132:0.1 ゴノドが、ローマの支配者ティベリウスへのインドの王子からの挨拶状を携帯したので、2人のインド人とイエスは、ローマ到着後の3日目に彼の前に現れた。気難しい皇帝は、この日は異常に上機嫌で、長い間、三人組と雑談をした。3人が退席したとき、皇帝は、自分の右に立っている補佐官にイエスに関して述べた。「わしが、あいつの王らしい物腰と優雅な態度を身につけていたら真の皇帝であるんだがなあ、そうだろう。」
132:0.2 ガニドは、ローマ滞在中、都市周辺の興味ある場所の訪問に一定の時間を過ごした。父は、多くの商取引きがあり、息子が自分の大規模な商業の経営管理のふさわしい後継者になるように成長することを望んでおり、少年を実業界に導き入れる時が来たと思った。ローマには多くのインド市民がおり、ゴノドの従業員の一人は、イエスが一日中自分の時間が過ごせるように通事として再々彼に同行するのであった。これは、200万の住民のこの都市を徹底的に知るようになる契機を彼に与えた。政治の、法律の、そして商業の生活の中心地である大広場で、頻繁に彼の姿が見かけられた。かれは、しばしばカピトリウムの丘に登っていき、ジュピター 、ユノ、およびミネルヴァに捧げられたこのすばらしい寺院に見入りながら、これらのローマ人が捕われた無知の束縛というものについてつくづく考えた。また、パラティヌスの丘で多くの時間を過ごし、そこには皇帝の住居やアポロの寺院、またギリシアやラテン語の図書館があった。
132:0.3 この時代、ローマ帝国は、南ヨーロッパ、小アジア、シリア、エジプト、北西のアフリカの全てを包括していた。そして、その住民は、東半球のあらゆる国の住民を含んでいた。ユランチアの人間のこの国際的な集合体を研究し、またこれらと交じわるというイエスの願望が、この旅行に同意した主な理由であった。
132:0.4 イエスは、ローマで人間について多くを学んだが、その都市での6カ月の滞在中の多方面にわたる全経験で最も貴重なものは、帝国の首都の宗教指導者との接触であり、また彼等へ与える自分の影響であった。イエスは、 ローマでの最初の1週が終わる前に、キニク学派、ストア学派、密儀宗派、そのうちの特にミースラ派の手応えのある指導者達を捜し求め、知り合った。ユダヤ人が彼の使命を拒絶しそうであったことがイエスにとって明らかであろうとなかろうと、かれは、やがて使者達が、天の王国を公布しにローマに来ることをきわめて確かに予見した。それ故、使者達の伝達ためのより良い、しかもより確かな受け入れの道を用意するために最も驚くべき方法でとり掛かった。かれは、主要なストア学派から5人、キニク学派から11人、密儀宗派の16人の指導者達を選り抜き、約6カ月間をこれらの宗教教師との親密な付き合いで余暇の多くを費やした。そして、かれは、一度として誤りを攻撃したり、あるいは彼等の教えの欠陥にさえ言及なかった。これが、イエスの指導方法であった。イエスは、この真実の高揚が非常に短期間で関連的な誤りを効果的に押し出し、次に彼らの心にあるこの真実を潤色し、また光彩を添えるように彼らが教える真実をそれぞれに選択するのであった。このようにして、イエスに教わったこれらの男女は、初期のキリスト伝導の教えにおいてその後に付加される真実、または類似の真実の認識のために用意ができていた。それは、ローマとその帝国一円におけるキリスト教の急速な普及にその強力な弾みをつけた福音伝道者のこの初期の教えの受理であった。
132:0.5 ローマでイエスに教わった32人の宗教指導者のうち、わずかに2人が、実を結ばなかったという事実を記すとき、この注目に値いする行為の意味をより理解できる。30人は、ローマのキリスト教創設の重要な人物となり、そのうちの何人かは、主要なミースラ寺院をその都市の最初のキリスト教会に転ずる助力をした。舞台裏から、また19世紀という時に照らし合わせて人間の活動を見る我々は、全ヨーロッパにおけるキリスト教の急速な伝播のための早期の舞台設定における最高価値の3要素を的確に認める。そして、それらは次の通りである。
132:0.6 1.使徒としてのサイモン・ピーターの選抜と保持[1]
132:0.7 2.その死がタルソスのシャウールを勝利に導いたステパノとのエルサレムでの会談[2]
132:0.8 3.ローマと帝国一円における新興宗教の以降の指導のためのこれら30人のローマ人の下準備
132:0.9 ステパノも選抜された30人もいずれも、その名前が、やがて自分達の宗教の教えの主題となるまさにその人物とかつて話したことがあったなどとは、彼等の全経験を通じて、一向に気づかなかった。最初の32人のためのイエスの仕事は、完全に私的なものであった。ダマスカスの筆記者は、これらの個人のための働きにおいて、たいていは1人ずつ教え、2人以上というのは稀であり、1度に4人以上とは決して会わなかった。そして、これらの男女は、伝統に束縛されていなかったことから、かれは、宗教教育のためのこの立派な仕事を果たすことができた。彼らは、その後の全ての宗教発展に関し固定的先入観の犠牲者ではなかった。
