133:0.1 ローマを去る準備をしているとき、イエスは友人の誰にも別れを告げなかった。ダマスカスの筆記者は、前触れなしにローマに現れ、同様に姿を消した。彼を知り愛していた人々が、再び彼に会う望みを諦めるまでには、まる1年かかった。2年目が終わる前、彼を知る小集団は、イエスの教えの共通の関心事と彼との楽しい時代の思い出を仲立ちとして互いに惹かれていることに気づいた。そして、ストア派、キニク派、密儀主義の小集団は、これらの不規則で非公式の会合をキリスト教の最初の伝道者がローマに出現する直前まで持ち続けた。
133:0.2 ゴノドとガニドは、タレンツムへの荷車ですべての所有物を送るほどに、アレキサンドリアとローマで多量に物品を購入し、一方3人の旅行者は、ゆっくりとイタリア中を歩き、大きなアッピア街道へと歩いた。この旅行で、彼らは、いろいろな人間に遭遇した。多くの高貴なローマ市民とギリシアの移住民が、この道路に沿いに住んでいたが、相当数の下位の奴隷の子孫が、すでに出現し始めていた。
133:0.3 ある日、昼食で休息している間、タレンツムへの半道ほどで、ガニドは、インドのカースト制度に関するイエスの考えをじかに質問した。イエスは言った。「人間は、各々が、あらゆる点において異なるが、神の前と精霊界では、すべての死すべき者は、相等しい基盤に立っている。神の目には人間の2つの集団しかない。彼の意志を為すことを望む者とそうでない者達と。宇宙が、棲息界に注目するとき、2つの立派な階級についても同様に明察する。神を知る者とそうでない者と。神を知ることができない者は、いかなる領域の動物の中にでも、動物の一人とみなされる。人類は、物理的、精神的、社会的、職業的、道徳的に見られる異なる能力に応じて適切に多くのまとまりに分割ができる。それらは、、しかし、人間のこの異なる種類が、神の審判の法廷に現れるとき、彼らは、相等しい基盤に立つ。神は本当に人々を差別しない。知的、社会的、道徳的事柄において他と異なる人間の能力と天与の才能の認識から逃がれることはできないが、神の前で崇拝のために集まるとき、人間の精霊的なきょうだい関係をそのように区別をすべきではない。」[1]
133:1.1 ある日の午後、彼らがタレンツムに近づいたとき、非常におもしろい事件が路傍で起きた。乱暴で弱いもの苛めの少年が、残酷にも小さい少年を攻撃しているのを目撃した。イエスは、襲われた少年の助太刀へと急いだ。彼を救ったとき、イエスは、小さい方が逃げるまで攻撃した者をしっかり掴んでいた。イエスが小さい弱い者いじめを放した瞬間、ガニドは、少年に飛びかかり、したたかに打ちすえ始めた。ガニドが驚いたことに、イエスは、即座に妨害した。ガニドを押しとどめ、怯えている少年を逃した後に、青年は、楽に息ができるようになるや否や、興奮して言った。「理解できません、先生。慈悲が、小さい方の少年を救うことを義務づけるならば、正義は、悪さをしている大きい方の少年を罰することを要求してはいませんか。」答えてイエスが言った。
133:1.2 「ガニド、理解できないということは本当であろう。慈悲の奉仕活動は、つねに個人の働き掛けであるが、正義の懲罰は、社会的、政の、または宇宙管理集団の機能である。個人として、私は慈悲を示す恩義がある。私は襲われた少年の救出に行かなければならないし、一貫して攻撃者を抑止するに足る力を行使できるかもしれない。そして、私がしたことは、まさにそれである。私は襲われた若者の救出を成し遂げた。それは、慈悲行為の仕上げであった。それから私は、揉め事に弱い方が逃げるに足りる間、強制的に攻撃者を留めおいた。私は、その後で事件から退いた。私は、攻撃者を裁く役にまわらず、このように彼の動機を審判すること—仲間への攻撃に至ったことすべてに判決を下すこと—そして、彼の悪行に対する償いとして私の心が命じるかもしれない程度の懲罰を実行することを引き受けなかった。ガニド、慈悲は気前がよいかもしれないが、正義は正確である。君は、二人の人間が適法の要請を満たす懲罰に同意しそうにはないということが認識できないのか。むち打ちを、1人は40 回、別の者は20 回を課し、また他の者は正当な罰として独房監禁を勧めるであろう。この世界でそのような責任は、集団に任されるか、集団の選ばれた代表に与えられるほうが良いと見ることはできないか。宇宙では、判断は、すべての悪行ならびにその動機づけの前例を完全に知っている者に帰属する。文明社会や組織化された宇宙では、裁判は、公平な判断の結果として生じる公正な判決を言い渡すことを前提とし、そして、そのような特権は、世界の司法集団と、全創造の、より上の宇宙の全てを知る管理者達に授けられる。」
