、若々しい心の中で最優先する重大な二つの指令の間にあった。一つは、「真実と正義に関する自身の最も高い信念の命令に忠実であれ。」他方は、「生命を与え、養育をしたので、父母を敬え。」であった。しかしながら、かれは、個人の自分の信念と家族に対する義務への忠誠のこれらの領域で必要とされる日々の調整をする責任を決して回避することなく、忠誠、公正、寛容性と愛に基づく集団連帯の見事な観念に個人の信念と家族の義務のますます調和した混合をもたらす満足感を成し遂げた。[5][6]
124:5.1 この年、ナザレの若者は、少年時代から若い成人時代へと移行した。声は変化し始め、心身の他の特徴は、青年期の接近の徴候を示した。
124:5.2 紀元7年1月9日、日曜日の夜、赤ん坊の弟アモスが生まれた。ユダは、まだ二歳にも達しておらず、赤ん坊の妹ルツは、まだ生まれていなかった。それで父が翌年事故死を遂げた時、イエスには小さい子供のいる相当に大きい家族の世話が任されたということが理解できるであろう。
124:5.3 人間の啓蒙と神の顕示の地上における使命を行う運命にあると、イエスが、人間の能力で確信し始めたのは、2月の中頃であった。遠大な計画に結びつけられた重要な決定は、外見的にはナザレの普通のユダヤ少年であるこの若者の心の中で定式化されていた。この全てが、いま青春期にある大工の息子の考えと行為において展開し始めるにつれ、全ネバドンの知的な生命体は、強い興味と驚きで傍観していた。
124:5.4 紀元7年3月20日、その週の第1日目、イエスは、ナザレの礼拝堂と関係のある地元の学校の訓練課程から卒業した。これは、どんな意欲的なユダヤ人の家庭生活においても、長男が「戒律の子」および、主である神の買い戻された長子、「いと高きものの子」および、全地球の主の召使いと宣言されるすばらしい日であった。[7]
124:5.5 その前の週の金曜日、ヨセフは、この喜ばしい行事への参加のために、新しい公共建築物の作業を担当していたセフォリスから戻ってきていた。イエスの教師は、注意深く、勤勉な自分の生徒が、何らかの傑出した経歴、何らかの顕著な任務に運命づけられると堅く信じた。長老たちは、イエスの規範から外れた傾向による自分達との全ての悶着にもかかわらず、少年を非常に誇りに思い、有名なヘブライの専門学校で教育を続けるためにイエスがエルサレムに行けるよう既に計画を立て始めていた。
124:5.6 イエスは、これらの計画が時々議論されているのを聞くにつれ、ラビの元での学習のためにエルサレムには決して行かないことをますます確信するようになった。しかし、かれは、現在5人の弟と3人の妹、ならびに母と自分とから成る大家族の扶養と指揮の責任を負うことによって起こるそのようなすべての計画の放棄が確実となる悲劇がそれほど早く起こるとは夢にさえ思わなかった。イエスには、この家族を養うにあたり、父のヨセフに与えられたよりもひと回り大規模で、より長期間の経験をした。かれは、自分自身が設定した基準、すなわちあまりにも突然に悲しみに見舞われた、あまりにも不意に取り残された、この家族—自分の家族—の賢明で、我慢強い、理解ある、有能な教師であり一番年上の兄弟となることを適えたのであった。
124:6.1 いまは成人の入り口に達し、ユダヤ教の礼拝堂学校から正式に卒業したイエスには、両親と最初の過ぎ越しの祭りに参加するためにエルサレムに行く資格があった。この年の過ぎ越しの祭典は、紀元7年4月9日、土曜日に当たった。4月4日、月曜日の朝、相当数の仲間(103人)のナザレからエルサレムへの出発準備は、できた。かれらは、サマリアへと南に旅をし、ジェズリールに達するとサマリア通過を避けるために東に向かい、ギルボア山を回り、ヨルダン渓谷へと行った。ヨセフとその家族は、ヤコブの井戸とベテルを経てサマリアを下りて行く方が楽しめたのであろうが、サマリア人を相手にするのが嫌なユダヤ人の一行は、ヨルダン渓谷を通り、近郷の者達と連れだって行くこととした。[8]