132:0.10 ローマにいたピーター、ポール、およびキリスト教師らは、自分達に先行し、また、彼らが新しい福音と共に来るための道をそれほど明らかに (彼らは、無意識に思ったが)準備したダマスカスのこの筆記者に関して数年間にわたり幾度となく聞かされた。ポールは、ダマスカスのこの筆記者の身元を決して推測することはなかったが、自分の死の前の短い期間、容姿記述の類似性を理由に、「アンチオケの天幕職人」が、「ダマスカスの筆記者」でもあったという結論に達したのであった。ある時、ローマで説教している時、サイモン・ピーターは、ダマスカスの筆記者の記述を聞いて、この人物がイエスであったかもしれないと推量したが、あるじは、ローマに行ったことがないとよく知っていたので(彼がそのように考えた)、すぐにその考えを退けた。
132:1.1 イエスがローマ滞在中の早期、終夜談話をしたのは、ストア学派の指導者アンガモンとであった。この男性は、後にポールの親友となり、ローマのキリスト教会の強い支持者の一人であることが分かった。イエスがアンガモンに教えた要旨は、現代の言い回しで次のようなものであった。
132:1.2 真の価値基準は、精霊界において、また永遠の真理の神性の水準で探されなければならない。上昇者にとり、すべての下級の標準と物質的標準は、一時的であり、部分的であり、しかも劣ると認識されなければならない。科学者は、科学者として物質的な事実の関連性の発見に限られている。厳密に言って、実利主義者または理想主義者のいずれかであると断言する権利は、彼にはない、なぜなら、そうすることにより、態度のいかなる、そしてすべての主張が、哲学のまさしく本質そのものであるがゆえに、物の科学者の態度を捨て去ることになる。
132:1.3 人類の道徳的な洞察と人類の精霊的な達成が釣りあって増大しない限り、純粋に物質的文化の無制限な進歩は、とどのつまり文明への脅威となるかもしれない。純粋に物質的な科学は、それ自体の中にすべての科学的な努力の破壊への潜在的種子を匿っている。というのは、まさしくこの態度こそが、その道徳価値の感覚を捨て、その到達という精霊的な目標を否認した文明というものの究極の崩壊の前兆となるからである。
132:1.4 物質科学者と極端な理想主義者は、常に対立するように運命づけられている。これは、高い道徳的価値と精霊的試練の水準の共通標準を併せ持つそれらの科学者達や理想主義者達には当てはまらない。あらゆる時代に科学者と宗教家は、人間の要求に係わる法廷において自分達は裁判にかけられていると気づかなければならない。彼らは、人間の進歩のための奉仕への高められた献身により自分達の途切れない生存を正当化するように勇敢に努力する傍ら、自分たちの間のすべての戦争を避けねばならない。いかなる時代のいわゆる科学、あるいは宗教が誤っているならば、それは、より本当の、またよりふさわしい理法の物質科学、あるいは精霊的宗教の出現以前に、その活動を浄化するか、または消え去らねばならない。
132:2.1 マーヅスは、ローマのキニク学派の定評ある指導者であり、ダマスカスの筆記者の親友となった。毎日毎日、かれは、イエスと会話し、来る夜も来る夜もイエスの高邁な教えに耳を傾けた。マーヅスとのより重要な議論の中でもこの誠実なキニク主義者の質問に答えるために意図されたものが、善と悪に関するものであった。イエスの要旨は、20世紀の言い回しで以下のようなもであった。
132:2.2 兄弟よ、善と悪は、単に観察可能な宇宙を人間が理解する際の相対的な水準を象徴する言葉にすぎない。人は、倫理的に怠惰であり、社会的に無関心であるならば、人間の善の基準として現在の社会慣習を受け入れることができる。精霊的に怠惰で、道徳的に非進歩的であるならば、自身の善の標準として同時代人の宗教慣習と伝統を取り入れてもかまわない。しかし、時を生き残り、永遠へと羽化する魂は、天の父が人の心の中に宿るために送った神精により確立される精霊的基準の真の価値で彼らが測定されたように、善と悪の間における生きた、しかも本人の選択をしなければならない。この宿る精霊は、人格生存の基準である。
132:2.3 真実と同様に、善は、つねに相対的であり、絶えず悪と対比される。それは、人間の進化している魂が、永遠の生存に不可欠な選択のこれらの個人的決定を可能にする善と真理の特性の識別である。
132:2.4 科学的指図、社会慣習、および宗教教義に論理的に従う精霊的に盲目の個人は、自身の道徳的な自由を犠牲にし、かつ精霊的な自由を失うという由々しい危険にさらされている。そのような魂は、知的なオウム、社会的ロボット、および宗教権威への奴隷になる運命にある。
132:2.5 善は、道徳的な自己実現と精霊的な人格達成—内在する調整者の発見とそれとの一体感—の拡大する自由の新たな段階へ発展している。美への認識を高め、道徳的な意志を増大し、真理の洞察力を強化し、仲間を愛し貢献する能力を拡大し、精神的理想を高め、時間に生きる人間の最高の動機と内在する調整者の不朽の計画を統一するならば、経験というものは、良くあり、そのすべてが、父の意志をなすという増加された願望に直接導き、それにより、神を見つけ、さらに彼に似るようにという神性の情熱を促進する。
