130:0.1 ローマ世界における回遊は、イエスの地上生活における28年目の大部分と29年目の全部を費やした。イエスとインド出身の2人、ゴノドとその息子ガニドは、西暦22年4月26日、日曜日の朝エルサレムを出発した。彼らは、計画に沿って旅をし、イエスは、翌年の西暦23年12月10日に、ペルシャ湾のキャラックスの都で父子に別れを告げた。
130:0.2 彼らは、エルサレムからヨッパ経由でカエサレアに行った。彼らは、カエサレアでアレキサンドリア行きに乗船した。アレキサンドリアからはクレタ島のラセーアに向け出航した。クレタ島からキレーネに立ち寄りカルタゴに出航した。カルタゴでナポリ向けの船に乗り、マルタ、シラクサ、メッシーナに寄港した。ナポリからカプアへ行き、そこからローマへのアッピア街道を旅した。
130:0.3 ローマでの滞在後、かれらは、陸路をタレントゥームへと行った。そこでニコポリスとコリントに止まり、ギリシアのアテネに向けて船出した。アテネから、トロアス回りでエフェソスに行った。エフェソスから、途中ロードス島に入港しキプロスへと出帆した。キプロスで訪問や休息をしながらかなりの時間を過ごし、次に、シリアのアンチオケに向けて出帆した。アンチオケから、シドンに向け南へと旅し、それからダマスカスに行った。そこから、タプサカスとラーリッサを通過し、隊商と共にメソポタミアへと移動した。バビロンでしばらく過ごし、ウルや他の場所を訪れ、シューシャンに行った。シューシャンから、キャラックスに旅し、ゴノドとガニドはそこからインドへと乗り出した。
130:0.4 イエスがゴノドとガニドの話す言語の基本を身につけたのは、ダマスカスで4カ月働いている間のことであった。そこに滞在中、かれは、ギリシア語からインド言語の中の1つへの翻訳作業に多くの時間を費やし、ゴノド家の故郷の出身者の援助をうけた。
130:0.5 この地中海の回遊において、イエスは、日々のおよそ半分をガニドの教授とゴノドの業務会議や社交の通訳とに費やした。自由になった日々の残る時間を仲間との親密で個人的な社交、この世界の人との懇親的交流に専念した。この交流は、丁度公務に先行するこれらの数年間の彼の活動を著しく特徴づけた。
130:0.6 イエスは、直の観察と実際の接触により、西洋とレバント地方のより高度の物質文明と知的文明に精通した。かれは、ゴノドと才気あふれる息子からインドと中国の文明、文化に関する多くを学んだ。というのも、自身がインド国民であるゴノドは、黄色人種の帝国への3回にわたる大々的な旅行をしたからであった。
130:0.7 青年ガニドは、この長く、親密な関係においてイエスから多くを学んだ。彼らは、互いへの大いなる愛情を育んだ。若者の父は、共にインドに行くように幾度も説得を試みたが、イエスは、いつもパレスチナの家族の元に戻る必要性を申し立てて辞退した。
130:1.1 ヨッパでの滞在中、イエスは、サイモンというなめし革業者のために働くペリシテ人の通訳ガジャに出会った。メソポタミアのゴノドの代理人は、このサイモンと多くの商取引きをしていた。そこでゴノドと息子は、カエサレアへの途中で彼を訪ねたかった。ヨッパでの滞在中、イエスとガジャは、心和やかな友となった。この若いペリシテ人は、真実探求者であった。イエスは、真実提供者であった。かれは、ユランチアのその同時代人のための真実そのものであった。偉大な真実探求者とその提供者が出会うとき、結果は、新たな真実経験からの大いなる解放的啓蒙誕生となる。[1]
130:1.2 ある日の夕食後、イエスと若いペリシテ人は、海辺を散策していると、ガジャは、この「ダマスカスの筆記者」が、ヘブライの伝統にとても精通しているということを知らずに、ヨナが、タルシシへの不運な航海に乗り出したことで有名な船着場をイエスに指し示した。そして意見を述べ終えて、かれは、「でも、大きい魚が本当にヨナを飲み込んだと思いますか。」イエスにこう質問をした。イエスは、この青年の人生が、この伝統にひどく影響され、伝統への熟考が、義務から逃げようとする愚かさを刻み込んだと認めた。従ってイエスは、実際の生活に対するガジャの現在の動機の地盤を突然破壊するようなことは何も言わなかった。この質問に答えて、イエスは言った。「我が友よ、神の意志に従って生きる生活に関しては我々は皆ヨナである。度ある毎に遠くの誘惑へ逃げ、生きることの現在の義務から逃れようとすると、その結果、真実の力と正義の勢いに導かれることのないそれらの影響の直接支配のもとに自分自身を置いている。義務からの逃避は、真実の犠牲である。まさにその絶望の深層にいる時でさえ、そのような神を見捨てるヨナのような者達が、神と神の素晴らしさを捜し求めない限り、光と命の活動からの逃避は、結局は、暗黒と死につながる自分本位の難しいクジラとの痛ましい闘争をもたらすだけである。そして、そのような落胆する魂が、心から神—真実への飢餓と正義への渇き—を捜し求めるとき、それらを更なる監禁状態にしておけるものは何もない。いかに大きな深層に堕落しようとも、全心で光を求めるとき、天の主なる神の精霊が、それらを監禁状態から救い出すであろう。人生における凶悪な情況は、彼らを一新された奉仕活動やより賢明な生活のための新たな機会である陸地へと吐き出すだろう。」[2][3]
130:1.3 ガジャは、イエスの教えに非常に動かされ、それから二人は、海辺で夜遅くまで長く語り、下宿に戻る前には、一緒に、しかも互いのために祈った。これが、ピーターの後日の説教を聞き、ナザレのイエスの造詣深い信者となり、またドルカスの家においてある晩ピーターと忘れ難い議論をした同じガジャであった。そして、ガジャは、キリスト教を受け入れる裕福な革商人のサイモンのための最終決定に深く関わった。[4][5]
130:1.4 (この地中海見学での人間の仲間との個人的な活動に関するこの物語において、我々は、与えられた許可に従い、イエスの言葉をこの発表時点でのユランチアの現代の言い回しで自由に変換するつもりである。)