133:1.3 彼らは、慈悲の顕現と処罰の問題に関して何日も話した。そしてガニドは、少なくともある程度は、イエスがなぜ個人の格闘に従事しないかを理解した。しかし、ガニドは、1つの最後の質問をし、それに対する完全に満足できる答えは決して受けることはなかった。そして、その質問は次の通りであった。「でも先生、より強く、怒りっぽい者が襲いかかり、あなたを滅ぼすと脅かしたならば、どうされますか。防御のためのなんの努力もしないのですか。」楽園の父の愛が宇宙を見物中の例証として彼(イエス)が地球に住んでいるということをガニドに明らかにすることを望まないことから、イエスは、完全にしかも満足のいくように若者の質問に答えることができなかったが、これだけは言った。
133:1.4 「ガニド、この問題の一部がいかにお前を当惑させるかについてよく理解できる、そこで、その質問に答える努力をするつもりである。まず最初に、私の身に起こるかもしれないすべての攻撃に関し、私は、攻撃者が神の息子—肉体をもつ我が弟—であるかどうかを判断するであろう。もしそのような者が、道徳的判断力と精霊的理性を保持していないと思うならば、私は、攻撃者への結果にかかわらず抵抗のために躊躇なく力の及ぶ限り我が身を守るであろう。しかし、自衛上とは言え、息子としての資格をもつ仲間をこのように強襲はしない。つまり、私は、私に対する襲撃に対する判断なしに前もって罰しはしない。私は、あらゆる可能な術策で、彼がそのような攻撃をしないように阻み、思いとどまらせ、またその打ち切りに失敗の際は、攻撃を和らげるための努力をするであろう。ガニド、私は、天の父の加護を絶対に信頼すしている。私は、天の父の意志をすることに捧げている。本当の害が私に及ぶとは思わない。敵が私に加えたいかもしれない何事によっても、私の畢生の仕事が危険にさらされ得るとは思わないし、我々の友人からは誓ってどんな暴力も加えられない。全宇宙が私に友好的である—この全能の真実を、私は、すべての外観にかかわらず、心からの信頼をもって信じている—まったく確信している。」
133:1.5 しかし、ガニドは、完全に満足したというわけではなかった。彼らは何度も、これらの問題について論議したし、イエスは、少年時代の経験を幾つか話し、そのうえ石工の息子ヤコブについても話した。ヤコブが自分をいかにイエス防御ために任じたかを知り、ガニドガ言った。「ああ、分かり始めました。まず第一に、いかなる常人も、あなたのように優しい人を攻撃したくはありません。そのような事をするほどに軽率であったとしても、ちょうどあなたが、だれか困っている人を見かける度に救出に行くように、あなたの援助に飛んで行く他の人間が近くにいることは、全くもって確かです。先生、心では、私は、同意見です。でも、頭では、私がヤコブであったなら、彼らが、あなたは自分を防御しないだろうと考えたから攻撃しようと思った無礼な奴を罰するのを、私は、やはり楽しんだろうと思います。あなたは、他のものを助け、苦難の仲間に貢献して多くの時間を費やしているので、人生の旅路においてかなり無事であると思います—そうですねえ、あなたを守る誰かが、たぶん常に身近にいるでしょう。」そこで、イエスが答えた。「その試練はまだ来ていない。ガニド、それに、その時がきたら、我々は、父の意志に従わねばならない。」そして、それが、若者が、自衛と無抵抗のこの難しい主題について師から引き出し得た全てであった。別の機会に、かれは、組織化された社会は、その正当な委任の遂行において、力の行使のあらゆる権利があるという意見をイエスから得た。
133:2.1 船着き場でゆっくりしている間、積荷を降ろすのを待っている間、旅行者等は、ある男がその妻を虐待しているのを見た。習慣通り、イエスは、攻撃を受けている人のために仲裁に入った。かれは、怒っている夫の後ろに歩み寄り、そっと肩を叩いて言った。「もしもし、少し内緒で話しをしてもよろしいか。」立腹している男は、そのような接近に困惑し、寸時の当惑の躊躇の後に吃って言った。「ええ、まあ、はい、何か用ですか。」イエスが彼を脇に導いて、言った。「友よ、私は、何かとんでもない事が君に起こったに違いないと見てとる。それほどまでの強者が、自分の子供の母である妻を、こともあろうに、ここで、皆の目前で攻撃する何事があったのかぜひとも教えてもらいたい。この攻撃に何らかの正当な理由が君にはあるはずだと確信する。あの女は、夫からのそのような扱いを受けるに値する何をしたのか。よく見ると、君は慈悲を示すという願望まではいかないが、私は、君の顔に正義への愛が見えていると思う。