132:2.6 生物発展の宇宙段階を昇るにつれ、人は、自身の善・経験と真理・認識のための完全に釣り合って増加する善と減少する悪があることを理解するであろう。上昇する人間の魂が最終的な精霊水準に到達するまでは、誤りを受け入れたり、あるいは悪を経験する能力は、完全には失われないであろう。
132:2.7 善は、生きており、相対的で、常に前進し、つねに個人の経験であり、真と美の認識と相関している。善は、人間の経験において、否定的相対物—潜在的悪の影—と対比されなければならない精霊的な水準の肯定的な真実-価値の認識に見られる。
132:2.8 君が楽園段階に達するまで、善は、常に所有というよりも探求ということであり、到達の経験というよりも目標ということである。しかし、人は、正義を渇望する時でさえ、人の善の部分的到達における増加する満足感を経験する。世界の善と悪の存在は、存在のそれ自体の確証であり、人間の道徳意志、すなわち人格の現実である。このようにして、それは、これらの価値を識別し、また、どちらかを選ぶこともできる。
132:2.9 楽園到達までには、自身を真の精霊価値と同一視のための上昇する死すべき運命にある者の能力は、完全な命の光の獲得達成における結果として、甚だ拡大される。楽園の無限の支配者からの神性の光の鋭い光輝に照らし出される時、そのような完成された精霊の人格は、そのような正義の精霊が、潜在的悪のいかなる否定的な影も投げかけるという余地をいささかもとどめないほどに、真、美、善、の確かで最高の特質と統合され、完全に、神々しく、精霊的になる。善は、すべてのそのような精霊的人格においては、もはや部分的ではなく、対照的であり、比較的である。それは、神のように完全となり、精霊的に充実された。それは、崇高なるものの純粋さと完成に接近する。[3]
132:2.10 悪の可能性は、その現実性ではなく、道徳的な選択が必要である。影は、ただ単に相対的に本当である。実際の悪は、個人の経験として必要ではない。潜在的悪は、精霊的な発達の下級の段階において道徳的な進歩の領域の決定刺激物として等しく働く。道徳的な心が悪をその選択とする場合にだけ、悪は、個人の経験の現実となる。
132:3.1 ナボンは、ギリシア系ユダヤ人で、ローマの主だった密儀主義、ミースラ派の指導者の中で傑出していた。ミースラ教のこの高僧がダマスカスの筆記者と多く談合をした中で、かれは、ある晩の二人の間での真理と信仰の議論に何よりも永久に影響を受けた。ナボンは、イエスを転向させようと考えていたし、またイエスにミースラ教師としてパレスチナに戻ることさえ仄めかした。ナボンは、イエスが王国に関する福音への初期の転向者の一人になるように彼に準備させているとは少しも気づいていなかった。現代の言い回しに置き換えて、イエスの教えの骨子は、次の通りであった。
132:3.2 真理は、生きることだけによって言葉で定義することはできない。真理は、つねに知識以上のものである。知識は、観察されるものに関係するが、真理は、知恵と調和し、また人間の経験のような、はかれない物を、精霊的かつ生きた現実でさえ、受け入れるという点において純粋に物質的な段階を超越する。知識は科学から生まれる。叡知は真の哲学から。真理は、精神的生活における宗教経験から。知識は事実に対処する。叡知は関係に。真実は現実価値に。
132:3.3 人は、生活の進歩的な闘いに適応する際、精神的に怠惰であり、未知をこの上もなく恐れており、科学を結晶化させ、哲学を定式化し、真実を教義化する傾向がある。自然の人間は、考える習慣と生活技術の変化の開始が、緩やかである。
132:3.4 明らかにされた真理、つまり個人的に発見された真理は、人間の魂の最高の喜びである。それは、物質的な心と内在する精霊の共同の創造である。この真実への洞察力のある、美を愛好する魂の永遠の救済は、父の意志を為し、神を見つけ、彼のようになる目的に一心に導く善に対する切望と熱望により保証される。対立は、真の知識と真理の間には決して存在しない。知識と人間の信念、、物質的な発見あるいは精霊の発達の新事実に直面することに対する恐怖に支配されている偏見に彩られ、恐怖に歪んだ信念との間に、対立はあるかもしれない。
132:3.5 しかし、真理は、信仰の実践なくしては決して人間の所有物とはなり得ない。人の思考、叡知、倫理、および理想が、彼の信仰、つまり崇高な望みよりも高く上昇しないのであるから、これは真実である。そして、そのような真の信仰すべては、深遠な回顧、誠実な自己批判、妥協のない道徳意識に基づく。信仰は、精霊化された創造性豊かな想像力の鼓舞である。
132:3.6 信仰というものは、人の心に生き、永久生存の可能性をもつ神性の火花、すなわち不滅の胚芽の超人的な活動を放つために機能する。植物と動物は、1世代から別の同分子へと伝える方法により時間の中で生き残る。人間の魂(人格)は、この内在する神格の火花との同一性関係により人間の死を生き残る。それは、不滅であり、人間の人格が進歩的な宇宙存在の継続的でより高い段階へと恒久化するために機能する。人間の魂の隠された種子は、不滅の魂である。魂の2世代目は、精霊的、かつ前進する生存の人格顕現の継承の最初のものであり、それは、その存在の根源、全存在の人格の根源、すなわち神、宇宙なる父に到達するときにだけ終える。