130:1.5 ガジャとのイエス最後の話しは、善悪に関する議論であった。この若いペリシテ人は、世界には善と共に悪が存在するために不公平感に非常に煩わされていた。彼は言った。「神が無限に善であるならば、我々が悪の不幸に苦しむのをどうして許すことができるのですか。結局、だれが悪を創造するのですか。」その頃、多くの者は、神が善と悪の双方を創造するとまだ信じていたが、イエスは、そのような誤りを決して教えなかった。この質問に答えて、イエスは言った。「我が弟よ、神は愛である。従って彼は、よいにちがいないし、彼の善は、悪の小さくて非現実的なものを含むことができないほどに非常に大きくて真実である。神は絶対に良いので、その中には断じて否定的な悪のいる場所はない。悪は、善に抵抗し、美を拒絶し、真理に対して不誠実である者の未熟な選択と軽率な過失である。悪は、単に未熟さ故の不適合か、または無知からの破壊的、歪曲的影響である。悪は、光の浅はかな拒絶のすぐ後についてくるる必然の暗黒である。暗くて虚偽の悪、意識的に受け入れられ、故意に是認されるときの悪は、罪となる。[6]
130:1.6 「君に真実と誤りを選ぶ力を授けることにより、天の君の父は、光と命の積極的な道に潜在的な陰性を創った。しかし、知的創造物が、生き方の誤選による自己の存在を望むときまで、悪のそのような誤りは、実際には不在である。そして、そのような悪は、そのような意図的かつ反逆的な生物が、知りつつ、しかも故意に選択することにより後に罪に引き揚げられる。これは、ちょうど自然が小麦と毒草を収穫まで並んで育てさせるように、天の我々の父が、人生の終わりまで善と悪とが共に行くことを許容する理由である。」彼らのその後の議論が、きわめて重大なこれらの陳述の真の意味を彼の心に明らかにしたので、ガジャは、彼の質問へのイエスの答えに完全に満足した。[7]
130:2.1 乗り込むつもりであった船の巨大な操縦用の櫂の1本が割れる恐れがあると分かり、イエスと友人等は、想定以上にカエサレアに留まった。船長は、新しいものが作られる間、港に残ると決めた。熟練した木工職の不足があり、イエスは、援助を申し出た。夜間、イエスと友人等は、港のあたりの遊歩道として用いられた美しい壁の上を散策した。ガニドは、都市の水道装置と、街路と下水を洗い流すために潮が用いられる技術に関するイエスの説明を大いに楽しんだ。インドのこの若者は、小高い場所に建つローマ皇帝の巨大な像の乗っているアウグストゥスの寺院に非常な感銘を受けた。滞在2日目の午後、3人は、2万人収容可能の巨大な円形劇場での公演に出席し、その夜は、劇場でのギリシア演劇を見に行った。これらはガニドが目撃したことのない初めての種類の見せ物であり、かれは、イエスにそれらについて多くの質問をした。カエサレアは、パレスチナの首都であり、またローマの行政長官の住居地でもあったことから、彼らは、3日目の朝、知事の宮殿への正式訪問をした。
130:2.2 彼らの滞在している宿にはまた、モンゴルからの商人が宿泊しおり、この極東人は、ギリシア語をかなり上手に話すので、イエスは、何度か彼を長時間訪ねた。この男は、イエスの人生哲学に非常に感銘を受けたし、また「天の父の意志への日々の服従による天国にいるような地上での人生」に関するイエスの知恵の言葉を決して忘れなかった。この商人は道教信者であった。それによりかれは、宇宙の神格の教義の強い信者となっていた。モンゴルに帰国すると、かれは、これらの進んだ真理を隣人や商売仲間に教え始めた。そして、そのような活動の直接的な結果として、その長男は、道教の聖職者になると決めた。この青年は、その一生を通じて進んだ真理のために大きな影響を及ぼし、一神—天の最高支配者—の教義は、同様に献身的に忠誠である息子と孫息子により引き継がれた。
130:2.3 フィラデルフィアにその本部を置いてあることから、早期のキリスト教会の東方分会が、エルサレムの信者よりもイエスの教えに忠実であった。王国の新しい福音の種子を植えるにはとても好ましい精霊的土壌である中国にペトロのような者が行ったり、インドにもパウロのような者が入国しなかったのは残念であった。フィラデルフィアの人々が解釈したこれらのイエスの教えこそ、西洋でのペテロやパウロの説教がもたらしたような直接的、効果的な魅力を精霊的に餓えていたアジア民族の心にもたらしたことであったろう。[8]
130:2.4 イエスと共に操縦用の櫂作りに携わっていた青年の一人は、ある日、イエスが造船所で精を出して働きながら時々刻々口にした言葉に大層興味をもつようになった。イエスが、天国の父が地球の子等の幸福に興味を持っていると仄めかすと、この若いギリシア人アナクサンドが言った。「神々が私に興味があるならば、彼らはなぜこの作業場の容赦のない、不当な親方を免職しないのですか。」イエスの返答に、かれは大変驚いた。「君が厚情の道を知り、正義を重んじるので、恐らく神は、君がより良い方向に導くことができるようにこのさ迷っている男性を近くに連れて来たのであろう。多分君は、この兄弟を他のすべての人間ともっと意気投合させるようにする塩であろう。まだ君がその味を失っていなければのことだが。現状のままでは、彼の邪道が君に好ましくない影響を及ぼすという点で、この男性は君の主人である。なぜ善の力で悪の上に優位に立ち、その結果、君達二人の間の全ての関係における師とならないのか。もし君が公正で生きた機会を彼に与えるならば、私は、君の善が、彼の悪を封じることができると予測する。人間の生活の過程で、誤りと悪との昂然たる戦いの1つにおいて精霊的な活力と神の真理との物理的人生の共同者となる感動を楽しむことほど夢中にさせる冒険はない。精霊の暗闇に座る人間への精霊的な光の生きた回路となることは、驚くべき、しかも著しい変様の経験である。君の方がこの男性よりも真実でより祝福されているならば、彼に欠落するところが君を刺戟すべきである。確かに君は、海岸で泳げないで死ぬ仲間を見てただ立っていることのできる臆病者ではない。水におぼれる彼の身体に比べて、暗闇でもがいているこの男性の魂の方がどれほど価値のあることか。」