道ばたで強盗に攻撃される私を見つけたならば、君は、躊躇なく救出に突進してくるであろうと、私は、はばかりながら言おう。君は、人生でそのような多くの勇敢なことをしてきたと敢えて言う。さて、友よ、どうしたのか言ってくれ。女が何か不都合をしたのか、あるいは、君が愚かにも取り乱し、軽率に女を襲ったのか。」この男の心を打ったのは、イエスが言った言葉そのものではなく、イエスの所見の締めくくりの際に、彼に与えた親切な表情と同情的な微笑みであった。男は言った。「あなたは、キニクの僧であるとお見受けします。そして、私を引き止めてくれたことに感謝します。家内がとんでもない不都合をした訳ではありません。良い女でありますが、私は人前で私の粗探しをする態度に苛立ち、かっとなるのです。自分の自制の無さを残念に思います。また、何年か前により良い道を教えてくれたあなたの兄弟の一人にした誓いに従って行動するよう努めると約束します。きっと約束します。」
133:2.2 そこで、別れを告げるに当たり、イエスが言った。「兄弟よ、女性が喜んで、しかも自発的にそのような権限を与えない限り、男性には女性に対して如何なる権限もないということを常に覚えていなさい。君の妻は、生涯を通して、君の人生の闘いに助太刀し、子を生み育てる負担のはるかに大きな一端を担うと決めていた。だから、子供を身篭もり、生み、保育しなければならない配偶者としての女性に、男性が、この特別な奉仕のお返しとして、与えることのできるその特別な保護を女性が受けるということは公平であるというほかない。男性が妻子に進んで与える情愛深い世話や思い遣りは、その男性の創造的かつ精霊的な自意識のより高い段階への到達の尺度である。君は、男女は、不滅の魂の可能性を所有するように成長する存在体をつくり出す点において神との共同者であるということを知っているか。天の父は、宇宙の子等の聖霊なる母を自分と等しいものとみなしている。君の子供たちの人生において自分達を再生させるという精霊の経験を本当に完全に共有する母でもある伴侶と君の人生とそれに関連するすべてを同等の条件で分け合うことは、神のようである。神が君を愛するように、君が子供たちを愛することができさえすれば、天の父が無限なる聖霊、つまり広大な宇宙のすべての精霊の子供の母を大いに敬い、高めるように、君も妻を愛し、大切にするであろう。」
133:2.3 船に乗り込むと、彼等は、無言で抱き合って立っている涙の目をした夫婦を振り返った。イエスの男への言い置きの後半を耳にしたゴノドは、一日中それについての思索にふけった。そして、インドに帰国したとき、かれは、自分の家庭の変革を決意した。
133:2.4 ニコーポリスへの旅は快いものであったが、風の具合いが思わしくなく、遅速であった。3人は、ローマでの経験を語り、また、最初にエルサレムで会ってからその身に起きたすべての追憶にふけり、多くの時間を過ごした。ガニドは、個人的な奉仕活動の精神に染まるようになっていた。かれは、船の執事に接近し始めたが、2日目、宗教の水の苦境に陥ると、ジャシュアに助けを求めた。
133:2.5 彼等は、オーグストゥスが、戦さの前に軍隊と野営をした土地であるこの場所にアクティオンの戦いを記念して「勝利の都」としておよそ50 年前に設立した都市ニコーポリスにおいて数日を過ごした。彼等は、船舶で出会ったユダヤ信仰のギリシア人改宗者ジャラミーの家に泊まった。使徒パウロは、3度目の伝道の旅の途中、同じ家で冬の間ずっとジャラミーの息子と過ごした。彼らは、ニコーポリスからローマのアハイア州の首都であるコーリントスへと同じ船で航海をした。[2]
133:3.1 彼らがコーリントスに達する頃には、ガニドは、ユダヤ人の宗教にたいへん関心をもつようになっていたことから、ある日、彼らがユダヤの礼拝堂を通りかかったとき、人々が入っていくのを見て、彼がイエスに礼拝に連れていくように頼んでも不思議ではなかった。当日、彼らは、博識のラビの「イスラエルの運命」についての講話を聞き、礼拝の後、この礼拝堂の統治者の長であるクリスポスに会った。彼らは何度となく礼拝に行ったが、主な狙いは、クリスポスに会うことであった。ガニドは、クリスポス、その妻、それと5人の子供がとても好きになった。かれは、ユダヤ人がどう家族生活を送るかを観測することをとても楽しんだ。[3]