132:3.7 生命は、続く—生き残る—なぜならそれは、宇宙機能、神を知る任務、があるので。人の魂を起動する信仰は、運命のこの目標達成を中止することはできない。この神性の目標を一度達成すると、神のように—永遠の—なっているので、決して終わることはできない。
132:3.8 精霊的進化とは、悪の可能性に伴う同等であり、累進的な善の減退の増加し、かつ自発的な選択の経験である。善のための選択の最終的な達成と真理評価のための完成した能力の到達を伴って、正義が潜在的悪の概念にさえ出現する可能性を永遠に禁止する美と神聖の完成が生まれる。そのような神を知る魂は、神性の善のそれほどまでに高い精霊的段階で機能するとき、いかなる悪の疑いの影も投げかけはしない。
132:3.9 宇宙なる父のこの不滅で内在する精霊の火花との同一性を果たそうとする魂ごとに、人の心の楽園からの精霊の存在は、神性進行における永遠存在の啓示の約束と信仰の誓約を構成する。
132:3.10 宇宙進歩は、それが、自己理解とそれに伴う任意の克己のさらに高い段階の進歩的な到達に関連づけられるので、人格の自由を増加することにより特徴づけられる。精霊的克己の完全性への到達は、宇宙の自由と個人の自由の完全さに相等しい。信仰は、そのように広大な宇宙における人の初期での方位決定の際の混乱の真っ只中において人の魂を育み、擁護しており、一方、祈りは、創造的な想像力の様々な閃きのすばらしい統一する者の内在し、関連する神性存在の精霊の理想とを同一化しようとする魂の信仰の衝動となる。
132:3.11 ナボンは、イエスとの対談の度に、これらの言葉に大いに感銘を受けた。これらの真理は、ナボンの心の中で燃え続け、イエスの福音の後に到来する伝道者にとっての大きな援助であった。
132:4.1 ローマ滞在中イエスは、やがて来る王国で将来の弟子となる男女に準備させるこの仕事に自分のすべての閑暇を捧げたというわけではなかった。かれは、世界で最大であり、最も国際的なこの都市に生きる民族と階級のすべての人間に関する詳細な知識獲得のために、多くの時間を過ごした。これらの多数の人間とのそれぞれの接触において、イエスには二重の目的があった。かれは、生身で生きている生活への彼らの対応を学ぶことを望んだし、また、その人生をより豊かでより価値あるものにするために何かを言うか、行なうつもりでいた。この数週間の彼の宗教的な教えは、12人の師として、また民衆への説教者としてその後の人生を特徴づけたものとはいささかも異なるものではなかった。
132:4.2 その伝言の要旨は、いつも次の通りであった。人がこの同じ愛の神の信仰の息子であるという朗報と合わせて、天の父の愛の事実とその慈悲の真実。イエスの社会的接触の常套手段は、彼等への質問で人々を打ち解けさせ、自分との会話に向かわせることであった。談話は、通常彼らへの質問から始まり、彼らのイエスへの質問で終わるのであった。イエスは、質問をしたり、答えたりすることによっても、等しく教育に熟達していた。原則として、彼がよく教えた者達に対しては、控え目に言った。彼の個人的貢献からもっとも恩恵を受けた者達は、同情的で理解ある聞き手に、またそれ以上の人物に魂の重荷をおろす機会に多大の安心を得ることになる、負担過重の、心許ない、打ちしおれた者達であった。そして、これらの調整不十分な人間が、イエスに彼らの問題に関して話すとき、かれは、現下の安らぎと即座の慰めの言葉を口にすることを怠らなかったとはいえ、現実問題の解決に実用的かつ即座に役立つ提案をつねに示すことができるのであった。そして、かれは、変わることなく、これらの苦しむ者に神の愛について話し、あらゆる手段で、彼らはこの天にいるやさしい父の子であるという情報を伝えるのであった。
132:4.3 この様に、ローマでの滞在中、イエスは、市の500人以上の人間との慈愛深く向上的な個人的交流を得た。このようにして、かれは、エルサレムでも、アレキサンドリアにおいてでさえも決して得ることのできなかった人類の異なる人種についての知識を得た。イエスは、地上の人生における同様の期間に比較し、常にこの6カ月を最も豊かで最も教育的なものの1つと見なした。
132:4.4 予測されたかもしれないように、何らかの業務、または、しばしば教育、改革、または宗教運動の何らかの事業のために彼の尽力を手に入れようと望む多数の人々が、そのような万能かつ積極な人物に働き掛けることなく、彼は、6カ月間世界の大都会で機能しないでいるはずはなかった。10回以上ものそのような申し入れがあり、かれは、その都度、適切な言葉で、もしくは何らかの親切な奉仕で精神的品位の高まる何らかの考えを与えるための好機として利用した。イエスは、いろいろな人々のために事を為すということ—小事さえも—が、とても好きであった。