130:2.5 アナクサンドはイエスの言葉に甚だしく感動した。ほどなくイエスの言ったことを上司に話した。そしてその夜、双方共に自分の魂の健全さに関しイエスの忠告を求めた。そして後に、キリスト教の趣意が、カエサレアにおいて宣言された後、この両者(一人はギリシア人、他方はローマ人)が、フィリップの説教を信じ、彼が設立した教会の重立った人材となった。その後、この若いギリシア人は、ローマ百人隊長のコーネリアスの執事に任命され、このコーネリアスは、ピーターの聖職活動を通して信者となった者である。アナクサンドは、カエサレアでのポールの投獄の日々、苦悩し、死に果てる者達に神について知らせているとき、2万人のユダヤ人大虐殺の最中、思いがけなく事故で死ぬまで暗闇に座る者達へ光を与え続けた。[9][10][11]
130:2.6 ガニドは、この時までに、いかに自分の家庭教師がその余暇を仲間のために特異で直接の聖職行動に費やしたかを知り始めた。そして、若いインド人は、これらの絶え間ない活動の動機を見つけ出しにかかった。彼は、「なぜ、あなたはそれほどまでに見知らぬ人との交流にかまけているのですか。」と尋ねた。そこで、イエスは答えた。「ガニド、誰にとっても神を知る者は見知らぬ人ではない。天の父を捜し当てる経験を通じて、すべての人間は、君の兄弟姉妹であるということに気づく。そこで新たに見つけた兄弟に会う興奮を楽しむということが奇妙に見えるか。自分の兄弟姉妹と面識をもち、かれらの問題を知り、彼らを愛するために学ぶということこそ、最高の生活経験である。」
130:2.7 この談合は、その夜かなり遅くまで続き、そのなかで、青年は、神の意志と人間の心による選択行為、いわゆる人間の意志との違いを教えるようイエスに求めた。イエスは大体以下のようなことを言った。『神の意志は、神の道であり、いかなる可能な選択肢に直面の際の神との提携である。神の意志をするということは、従って、ますます神のようになっていくという進歩的経験であり、また、神は、善、美、真である全ての源であり、究極目標である。人の意志は、人の道であり、命はかない者が選び行う全体の骨子である。意志は、知的な反射に基づく決定行為に導く自意識をもつものの自発的選択である。』
130:2.8 午後、イエスとガニドは、非常に悧巧な牧羊犬との遊びを楽しんでいた。ガニドは、犬は精神をもつのかどうか、意志があるのかどうかを知りたく思った。その疑問に応えてイエスは、言った。「犬には、有形な人間、すなわち彼の主人を知りうる心はあるが、霊であるところの神を知ることはできない。したがって、犬は精神的資質を持たず、精神的な経験も楽しむことはできない。犬には、本性からくる、また訓練により増大される意志があるかもしれないが、そのような心の力は精神的な力でもなく、それは、反射的でない—それは、 より高い、そして道徳的な意味を見分けたり、または精神的で永遠の価値を選ぶ結果ではない—ので、人間の意志にも匹敵しない。それは、そのような精神的識別力の所有と真理の選択が、必滅の運命にある者を道徳的存在者、つまり精神的責任と永久生存の可能性を与えられる生き物にするのである。」イエスは、動物のそのような精神力の欠如こそが、やがて動物世界での言語を開発したり、あるいは永遠に人格生存に同等な何かを経験するというようなことをとこしえに不可能にすると説明を続けた。この日の教授の結果ガニドは決して、二度と人間の動物の体への輪廻の信仰を抱かなかった。
130:2.9 翌日、ガノドは、このすべてについて父と語り合い、また、ゴノドの質問に答えて、イエスは、次のように説明した。「動物的存在の物質問題に関して現世の決定を下すことにのみ専心している人間の意志は、ゆくゆく滅ぶ運命にある。心からの道徳的な決定と絶対的な精神的選択をする者達は、このようにして次第に内在し神性である精霊と同一視され、その結果、ますます永遠に生存する価値ある者として変容—神のような奉仕がいつまでも続く進行—していく。」
130:2.10 我々が、現代の言葉で大体次のようなことを意味する重大な真理を初めて耳にしたのは、この同じ日であった。「意志は、主観的な意識をそのままに客観的に表現し、神のようであることを切望する現象を経験することを主観的な意識が可能にする人間の心のその現れである。」そして、それは、あらゆる思慮深くて精神的に関心がある人間が、創造的になることができるというこの同じ意味合いである。
130:3.1 カエサレアの旅は盛り沢山なものであった。船の準備ができたある日の正午、イエスと2人の友人は、エジプトのアレキサンドリアへと出発した。
130:3.2 三人は、アレキサンドリアへの誠に快い航路を楽しんだ。ガニドは船旅を楽しみ、イエスを質問攻めにした。都市の港に接近するにつれ、青年は、アレクサンダーが防波堤で本土に繋いだ島、にあるファロスのすばらしい灯台に感動した。灯台は、2つの立派な港をこうして造築した結果、アレキサンドリアをアフリカ、アジアそしてヨーロッパの海の商業十字路地点とした。このすばらしい灯台は、世界の7不思議の1つであり、またすべてのその後の灯台の先駆けでもあった。彼らは、この見事な人工の救命装置を見るために朝早く起き、イエスは、感嘆の真只中にいたガニドに言った。「ところで息子よ、インドに帰ったなら、たとえ父が永眠した後でさえ、君は、この灯台のようなものであろう。君は、暗闇に座る者達にとって人生の光のようになるであろうし、無事に救済の港に辿り着く航路を望む全ての者に示すであろう。」ガニドは、イエスの手を握りしめながら、「そうします。」と言った。