124:6.2 非常に恐れられたアーケラウスは免職されており、かれらは、エルサレムへのイエス同行を恐れる必要がなかった。最初のヘロデがベツレヘムの赤子を滅ぼそうとして以来、12年が過ぎていた。そして、現在、誰も、その件をナザレのこの無名の少年に関連づけて考えるものはいなかった。
124:6.3 ジェズリールの合流点に到達前、かれらは、旅を続け、間もなく左側に、シュネムの古代の村を見て通り過ぎていくと、イエスは、かつてそこに住んでいたイスラエル中で最も美しい少女について、またエリシアがそこで為した素晴らしい行動について再び聞いた。ジェズリールを通る際、イエスの両親は、アハブとイゼベルの行いとエヒュウの手柄について詳しく話した。かれらは、ギルボア山を周回しながら、この山の斜面で自殺したサウル、ダヴィデ王、それにこの歴史的な場所に関する多くについて語った。
124:6.4 ギルボアの麓を一周すると、巡礼者達は、右の方にスキトポリスのギリシアの都市を見ることができた。皆は、遠方から大理石の建造物を見つめたが、自分たちを汚し、今度のエルサレムでの過ぎ越しの厳粛かつ神聖な礼式に参加できなくならないように非ユダヤ人の都市の近くには行かなかった。メアリは、ヨセフもイエスもなぜスキトポリスについて話さないかを理解できなかった。かれらは、この挿話を一度も明らかにしたことがなかったので、マリヤは、前年のかれらの論争については知らなかった。
124:6.5 さて、道は、熱帯のヨルダン渓谷へと真下に通じた。イエスは、死海に流れ下りながら煌き、波を立て、果てしなく曲がりくねるヨルダン川への驚嘆の眼差しをさらすこととなった。荘厳な姿で歴史的な谷を見下ろしている膨大な雪を頂くヘルモン山が遠く北に聳える一方、かれらは、この熱帯の渓谷の旅を南へに下がるにつれ、外套を側に置いて、豊かな穀物平野と桃色の花をふんだんにつけた美しい夾竹桃を楽しんだ。スキトポリスの反対側から3時間余りの旅をして、かれらは、湧泉にやってきて、その夜は星明りの天の下で野営した。
124:6.6 旅の2日目、かれらは、ヤッボク川が、東からヨルダン河に流入するところを通り過ぎ、東にこの河の谷間を見上げて、ミデアン人が、この領域の土地に溢れて殺到したギデオンの時代について詳しく語った。2日目の旅の終わり近く、かれらは、そこでヘロデが妻の一人を投獄し、自分の絞め殺された二人の息子を埋葬したサータバ山、つまりアレクサンドリアの砦が頂上を占領している、ヨルダン渓谷を見下ろす最も高い山の麓近くで野営した。
124:6.7 3日目、かれらは、最近、ヘロデによって建てられ、その優れた構造と美しいシュロの庭で注目されている二つの村を通過した。日暮れまでには、エリコに達し、そこに翌日まで留まった。ヨセフ、マリヤ、イエスの3人は、その夕方、ユダヤ人の言い伝えでは、ヨシュアが、(この人に因んでイエスが命名された)名高い功績を上げた古代のエリコの遺跡まで2.4キロメートル歩いた。
124:6.8 旅の4日目で最後の日までには、道は、巡礼者の絶え間ない行列であった。かれらは、今や、エルサレムに繋がる丘を登り始めた。頂上に近づくにつれ、山を後ろにヨルダン川を、また南の遠くに死海の流れのゆるい水域を見ることができた。エルサレムまでのおよそ中間当たりで、イエスは、オリーブ山(自分のその後の人生でとても多くの一部である地域)を初めて目にし、そこでヨセフは、聖都が丁度この尾根の向うにあると教えると、少年の胸は、やがて我が天の父の都と家を見る喜びの期待に速く鼓動した。
124:6.9 かれらは、オリーブ山の東斜面にあるベタニヤと呼ばれる小さな村の境界で、一息入れた。親切な村人達は、もてなすために巡礼者のもとにどんどんやってきて、ヨセフとその家族は、たまたまイエスとほぼ同じ年頃のマリヤ、マルタ、ラザロの三人の子をもつサイモンという者の家の近くで止まった。その家族は、ナザレ一家を飲食に招き入れ、2家族間の生涯の絆がうまれ、その後しばしば、波瀾万丈の人生で、イエスは、この家に立ち寄った。