132:4.5 かれは、政治や政治手腕について元老院議員と話し、イエスとのこの1つの接触が、この立法者に強い印象を与え、政府が人々を支配し、食べさせるという考えから、民衆が政府を支えるという考えに同僚達を説得しようと虚しく残りの人生を費やしてしまった。イエスは、ある晩、裕福な奴隷所有者と過ごし、神の息子としての人間について話すと、翌日、この男クラウディウスは、117人の奴隷を自由にした。イエスは、ギリシア人の医師との夕食に訪れた。患者達には肉体があると同様に心と魂があるということを話したところ、この有能な医者は、さらに同胞により行き届く奉仕を試みるようになった。イエスは、あらゆる職業の様々なろ人と話した。彼がローマで訪問しなかった唯一の場所は、公衆浴場であった。かれは、広まった性的混乱のため、友人達との風呂への同伴を拒んだ。
132:4.6 彼等がティベリス川に沿いに歩いたとき、イエスは、ローマ兵に言った。「手と同様に心も勇敢であれ。思いきり正義を為し、慈悲を示すほどに寛大であれ。上司に従うように、下級の本質が上級の本質に従うよう強いるように。善をあがめ、真理を賞賛せよ。醜悪のかわりに美を選ぶように。全心で仲間を愛し、神に手を差し出すように努めよ、なぜならば、神は君の天国の父であるから。」
132:4.7 かれは、公開広場で演説者に言った。「きみの雄弁さは、気持ちがよく、きみの論理は、賞賛に値し、きみの声は快いが、きみの教えは真実にはほど遠い。君が、精霊の父として神を知ることに奮い立つ満足を味わうことができさえすれば、暗黒の束縛と無知の奴隷制度から君の仲間を解放するために演説の威力を駆使できるかもしれないであろうに。」これは、ピーターがローマで説教するのを聞き、その後、かれの後継者になったマーカスであった。サイモン・ピーターが磔刑にされたとき、ローマの迫害者に逆らい、大胆に新しい福音を説教し続けたのは、この男であった。[4]
132:4.8 不正に起訴された貧しい男に会い、イエスは、彼と共に行政長官の前に行き、彼のために出頭する特別許可を受け、素晴らしい演説をした。「正義は、国を偉大にする。国が偉大であればあるほど、不正行為が、その最もみすぼらしい市民にさえ起こらないようにするであろう。法廷で金銭や勢力を持つ者だけが正義を保証することができるとき、いかなる国といえども禍なるかな。有罪者を懲罰するだけでなく、無実の者を放免することは、行政長官の神聖な責務である。国の生存は、法廷の不偏さ、公正さ、健全性にかかっている。ちょうど真の宗教が慈悲に基づいているように、民政は、正義に基づいている。」裁判官は、再審理をし、証拠が厳密に再調査されると、かれはその囚人を釈放した。これらの直接の奉仕活動に携わる日々におけるイエスの全活動の中で、これが、公に姿を見せたことに最も近いものであった。
132:5.1 アンガモンに紹介されていたローマ市民でストア派のある富豪は、イエスの教えに大いに関心をもつようになった。多くの親密な談話の後、この裕福な市民は、もし富があったらそれで何をするかをイエスに尋ねた。そこで、イエスは、「私なら、物質的な人生の充実のためには物質的な富を与えるであろう。知的生活の向上、社会生活の昂揚、精霊生活の前進のためにはそれぞれ知識、叡知、精霊的奉仕を与えるように。私は、次とそれに続く世代の利益と昂揚のために、1世代の資源の賢明で有能な受託人として物質的な富を管理するであろう。」と答えた。
132:5.2 しかし、金持ちは、イエスの答えに完全には満足しなかった。敢えて重ねて尋ねた。「しかし、あなたは、私の立場のような者は、その富で何をすべきだと思われますか。その富を保つべきであるか、または与えてしまうべきでしょうか。」彼が、神への忠誠と人々への義務に関して一層の真実を知ることを本当に望んでいると知覚したとき、イエスは、さらに答えて言った。「良き友よ、君が、誠実な叡知の探求者であり、正直な真理の愛好者であると見分ける。従って、私は、富の責任に関する君の問題の解決に対し、私の考えの呈示をしようと思う。助言を求められたのでするが、この忠告を与えるに当たり、私は、他のどの金持ちの富にも関係がない。すなわち、助言を君にだけ、そして個人的な指導のために忠告を提供しようとしているのである。君が、富を本当に信託として望むならば、君の蓄積された富の賢明で有能な執事になることを誠に願望するならば、その富の出所を次のように分析することをぜひ助言したい。この富がどこから来たのかを自身に問い、正直な答えを見つけるよう最善をつくしなさい。そして、莫大な財産の出所を検討する助けとして、物質的な富の蓄積に関して次のような異なる10の方法を心に留めおくことを提案したい。
132:5.3 1. 相続による富—両親や他の先祖からの財産
132:5.4 2. 発見による富—母なる大地の未開墾の資源から得た財産
132:5.5 3. 通商による富—物的商品の物々交換における正当な利益として得た財産
132:5.6 4. 不当な富—不当な搾取か仲間を奴隷状態にすることで得た財産“
132:5.7 5. 利子による富—投資された資本が生み出した公平で正当な収益からの収入
132:5.8 6. 才能による富—人間の心の創造的で発明的な特質の報酬から生じた財産
132:5.9 7. 偶然による富—仲間の気前のよさ、または生活環境の豊かさからの財産
132:5.10 8. 盗みによる富—不当、不正直、窃盗、または詐欺により取得された財産
132:5.11 9. 信託資金—現在または将来何らかの特定の使用のために仲間によって託された財産