130:3.3 そして我々は、キリスト教の初期の教師等が、排他的にローマ世界の西洋文明に注意を向けたとき、重大な間違いをしたと再度意見を述べる。1世紀のメソポタミアの信者に支持されたように、イエスの教えは、アジアの宗教家の様々な集団に容易に受け入れられていたであろうに。
130:3.4 かれらは、上陸後の4時間目までには、人口100万人のこの都市の西の境界へと伸びる幅30メートル、長さ8キロメートルの長く広い大通りの東端近くに落ち着いた。この都市の主要な施設—大学(博物館)、図書館、アレクサンダーの王立の陵、宮殿、海神の神殿、劇場、競技場—の最初の調査の後、イエスとガニドが世界で最大の図書館に行く間、ゴノドは商用にとりかかった。ここには全ての文明世界からのおよそ100万の原稿が、集められていた。ギリシア、ローマ、パレスチナ、パルチア、インド、中国、そして日本からさえ。ガニドは、この図書館で、インド文学の全世界最大の集成を目にした。彼らは、アレキサンドリアでの滞在中、ここで毎日何時間かを過ごした。イエスは、この場所でヘブライ経典からギリシア語への翻訳に関してガニドに話した。二人は、世界のすべての宗教について再三検討し、イエスは、この若い心に各宗教の真理を指し示そうと努力をし、常に付け加えて言った。「しかし、ヤハウェは、メルキゼデクの顕示とアブラハムの契約から発達した神である。ユダヤ人は、アブラハムの子であり、その後、メルキゼデクが生きて教えた、そして、彼が、そこから全世界に教師達を送ったまさにその地を占居した。そして結局、彼らの宗教は、他のどの世界宗教よりも、明確な天の宇宙なる父としてのイスラエルの主なる神の認識を描写した。」
130:3.5 それらの宗教は、多かれ少なかれ従属的な神々をも認識するかもしれないが、ガニドは、イエスの指導の下で、宇宙なる神格を認識する世界の全ての宗教の教えを収集した。多くの議論の後に、イエスとガニドは、ローマ人の宗教には本当の神がいないと、皇帝崇拝以上でもないと決論づけた。2人は、ギリシア人には哲学があるにもかかわらず、ほとんど人格的な神の宗教をもたなかったと結論した。彼らは、多様性からくる混乱を理由に、そして神格に対する様々な概念が、他からの、または古い宗教から派生したような理由から、神秘的宗教は切り捨てた。
130:3.6 これらの翻訳は、アレキサンドリアでなされたが、ガニドは、ローマでの滞在の終了近くまで、最終的にこれらの選択を整理しなかったし、個人的な結論も加えなかった。世界の聖なる文献著作者の最も優れた全てが、多かれ少なかれ明確に永遠の神の存在を認めており、また神の特徴や人間との関係に関して非常に一致していることを発見して大変に驚いた。
130:3.7 イエスとガニドは、アレキサンドリアに滞在中、博物館で多くの時間を過ごした。この博物館は、稀有な収集物というより、むしろ美術、科学、および文学の集合体というものであった。ここの学識ある教授達は、毎日講義をし、また当時、ここは、西洋世界の知性の中心地であった。日々、イエスはガニドに講義を説明した。2週目のある日、青年は声高に言った。「ヨシュア先生、あなたはこれらの教授より物知りです。立ち上がって、あなたが話してくれた素晴らしいことを話すべきです。彼らは、多くの考えで五里霧中です。私が、父に話し、その段取りをつけてもらいます。」イエスは、「君は、師にうっとりしている生徒であるが、これらの教師は、私達が教えることを気にとめはしないであろう。非精霊化された学問の誇りは、人間の経験の中で欺瞞的なものである。真の教師は、ずっと学習者のままでいながら知的な清廉さを維持するものである。」とにこやかに言った。
130:3.8 アレキサンドリアは、西洋の混合された文化都市であり、ローマに次いで世界で最大の、最もすばらしい都市であった。ここには、世界最大のユダヤ教の礼拝堂があり、70人の支配する年長者、アレキサンドリアのサンヘドリンの政府の所在地であった。
130:3.9 ゴノドが商取引をした数多くの男性の中に、当時有名な宗教哲学者であるフィロンを兄弟にもつアレクサンダーというあるユダヤ人の銀行家がいた。フィロンは、ギリシア哲学とヘブライの神学を和合させる称讃すべき、しかし極めて難題な仕事に従事していた。ガニドとイエスは、フィロンの教えについてかなり話し合い、彼の講演のいくつかに出席する心積りであったが、この有名なギリシア風のユダヤ人は、アレキサンドリアでの彼らの滞在中ずっと病床にあった。
130:3.10 イエスは、ギリシア哲学とストア主義について多くをガニドに推奨したが、イエスの民族のいくつかの不明確な教えのような信念のこれらの体系は、人が神を見つけ、また常しえなるものを知りつつ生活経験を楽しむように導くという点においてのみ宗教であるという真実で若者に感銘を与えた。
130:4.1 アレキサンドリアを去る前夜、ガニドとイエスは、プラトンの教えの講義をした大学の政治学の教授の一人と長い時間話した。イエスは、学識あるギリシア人教師の通訳をしたが、ギリシア哲学に対する自分自身の反駁の教えは織り込まなかった。ゴノドは、その夜商用でいなかった。従って、教授が去った後、師と生徒は、プラトンの教義に関し長らく腹蔵なく話した。世界の物質的なものは、不可視ではあるが、より実質的で精霊的な現実の暗い反映であるという理論と関係のあるギリシアの教えのいくつかに条件付きの賛意を与える一方、イエスは、若者の思考のためにより信頼できる基盤を示そうとした。そこで、かれは、宇宙の現実の本質に関する長い論述を始めた。現代の言い回しでイエスがガニドに言った骨子は、次の通りである。