124:6.10 かれらは、 突き進み、すぐオリーブ山の縁に立っており、イエスは、初めて(自身の記憶で)、聖都、尊大な宮殿、そして感激的な父の寺院を見た。この4月の午後、オリーブ山のそこに立ち、エルサレムの初めての眺望に深く感じ入り、この上なく完全に魅了されたこの時の純粋に人間的なそのような心の震えを経験したことは、その人生のいかなる時においても、イエスにはかつてなかった。そして、イエスは、天の師の中の最後の、最も素晴らしいもう一人の予言者を拒絶しようとしていた都を、後年、この同じ場所に立ち、泣いて悲しんだ。
124:6.11 だがかれらは、エルサレムへと急いだ。もう木曜日の午後であった。都に到着し、かれらは、寺院を通り過ぎた。イエスは、決して人間のそのような群れを見たことがなかった。これらのユダヤ人が、世間に知られている最も遠い場所からここにどのように集合したかについて深く考えた。
124:6.12 かれらは、ほどなく、事前に手配されている過ぎ越しの週間の宿泊場所に、マリヤの裕福な親類の、ヨハネとイエスの両人の初期の歴史について、ザカリヤを通して何かを知る者の大きい家に着いた。あくる日、準備の日、かれらは、過ぎ越しの安息日に適う祝賀のための準備をした。
124:6.13 エルサレム中が過ぎ越しの準備にざわめいている間、ヨセフは、2年後規定の15歳に達し次第、すぐに教育を再び始めるための手配をしてあった学院を訪問するために、息子を連れまわる時間の都合をつけた。慎重にこれらの練られた計画全てに、イエスがいかに僅かしか関心がないかを明らかのするのを見て、ヨセフは、誠に当惑した。
124:6.14 イエスは、寺院とそれに関する全儀式や他の活動に深く感動した。4歳以来初めて、多くの質問をするために思索に夢中になり過ぎていた。イエスは、それでも、天なる父は、なぜそれほどに多くの罪のない無力な動物の殺戮を要求するのか、困惑する幾つかの質問を(以前にしたように) 父にした。そしてこの父には、自分の答えと説明への試みは、深い考えと鋭い論理的思考をもつ息子には不満足であったと、若者の顔の表情からよく分かった。
124:6.15 過ぎ越しの安息日の前日、精霊的な照明の上げ潮は、イエスの人間の心に広まり、古来の過ぎ越しの祝賀のために集まった精霊的に盲目で、道徳的に無知な群衆への溢れんばかりの慈愛深い哀れみでイエスの人間の情愛が満たされた。これは、肉体をもつ神の子が、過ごした最も驚異的な日の一つであった。そして、その夜、地球経歴で初めて、イマヌエルに委任されたイエス付きのサルヴィントンからの使者が現れ、「時が来た。あなたの父の用向きを始める時です。」と言った。[9]
124:6.16 そして、ナザレ家族の思い責任が若い肩にのしかかってくるよりもずっと以前に、天の使者は、まだ13歳にもなっていないこの若者に、宇宙の責務の再開を始める時がきたと気づかせるためその時到着した。これは、ユランチアにおける息子の贈与の成就と「人間‐神の肩上の宇宙政府」を取り替えにおいてついに最高点に達する一連の長い行事の最初の行為であった。[10]
124:6.17 時の経過につれ、肉体化の神秘は、我々全員にとり、ますます測りしれないものとなった。ナザレのこの若者が、すべてのネバドンの創造者であるということを、我々は、ほとんど理解することができなかった。同様に我々は、最近、この同じ創造者たる息子の精霊とその楽園の父の精神がどのように人間の魂に関係しているかをも理解してはいない。時の経過とともに、我々は、彼が、肉体をもって生きる傍ら、宇宙の責務をその両肩に担っているにもかかわらず、その人間の心は、ますますそれについて明察していることを知ることができた。
124:6.18 こういう具合でナザレの若者の経は、終わり、その思春期の青年—ますます自意識の強い神の人間—の物語を始まる。広がっていく人生の目的を両親の願望、家族への義務、およびその時代と世代の社会の望みとを統合するよう努力につとめ、かれは、自分の世界での経歴への熟考を始める。