132:5.12 10. 報酬による富—自身の直接の労働から得た財産、心身での日々の尽力による正当な報酬。
132:5.13 そこで友よ、神の前で、そして人に貢献して莫大な財産の誠実で正当な執事でありたいならば、自分の富を大まかにこの10の主要な部門に分割せねばならず、次に、正義、公平さ、公正、および真の実効における賢明で正当な法の解釈に従って、各部分の管理に着手せよ。たとえ、時おり間違えたとしても、天の神は、君を咎めはしないであろうし、疑わしい状況においては、人生の不幸な情況で苦しむ犠牲者の苦悩への慈悲深くて寡欲な思いやりの側に立たれるであろう。物質的状況の公平さと正義にあからさまな疑いがある際は、必要としている者に、受けるに値いしない艱難の不運に苦しむ者に目をかけなさい。」
132:5.14 数時間にわたりこれらの事柄を論議した後、イエスは、さらに詳細な指示を求める富豪の要求に応じて詳しく忠告を拡大し続けた。その要旨は、「富に対する君の態度に関して更なる提案を提供する傍ら、私の助言が、君と君の個人的な指導のためにだけ与えられたものとして受け取るよう諌める。探求心旺盛の友人としての君と自分にだけ話す。他の富める者がその富をいかように考えるべきか、君が独裁者とならないことを厳命する。君に助言しよう。
132:5.15 1. 相続による富の執事として、その出所を考慮すべきである。現世代の恩恵のために公正な代価を差し引いた後、君は、続く世代への正統の富の正直な移行において過去の世代を代表するという道徳的責任の下にいる。しかし、先祖による富の不正な蓄積に関係するいかなる不正も恒久化させる義務はない。相続した富のいかなる部分といえども詐欺や不正によるものと判明したとき、自己の正義、寛大さ、賠償への信念に従い払い戻しをしてもよい。正当に引き継いだ富の残りは、公明正大に使ってもよいし、安全に世代から世代への受託人として移行してもよい。賢明な識別と適正な判断で、後継者に対する富の遺贈物に関する君の決定を書き記すべきである。
132:5.16 2. 発見の結果としての富を享楽する者は誰であろうとも、1個人は、地球に短期間だけ住むことができるのだということを心すべきである。それ故、あらん限りの同胞の最大数の可能性によるこの発見の共有のための適切な準備をするべきである。発見者は、発見の努力に対し、すべての報酬が否定されるべきではないが、蔵匿された自然資源の発見から得たすべての利点と天恵を身勝手に主張しようとつけこむべきでもない。
132:5.17 3. 人間が、貿易や物々交換により世界で事業を行うことを選ぶ限り、公明正大で合法の利益を得る資格がある。すべての商人が、その活動に対する賃金の受け取りに値する。商人は、その手間賃を受ける権利がある。世界の組織化された経済活動における貿易の公正さと仲間へのそれ相応の正直な扱いは、異なる多くの種類の富の利益を生み出し、これらのすべての富の源が、正義、清廉、公正さの最も高い原則に基づいて判断されなければならない。清廉な商人は、同様の取り引きで相手業者に喜んで供与するのと同じ利益を取るのをためらうべきでない。商取り引きが大規模に行われるとき、この種の富は、個々に稼いだ収入とは同じではないが、同時に、そのような正直に蓄積された富は、その後にくる富の分配の際、その所有者に相当の分け前分の発言力を与える。
132:5.18 4. 神を知り、神性の意志を為そうとする人間は、富の抑圧に身を屈して従事することはできない。気高い者は、生身の同胞を奴隷状態、または不当な搾取によって富を蓄積したり、富による権力を築いたりしないであろう。富は、圧迫された人間の汗に由来するとき、道徳的な呪詛であり、精神的恥辱である。そのような富のすべては、このようにして、強奪されたそれらの者へ、または、それ等の子へ、それ等の子の子へと還元されるべきである。永続する文明は、労働者の手間賃を騙し取る実践に基づいて築きあげることはできない。
132:5.19 5. 清廉な富は、利息を得る資格がある。人が貸借する限り、貸した元金が合法な富であるならば、正当な利息の回収が許される。利息の要求以前に、まず自分の元金を浄化せよ。暴利の営業に身を落とすほど狭量になったり、欲深くなってはいけない。奮闘している仲間に対し、不正に有利な立場をとるような金力を用いるほどに決して利己的になってはいけない。財政的困窮にいる兄弟から高利を取るような誘惑に負けてはいけない。
132:5.20 6. 才能の飛躍により富を手に入れるようなことがあるならば、つまり財産が独創的な資質からくるものであれば、そのような報酬の不当な分け前を主張してはならない。才能は、何かをその先祖と子孫双方に負っているのである。それは、自分が働き、発見を成し遂げたのは、人々の間にあって普通の人間としてであるということにも、それは、気づくべきである。才能から富のすべての増加分を奪うことは、等しく不当であろう。人間が富の公正分配に関するこのすべての問題に原則や規定を確立することは、到底不可能であろう。まず君は、人を自分の兄弟であると気づかねばならない。そして、人に施すであろうことを、君がして欲しいと正直に望むならば、正義、清廉、公正の平凡な命令は、経済報酬と社会正義のあらゆる再発問題の正当で公平な解決に君を導くであろう。