130:4.2 宇宙現実の根源は、無限である。限りある創造の具体的なものは、楽園形態の時・空間の影響であり、永遠の神の宇宙なる心である。物質界の因果関係、知的世界の自意識、精霊世界の前進していく自己性—宇宙の規模で投影され、永遠の相関性組み込まれ、質の完全性と価値における神性が経験されるこれらの現実—は、崇高なるものの現実を構成する。しかし、変化し続ける宇宙において、因果関係、知性、および精霊の経験をもつ根源なる人格は、不変かつ絶対である。無限の価値と神の本質をもつ永遠の宇宙でさえ、絶対なるもの、物理的状件、知的抱擁、または絶対である精霊の本質以外の万物は、変化するかもしれないし、しばしば変化する。
130:4.3 限りある生物が到達しうる最高の段階は、宇宙なる父の認識と崇高なるものを知ることである。その段階においてでさえ、終極目標に達したそのような存在体は、物質界の動きとその物質的な現象における変化を経験し続ける。同様に、彼らは、自らの精霊的宇宙の継続的な上昇における自己性の前進と、知的宇宙への深まる評価において膨らんでいく意識と反応に気づいた状態にある。被創造物は、意志の完全性、調和、合意だけで創造者と一つになることができる。そして、生物が、時間と永遠の中で生き続けることと、有限の個人の意志と創造者の神性意志との一貫性のある合致によってのみ、神性のそのような状態が極められ、保たれる。常に父の意志をするという願望は、魂で最高でなければならないし、神の上昇する息子の心で優位でなければならない。
130:4.4 片目の人は、遠近の深度を視覚化することを決して望めない。単眼の物質科学者も、さらには単眼の精霊的神秘主義者や寓話作家も、宇宙の現実を正確にとらえ、適切にその真の奥行きを理解することはできない。被創造物の経験のすべての真の価値は、認識の深層に隠されている。
130:4.5 思慮のない原因は、粗雑なものや単純なものから高尚なものや複雑なものに発展させることはできないし、精霊を伴わない経験は、時間に生きる人間の物理的な心を永遠の生存の神性特質へと発展することはできない。無限の神格をかくも独占的に特徴づける宇宙の1つの特質は、進歩的な神格到達で生残できる人格のこの果てしない創造的贈与である。
130:4.6 人格は、その宇宙授与であり、宇宙現実のその段階であり、無制限な変化との共存ができ、同時に、その後いつまでもそのようなすべての変化の存在においてのその同一性を保持することができる。
130:4.7 生命は、宇宙状況で必要なものと可能性に対する宇宙の根本原因の適合であり、宇宙なる心の機能と、精霊である神の精霊の火花の起動により生じる。命の意味は、その適応性にある。人生の価値はその発展性—神-意識の高さまでも—にある。
130:4.8 自意識の強い生活の宇宙への不適合は、宇宙不調和をもたらす。宇宙の趨勢からの人格意志の最終的な分岐は、知性の隔離、人格分離に終わる。内在する精霊の案内者の喪失は、結果として現存の精霊の休止を起こす。それ故、知的で進歩する生活は、それ自体神性の創造者の意志を表現する意図をもつ宇宙の存在の明白な証明になる。そして、この人生は、 全体として、その最終目標である宇宙なる父を念頭におき、より高い価値へと奮闘している。
130:4.9 人は、知性のより高く、準精霊的な援助は別として、僅かに動物水準を超える心をたしかに備えている。従って、動物(崇拝、知恵を持たない)は、超高度の意識、つまり自己を意識する意識、を経験することができない。動物の心は、客観的な宇宙を意識しているに過ぎない。
130:4.10 知識は、物質または事実を識別する心の領域である。真理は、神を知得していることを意識している精霊的に授けられた知性の領域である。知識は、証明可能である。真理は、経験される。知識は、心の所有物である。真理は、魂の、前進する自己の、経験である。知識は、非精霊的な段階の機能である。真理は、宇宙の心‐精霊の位相である。物理的な心の目は、実際の知識の世界を知覚する。精霊的に意味を与えられた知性の目は、真価の世界について明察する。連結され、調和されたこの2つの視点は、知恵が進歩的個人の経験に関して宇宙の現象を解釈する現実の世界を明らかにする。
130:4.11 誤り(悪)は、不完全さに与えられる罰である。不完全さの質、あるいは不適合の事実は、物質的段階では批判的な観察や科学的分析により、道徳的段階では人間の経験により明らかにされる。悪の存在は、心の誤りと、進化する自己の未熟の証明となる。悪は、従って、宇宙を解釈するうえで、不完全さの尺度でもある。誤りを犯す可能性は、知恵、部分的かつ一時的なものから完全であるものと永遠のものへと、相対的かつ不完全なものから最終的で完成されたものへと進歩する体系の獲得に内在する。誤りは、楽園到達への人の上昇する宇宙行路で絶対に起こる相対的な不完全さの陰翳である。誤り(悪)は、実際の宇宙の特性ではない。それは、崇高なるものと究極なるものの上昇する段階への不完全な有限体の欠陥に関わる際の相対性の観測にすぎない。
130:4.12 イエスは、若者の理解力に最適な言語でこのすべてを伝えたが、ガニドは、議論終了後には目が重くなり、すぐ深い眠りについた。かれらは、クレテ島のラセーアに向かう船に乗るために、翌朝早く起床した。しかし乗船前、若者は、悪についてのさらなる疑問があり、それに応えてイエスが答えた。
130:4.13 悪は相対的概念である。それは、そのような宇宙が、無限なるものの限りない現実の宇宙における表現である命の光を暗くするものとして、事物と存在体の有限宇宙によって投じられた影に現れる不完全さの観測から起こる。
130:4.14 潜在的悪は、無限と永遠の時‐空間での制限された表現として神の啓示に不可避の不完全さに固有である。完全性の存在における部分性の事実は、現実の関連性を構成し、知的選択の必要性をつくり出し、精霊認識と反応の価値水準を確立する。一時的、かつ限りある被創造物の心に固守される無限なるものの不備で有限な概念は、それ自体が、潜在的悪である。しかし、これらの本来固有の知的な不協和と精霊的な不十分さの理にかなった修正における増大する誤りは、実際の悪の実現に等しい。
130:4.15 すべての動きのない、死に至った概念は、潜在的に悪である。相対的かつ生きた真実の有限の影は、絶えず動いている。不活発な概念は、つねに科学、政治、社会、宗教の進歩を遅らせる。不活発な概念は、一定の知識を意味するかもしれないが、それらは、知恵が不足しており、真理を欠いている。しかし、宇宙心の支配の下の宇宙の同調と、崇高なるもののエネルギーと精霊によるその安定した制御の認識に失敗することのないように、相対的概念に、君を誤らせる機会を与えてはならない。
130:5.1 旅行者等のクレテ行きの目的は、ただ1つであった。それは、遊び、島の中を歩き回り、山に登ることであった。その当時のクレテ人は、周囲の民族からはよく見られていなかった。にもかかわらず、イエスとガニドは、多くの人々をより高度の考えと生き方へと向けかえさせ、その結果、エルサレムから最初の伝道者達が到着したときにはその後の福音の教えの迅速な受け入れへの基礎が敷かれていた。その後かれらの教会の再編成のためにタイタスを島に送った時、ポールがクレタ人について述べた厳しい言葉に反して、イエスは、これらのクレタ人を愛していた。[12]
130:5.2 イエスは、クレタ島の山腹で、宗教に関してゴノドと最初の長い話をした。この父は、「あなたの言うこと全てを少年が信じるのも当然です。しかし、エルサレムのようなところに、ましてやダマスカスのようなところにまでそのような宗教があるとはついぞ知りませんでした。」と言って、非常に感動した。島での滞在中、ゴノドがまず、共にインドに戻ることをイエスに提案し、ガニドは、イエスが、そのような手筈を承諾するかもしれないという考えに喜んだ。
130:5.3 ある日、ガニドが、なぜ公の教師の仕事に専念しなかったかを尋ねると、イエスは言った。「息子よ。すべては、その時間の接近を待たなければならない。君は世界に生まれてくるが、いかなる心配の量もどのような苛立だちの表現も、君の成長を助けはしないだろう。全てのそのような事柄に関しては、時期を待たなければならない。時間だけが、木に緑の果物を熟させる。季節は季節に続き、ただ時の経過だけで日没が日の出に続く。私は、現在君と君の父と共にローマへ行く途中であり、今日は、それで十分である。私の明日は、完全に天国の私の父の掌中にある。」それからかれは、モーシェと注意深い待機と継続的な下準備の40年間について話した。
130:5.4 ガニドが決して忘れなかった1つが、「美しい港」の訪遊中に起きた。この挿話に関する記憶は、故郷インドの階級制度を変えるために何かできたらと彼に常に願わせた。酔っ払いの変質者が、公道で奴隷の少女を襲っていた。イエスは、少女の苦況を見て突進し、狂人の襲撃から少女を引き離した。怯えている子供が彼にしがみつく一方、イエスは、憐れな輩が、怒りの強打を空に振り回してくたくたになるまで怒り狂った男を伸ばしきった強力な右腕で安全な距離に押さえとどめた。ガニドは、イエスの事件の扱いを助ける強い衝動を覚えたが、父は禁じた。かれらは、少女の言語を話すことはできなかったが、家に送っていく途中、少女は、3人の情けある行為を理解することができ、心から感謝をした。イエスの肉体の人生を通じて、おそらくこれが、個人的な交戦に近いものであった。しかし、その晩、ガニドに酔っぱらいを強打しなかったかを説明をすることは難しかった。ガニドは、この酒酔い男は少なくとも少女を殴った回数だけ殴られるべきだと思った。[13]
130:6.1 山での滞在中、イエスは、恐れ、意気消沈の青年と長話をした。仲間との安らぎや勇気を得られないこの若者は、丘での孤独を求めた。かれは、無力と劣等感をもって成長してきた。これらの生まれながらの傾向は、成長につれ、とりわけ、12歳のときに父の喪失に遭遇してからの数々の困難な情況により増大した。彼らが出会うと、イエスは、次のように言った。「やあ、友よ。このように美しい日になぜそれほど塞ぎ込んでいるのか。たまたま君を苦しめるような何かがあるのなら、私は、恐らく何らかの方法で助力できるであろう。ともかく、尽力を提供するのは私の喜びとなる。」
130:6.2 青年は、話したがらなかった。そこで、イエスは、この青年の魂への2度目の接近をして、「君が人々から逃げてこれらの丘に上って来るのが分かる。だから、勿論、私と話したくはないだろうが、君がこれらの丘に詳しいかどうかを私は知りたい。これらの道がどこへ続くか知っているか。フェニックスへの最も良い道順を教えてはくれないか。」と言うと、この若者は、これらの山に非常に精通しており、フェニックスへの道を教えることに非常に興味をもつようになり、すべての道を地面に書き記し、あらゆる詳細を完全に説明するほどであった。しかし、イエスが、別れを告げ、まるでその場を去る振りをした後、突然振り向いて言ったことに若者は、はっとして好奇心をそそられた。「君が、一人やるせない気分で放っておいてもらいたいのはよく知っている。しかし、フェニックスへの最善の道について寛大な尽力を受けながら、山腹のここに留まり、運命の目標への最善の道を心の中で探し求めている君に、軽率に君を置き去りにし、また答える何の努力もしない私は、親切でも公平でもない。君がフェニックスへの道を熟知しているように、私は、何度も横断したので君の失望とくじかれた大志の都への道をよく知っている。そして、私に助けを求めたのだから、私は君を失望させはしない。」若者は、もう少しで圧倒されるところであったが、「でも私は、あなたに何も求めていません」と吃ってなんとか言えた。そこでイエスは、肩に優しい手をあてて言った。「いや、息子よ、言葉ではなく、私の心に切望の眼差しで求めたのだ。わが息子よ、仲間を愛する者には、落胆と絶望の君の面持ちに助けを求める雄弁な訴えが分かる。私が、自己の悲しみから人間の兄弟愛における、また天の神の奉仕における愛の活動の喜びへと導く奉仕の道や幸福の街道について君に話す間、ともに座りなさい。」