132:5.21 7. 運用で得られる正当かつ合法の報酬を除いては、誰も時間と機会がもたらす富に対する所有権を主張すべきではない。偶然の富は、人の社会的、もしくは経済集団の利益のために費やされる信託のように見なされるべきである。そのような富の持ち主は、そのような不労による資産の賢明かつ有効な分配の決断において主要な発言権が与えられるべきである。文明人は、必ずしもすべてを直接かつ私的所有物として支配すると見ているというわけではない。
132:5.22 8. 財産のいずれかの部分が故意に詐欺によって得られたとしたならば、富の何にせよ不正直な実践か不公平な手段によって蓄積されたとしたら、富が、仲間との不当な商取引の結果であるとしたら、これらのすべての不正な利得を然るべき所有者に即座に還元せよ。完全な代償をし、こうして、すべての不正直な富を浄化しなさい。
132:5.23 9. 他者の利益のための1個人の富の信託職務は、厳粛かつ神聖な責務である。そのような信託で危険を犯したり、またそれを危険にさらしてはいけない。すべての正直な人間が認めるもののみを信託から自分のものとしなさい。
132:5.24 10. 自身の精神的、かつ肉体的努力—その仕事が公平と公正さで行われてきたのであるならば—からくる報酬を代表する財産のその部分は、本当に、君自身のものである。もしこの権利の行使が他の人間へ害を及ぼさないと君が思うなら、誰もそのような富を保持し、使用する君の権利を否定することはできない。」
132:5.25 イエスが助言を終えたとき、この裕福なローマ人は、長椅子から立ち、その夜の別れを告げるに当たり、このような約束をした。「良き友よ、あなたは、すばらしい知恵と善の人だと見受けます。だから、私は、明日、助言に従って私のすべての富の管理を始めます。」
132:6.1 ここローマでも、宇宙の創造者が、迷い子を案じる母親の元に連れ帰るのに数時間を費やすという感動的な事件が、起きた。この男の子は、家から遠くさ迷い歩いており、困って泣いているのをイエスが見つけた。ガニドと図書館に行く途中であったが、二人は、その子供を家に連れ帰ることに専念した。ガニドは、イエスの評言を決して忘れなかった。「ガニドよ、大方の人間は、迷い子のようなものだ。ちょうどこの子供が、家からほんの少しのところにいる時のように、人は、実のところ、安全と保護からほんの短い距離に居る時、恐怖に泣き、悲しみに苦しむことに多くの時間を費やすのである。そして、真実の道を知り、神を知ることの確信を楽しむそれら全ての者達は、生活の満足感を見つける努力において仲間に指導を提供することを義務ではなく、特権であることを尊重すべきである。我々は、子供をその母に連れ戻るこの奉仕をこの上なく楽しまなかったか。同じように、人を神に導く者は、人間の奉仕の最高の満足を経験し、楽しむのである。」その日以後の余生を、ガニドは、家に帰せるかもしれない迷い子等の見張りをずっとしたのであった。
132:6.2 夫が期せずして死んだ5人の子持ちの未亡人がいた。イエスは、事故で父を失ったことをガニドに話し、ガニドが、食物と衣類を提供するために父親に金を求める一方、二人は、何遍もこの母と子供を慰めに行った。二人は、最年長の少年が家族の世話の手伝いができるような働き口を見つけるまで努力をやめなかった。
132:6.3 その夜、これらの経験談を聞き、ゴノドは、愛想よくイエスに言った。「私の方は、息子を学者か実業家にするつもりですが、あなたの方は、哲学者か博愛家の育成にと取り掛かるのですね。」そこで、イエスは、微笑みながら返答した。「恐らく、我々は、その4通りに仕立て上げるだろう。そうすれば、かれは、人生において4倍の満足感を味わうことができる。人間の美しい音調を聞き分ける耳で1つの代わりに4つの音色を聴くことができるではないか。」その時、ゴノドが言った。「あなたは、本当に哲学者であると認めます。未来の世代のために本を書かなければなりません。」そこでイエスが答えた。「本ではない—私の使命はこの世代、そして全世代のために人生を送ることである。私は、、、。」しかし、かれは中止した。「息子よ、もう就寝の時間である。」とガニドに言って。
132:7.1 イエス、ゴノド、ガナドは、ローマから周辺領域内の興味ある地点へと遠く離れて5度旅をした。北イタリアの湖への訪問の際、イエスは、神を知ることを望んでいない者に神について教えることは無理であることに関してガニドと長く話した。湖までの旅の最中、たまたま考えの足りない異教徒に出会い、イエスが、その男を自然に精霊的な問いかけの議論へと導く会話につかせる慣例に従わなかったことに、ガニドは驚いた。なぜこの異教徒へそれほどまでに小さい関心しか示さないかを師に尋ねると、イエスが答えた。
132:7.2 「ガニド、あの男は真実に飢えていなかった。自分自身に不満ではなかった。助けを求める用意ができていなかったし、心の目は、魂のための光を受けるために開いてはいなかった。あの男には救済の収穫のための機が熟していなかった。かれは、 人生の試練と困難に備えるための叡知とより高い学問の受け入れに準備するためのより多くの時間を必要としている。または、我々と同居させることができるならば、我々の人生を通じて彼に天国の父を見せることができるかもしれないし、その結果、かれは、我々の父について質すことを余儀なくされるほどに、神の息子として生きる我々に引きつけられるようになるであろう。神を捜し求めない者に神を示すことはできない。気のすすまない者達を救済の喜びに導くことはできない。人は、生活経験の結果として真実に飢えるようにならなければならない、または別の人間がそのような仲間を天の父へと導く手段として行動する前に、神性の父と知り合っている者達の人生との接触の結果として神を知りたいと望まなければならない。神を知っているならば、地上での我々の真の本務は、父が彼そのものの明示を可能にさせるほどに生きることである。このようにして、すべての神を探して求めている者は、父を目にし、また我々の人生でこのような振舞の神についてさらに探し当てようとするに当たり我々の助力を求めるであろう。」
132:7.3 イエスが、まる一日、父と息子の両者と仏教について話をしたのは、スイスへの旅の山中でのことであった。ガニドは、イエスに何回も仏陀に関する率直な質問をしたのだが、いつもやや回避的な回答しか得られなかった。今度は、父が、イエスに息子の面前で仏陀に関する直接の質問をし、率直な回答を得た。ゴノドが言った。「あなたが仏陀について知っていることを本当に知りたいのです。」そこで、イエスが答えた。
132:7.4 「君の仏陀は、君の仏教よりもはるかに勝っていた。仏陀は、偉人で、その人民にとって予言者でさえあったが、彼は親のない予言者であった。私が意味するところは、かれは、早くに精霊の父、天の父を見失った、ということである。彼の経験は痛ましかった。かれは、神なしで、神の使者として生き、教えようとした。仏陀は、救済の船を安全な港の間近まで、人間救済の安息地の入り口の間近まで誘導した。そして、そこで、不完全な航行図のせいで、良い船は座礁した。そこで、これらの多くの世代が、静止し、ほぼ絶望的に足止めされたままでいる。君の民族の多くが、幾星霜もの間、その上に留まっていることよ。休息の安全水域の声の届く範囲内に生きてはいるが、良い仏陀の高貴な船が港のすぐ外で坐礁の不運に遭ったので、彼らは、入るのを拒否している。そして仏教徒等は、予言者の哲学的技巧を放棄し、高貴な精神を掌握しない限り、この港に決して入らないであろう。君の民族が、仏陀の精神に忠実であり続けていたならば、君は、ずっと以前に精霊の平静、魂の休息、救済の保証の港に入っていたことであろうに。
132:7.5 いいか、ゴノド、仏陀は、精霊では神を知っていたが、心での発見では明確に失敗をした。ユダヤ人は心で神を発見したが、精霊ではあまり知らなかった。今日、仏教徒は、神なしに哲学でもがいており、これに反し我が民族は、人生と自由の救済哲学なしに痛ましいほどに神への怖れの俘となっている。君には神なしで哲学がある。ユダヤ人には神がいるが、神に関係づけられた生きるための哲学なしでいる。精霊として、父としての神の想像に失敗し、仏陀は、自身の教えにおいて、民族を変え、国を高めるつもりならば宗教が保持しなければならないところの道徳的な活力と精霊的な機動力の提供に失敗した。
132:7.6 その時ガニドが、強調して言った。「先生、あなたと私とで新しい宗教を作りましょう。インドにとって充分に立派なもの、ローマにとって充分に大きいもの、そうすれば、おそらくユダヤ人のヤハウェと交代できるかもしれない。」そこで、イエスが返答した。「ガニド、宗教というものは作られない。人の宗教は、長い期間にわたり発展するが、神の顕示は、仲間へ神を明らかにする人間の生活において地球を瞬間的に照らし出す。」しかし、彼らは、この予言的な言葉の意味を理解しなかった。
132:7.7 その夜、退座した後、ガニドは眠ることができなかった。長い間父と話してようやく言った。「だから、父上、私は、時々ジャシュアが予言者だと思います。」そこで父は、「息子よ、他にもいるよ。」と眠たげに答えるだけであった。
132:7.8 この日以来、ガニドは、余生を自身の宗教を発展させ続けた。かれは、イエスの寛大さ、公正さ、忍耐に甚だしく感動した。哲学と宗教のすべての議論において、この若者は、憤りの感情、若しくは敵意の反応など決して経験しなかった。
132:7.9 宇宙の創造者に新興宗教を提唱しているインドの若者のこの光景を目にすることは、天の智者達にとっては何という光景であることか。そして、青年はそれを知らなかったのだが、彼らは、直ぐにその場で新たで、永遠の宗教—救済のこの新しい方法、イエスを通しての、またイエスの中の神の顕示—を作っていたのであった。若者が最もしたかった事を実際には無意識のうちにしていたということ。そして、それは、これまでにそうであったし、その結果、現在、未来もそうである。精霊的な教えと、心から、また非利己的に先導したり、そうあることを啓発する人間の想像力は、父の意志を神のように行う人間の献身度合に従い、はっきりと創造的になる。人が神と協力して行くとき、すばらしいことが起こるかもしれないし、起こるのである。