130:6.3 青年は、この時までにはイエスとの話しを非常に望んでおり、個人の悲しみと敗北の世界からの脱出路を示すよう切に助けを求め、その足元に跪いた。イエスは言った。「友よ、立ちなさい。男らしく立ち上がりなさい。小さな敵に取り囲まれ、多くの障害に阻まれているかもしれないが、この世界と宇宙の大きな物や本当の物は、君の味方である。太陽は、毎朝、それが地球の最強かつ全盛の男にするちょうどその時、君に挨拶するために昇る。見よ—君には強い体と強力な筋肉がある—体つきは平均よりも良い。当然のことながら、山腹のここに座り、自己の本当ではあるが想像上の不運を悲嘆する限り、それはほとんど無益である。だが、素晴らしい事がなされるのを待ちうけているところに取り急いで行くならば、その身体で素晴らしい事ができるはずである。君は、不幸な自己から逃げようとしているが、それはできない。君と君の生活問題は本当である。生きている限り、それらから逃げることはできない。しかし、再度注目しなさい。君の心ははっきりしており、能力がある。君の強い身体には、それを指示する知的な心がある。その問題を解決するために注意を向けなさい。自分のために働くように知性を教導しなさい。考えのない動物のようにこれ以上恐怖に支配されることを拒否しなさい。今までのようなみじめな恐怖の奴隷であったり、憂うつさや敗北にある契約雇用人であるよりも、君の心は、むしろ人生問題の解決のための勇敢な味方であるべきなのだ。しかし、君の真の達成の可能性、最も価値あるものは、君の中に生きている精霊であり、もし君が恐怖の足枷からそれを解き放ち、その結果、生きた信仰の力と臨場により、精霊的な資質が、無活動の悪からの救出開始を可能にするならば、それは、それ自体を制御し、体を起動させるように心を刺激し、奮い立たせるであろう。そして、このことから、直ちに、この信仰は、君の心の中に生まれてきた神の子であるという意識ゆえに、溢れんばかりに速やかに君の魂を満たす仲間に対するその新生の、全てを支配している愛の有無を言わせない存在によって人の恐怖を打ち負かすであろう。
130:6.4 「この日、息子よ、君は、生まれ変わり、信仰、勇気、人への献身的奉仕に生きる男として、神のために、再起しようとしている。そして、自身の中ですっかり人生に再調整されると、君は、同様に宇宙にも再調整されるようになる。君は、再び誕生した—精霊から生まれた—のだ。これから先、君の全生涯は、勝利達成の1つとなるのである。悩みは、君に活力をあたえるであろう。失望は、君を駆り立てるであろう。困難は、君に挑戦するであろう。そして、障害は、君を刺激するであろう。立ち上がれ、青年よ。すくむ恐怖と逃れる腰抜けの人生に別れを告げよ。取り急ぎ義務に戻り、神の息子、つまり地球での人間への高潔な奉仕に専念し、とこしえに神への素晴らしく、永遠の奉仕に運命づけられた限りある命をもつ者として生身の君の人生を送りなさい。」
130:6.5 そして、この青年エウツュヒオスは、その後、クレテ島のキリスト教徒の指導者となり、またクレテ島の信者の向上のためのティーツスの活動のための親しい仲間となった。[14]
130:6.6 旅行者達は、北アフリカのカルタゴへの出航準備ができた時点のある日の正午頃、しっかり休息をとり、活力を得ており、途中キレネに2日間止まった。イエスとガニドが、積み荷の牛車の破壊で傷ついたルーフスという若者に応急処置を与えたのは、ここであった。かれらは、彼の母の元へと家まで運び、彼の父のサイモンは、後にローマ兵の命令で自分が運んだ十字架にかかる男がかつて自分の息子を助けたこの見知らぬ人だとは夢にだに思わなかった。[15]
130:7.1 イエスは、カルタゴへの途上の大半を社会、政治、商業の問題について仲間の旅行者達と語った。宗教に関してはほとんど言及されなかった。ゴノドとガニドは、イエスが上手な語り手であることを初めて知り、ガリラヤでの以前の生活に関する話をずっと聞き出していた。また、イエスが、エルサレムまたはダマスカスのいずれかで育ったのではなく、ガリラヤで育ったことも聞き知った。
130:7.2 出会う機会のあった人の大部分が、イエスに引きつけられるのに気づき、ガニドが、友人を作るには人は何をすべきか質すと、師は言った。「仲間に関心をもつようになりなさい。どのように彼らを愛すかを会得し、彼らがされたいと君が確信する何かをする好機を窺いなさい。」そして、「友を持たんとする者は、自ら親しみをみせよ。」という古いユダヤの諺を引用した。[16]
130:7.3 イエスは、カルタゴで不死について、時間と永遠についてミトラ教の神官と長く忘れ難い話をした。このペルシア人は、アレキサンドリアで教育され、イエスから学ぶことを本当に望んでいた。イエスは、大体のところ次のように現代の言葉に置き換えて、彼の多くの質問に答えて言った。
130:7.4 時間は、生物の意識により知覚される連続する一時的な出来事の流れである。時間は、出来事が認識されたり、隔離されるそれによって継承-配列に与えられる名称である。空間の宇宙は、楽園の決まった住まいの外のどんな内部の位置からでも見えるように、時間に関連した現象である。時間の運動は、時間の現象として空間で動かない何かと関連して明らかにされるにすぎない。宇宙の中の宇宙では、楽園とその神格は、時間と空間の両方を超越する。棲息界においては、人間の人格(楽園の父の精霊が内在し、方向づける)は、時間の出来事の物質的連鎖を超越することのできる物理的に関連した唯一の現実である。
130:7.5 動物は、人間のようには時間を感じないし、人にとってさえ、自己の部分的かつ制限的視点のため、時間は、出来事の連続にみえる。しかし、人間の上昇につれ、内部への進歩につれ、この事象の列の拡大する眺めは、その全体の中でますます明察されるようなものである。以前には出来事の連続と見えたそれは、そこでは全体として、しかも完全に関連する循環とみなされるであろう。このように、円形の同時性は、事象の線系連続の以前の意識をますます置き換えるであろう。
130:7.6 時間で制限されるとき、7つの異なる空間概念がある。空間は、時間により測定されるが、時間は、空間により測定はされない。科学者の混同は、空間の現実を認識しないことから起こる。空間は、単に宇宙物体の関連性における変化の知的概念ではない。空間は、空ではなく、しかも、空間を部分的に超えることさえできることを人が分かる唯一が、心である。心は、物質の空間‐関連性の概念の如何にかかわらず機能することができる。空間は、相対的に、比較的に、生物状態のすべての存在にとり有限である。7つの宇宙次元の自覚に意識が接近すればするほど、可能な空間の概念は、ますます究極に近づく。しかし、空間の可能性は、絶対水準においてのみ真に究極である。
130:7.7 宇宙の現実は、宇宙上昇と完成水準に拡大しており、常に相対的な意味をもつということが、明らかであるにちがいない。終極的に、生存している人間は、7次元の宇宙において同一性を成し遂げる。
130:7.8 物質起源の心の時‐空間の概念は、意識をし、思いを心に抱く人格が、宇宙の段階を上昇するとき、連続する拡大を経る運命にある。人が、存在の物質と精霊面の間に介在する心を達成するとき、時‐空間に関する彼の考えは、知覚の質と経験の量に関して途方もなく広げられるであろう。前進する精霊人格の拡大する宇宙概念は、洞察の深さと意識の範囲の双方の増大による。そして人格が、上向きに、そして内側へと神格‐類似の超越的な段階に進んでいくと、時‐空間の概念は、ますます絶対者の時間も空間もない概念に近づくであろう。相対的な、そして超越的な達成に則り、絶対段階のこの概念は、究極目標の子等により心に描かれることになっている。
130:8.1 イタリアへの最初の寄港地は、マルタの島であった。ここでイエスは、この上もなく落胆しているクラウヅスという名の若者と長く話した。この男は、ずっと自殺を考えてきたのであったが、ダマスカスの筆記者と話し終えると言った。「私は男らしく人生に向き合います。臆病者を演じるのは終わりです。国に戻り、もう一度やり直します。」まもなくかれは、キニク学派の熱心な伝道者になったが、それでも後にローマとナポリでのピーターのキリスト教公布に際し彼と手を握り、ピーターの死後、福音を説きつつスペインへと行った。だが、かれは、マルタで自分を奮起させた男性が、後に世界の救世者であると宣言したイエスであることをついぞ知らなかった。
130:8.2 彼らは、シラクサでまる1週間を過ごした。ここでの滞在中の注目に値する出来事は、イエスとその仲間が立ち寄った居酒屋を切り盛りする堕落したユダヤ人、エズラの改心であった。エズラは、イエスの接近に魅せられ、彼がイスラエルの信仰を取り戻す手伝いを頼んだ。かれは、絶望を表し「私は、アブラハムの真の息子となりたいが、神を見つけられない。」と言った。イエスは、「神を本当に見つけたいならば、願望そのものが、すでに彼を見つけたという証拠である。父は君をすでに見つけているのであるから、神を見つけられないということが問題ではなく、君の問題は、神を知らないということである。予言者エレミヤをまだ読んだことがないのか。『心を尽くして私を捜し求めるなら、私を見つけるだろう。』またこの同じ予言者が言ってはいないか。『私が主であることを知る心をお前達に与える。お前達は私の民となり、私はお前達の神となる。』そして、また、教典で『彼は、人々を上から見ている。そしてもし誰かが、私は罪を犯し、正しいことを歪めた。それは私に利をもたらさなかった。そこで、神は、暗黒からその男の魂を救い出し、彼は光を見る。』というくだりも読んではいないのか。」エズラは、神を見つけ、自己の魂の満足をも見つけた。後にこのユダヤ人は、裕福なギリシアの改宗者と共同で、シラクサに最初のキリスト教会を建設した。[17][18][19][20]
130:8.3 かれらは、メッシーナには1日だけ止まったが、それは、イエスが果物を買い、その代わりに命の糧を供給した果物売りの小さい少年の人生を変えるには充分の長さであった。少年は、自分の肩に手を置いて言ったイエスの言葉と、同時に見せた優しい眼差しを決して忘れなかった。「さらば、少年よ。男らしく成長するように大いに勇気を持ちなさい。体を養った後には、いかに魂を養うかも学びなさい。そして、天の私の父は、君とともにおり、また君の前を行くだろう。」少年は、ミトラ教の帰依者となり、後にはキリストの信仰に変わった。
130:8.4 ついに彼らは、ナポリに到着し、目的地のローマからは遠くない思いがした。ゴノドは、ナポリで処理すべき多くの商用があっり、イエスが通訳として必要とされる時間は別として、彼とイエスは、都市見学や探査に余暇を費やした。ガニドは困っている様子の人々を見つけることが巧くなっていた。この都市ではひどい貧困が目につき、かれらは、多くの施し物を分配した。しかし、ガニドは、イエスが通りの乞食に硬貨を一枚与えた後、時間をとり慰めとなるようにこの男に話すのを拒否した時のイエスの言葉の意味を決して理解しなかった。イエスは、「人の意味することを解しない者になぜ無駄に言葉を使うのか。父の精霊は、子としての容量をいささかも持たない者に教えて救うことはできない。」と言った。イエスが意図したところは、この男が正常な心ではなかったということ。つまり先導する精霊に応じる能力がなかったということであった。
130:8.5 ナポリでは、目立った経験はなかった。イエスと青年は、都市を徹底的に調べ、何百人もの男女、子供等に多くの微笑と陽気を振り撒いた。
130:8.6 ここから彼らは、3日間の滞在をしたカプア経由でローマに行った。かれらは、荷役用の動物を側らに、アッピア街道を通りローマに向けて旅を続け、3人ともに、この帝国の女王の、世界で最大の都市を見ることを切望していた。