133:3.2 ガニドが家庭生活を学んでいる間、イエスは、より良い宗教生活の道をクリスポスに教えていた。イエスは、この前向きなユダヤ人と20 回以上の学習の機会をもった。何年も後に、パウロがまさにこの礼拝堂で説教していた時、ユダヤ人がパウロの趣意を拒絶し、礼拝堂でさらに説教することを禁止ずることを票決した時、そして、パウロが非ユダヤ人のところへ行った時、クリスポスと全家族は、その新宗教を迎え入れたということ、また、クリスポスは、パウロが後にコーリントスで組織化したキリスト教の主だった擁立者のうちの1人になったということは、驚きに当たらない。
133:3.3 コーリントスで説教した18カ月間、シーラスとティモセオスが後に加わり、パウロは、「インド商人の息子のユダヤ人家庭教師」に教えを受けた他の多くの者に会った。[4]
133:3.4 コーリントスで、彼らは、3大陸からのあらゆる民族の人々に出会った。アレキサンドリアとローマに次いで、それは、地中海帝国の最も世界的な都市であった。この都市には人の注意を引きつける多くのものがあり、ガニドは、海抜およそ600メートルに立つ要塞を訪ねることに決して飽きなかった。かれは、礼拝堂の周辺とクリスポスの家でも多くの余暇を過ごした。かれは、ユダヤ人の家庭での女性の立場に最初は驚かされたが、のちには魅了された。それは、この若いインド人には意外なことであった。
133:3.5 イエスとガニドは、しばしば別のユダヤ人の敬虔な商人ジュースツスの家の客人となった。その者は、ユダヤの礼拝堂のそばに住んでいた。後に、しばしば使徒パウロは、この家に滞在したとき、インドの若者とユダヤ人の家庭教師とにかかわるこれらの訪問の詳しい話を何回となく聞いたとき、同時にパウロとジュースツス双方ともに、そのような賢明で才気あふれるヘブライ人教師が一体どうなったのか不思議に思った。[5]
133:3.6 ローマでガニドは、イエスが彼等とともに公衆浴場に行くことを拒否するのに気がついた。青年は、何度かその後、男女関係のイエスの言及を引き出そうと更に試みた。若者の質問に答えはするものの、かれは、決してこの問題を長々と検討する気はなさそうであった。ある晩、コーリントス外辺の海へと続く要塞の壁の近くを逍遥していると、二人は、娼婦二人に話しかけられた。ガニドは、イエスが、高い理想の男性であるということ、また、汚れや悪を味わったものと共にすることを嫌悪するという考えを、正しく吸収していた。従って、かれは、これらの女性にきつく口をきき、立ち退くように粗雑に合図した。これを見て、イエスが言った。「君はよかれと思ってしているが、たまたま間違いを犯している子供等であるといえども、神の子に向かってそのように話すべきだと思ってはならない。これらの女性に裁きを下す我々は一体何者であるのか。彼女らが暮らしを立てているそのような方法に向かわせた事情のすべてを知っているのか。これらの問題について話す間、私とここに居なさい。」娼婦等は、ガニドに言われたことよりもイエスの言ったことに驚いた。
133:3.7 皆が月明かりの中でそこに立ったとき、イエスは、続けて言った。「人間の心の中には天の父の贈り物である神精が宿っている。この良い精霊は、我々を神にずっと導く、つまり神を見つけ神を知る手伝いに努めている。しかし、人間の中には、創造主が個人とその民族の幸福を促進するために与えた自然の肉体的な傾向も多くある。さて、しばしば、男女は、自分自身を理解する努力において、また大幅に利己主義と罪が支配する世界での生計を立てるための多種多様の困難と格闘することにおいて混乱する。ガニド、私には、これらの女性のどちらも望んで邪であるとは見えない。彼女らは、多くの不幸を味わったと言うことが顔で分かる。二人は、明らかに残酷な運命の手にかかり、非常に苦しんできた。故意にこの類の人生を選びはしなかった。彼女らは、まったく絶望的に、時間の圧力に降伏し、絶望的に見えた状況から抜け出る最良の道として生計を得るためにこの不愉快な方法を受け入れた。ガニド、一部の人間の心は本当に邪悪である。かれらは、故意に卑しいことをすることを選ぶが、言ってみなさい、涙に濡れたこれらの顔を覗き込んで何か不愉快なものや邪悪なものが見えるか。」そこでイエスが返答を待っていると、吃って答えるガニドの声は、詰まっていた。「いいえ、先生、見えません。だから、私の無礼を二人に謝ります。二人の許しを懇願します。」その時、イエスが言った。「私は、天の父がすでに二人を許したということを代弁すると同時に、また二人がすでに君を許しているということを二人に代わって伝える。さあ、みんな、私の友人の家に一緒に行き、そこで軽い食事を求めて、そして新しく、より良い将来の人生計画を立てよう。」この時まで、驚く女達は、一言も声を発っしなかった。二人は、互いに見合い、案内する男達の後に黙って続いた。
133:3.8 そんなに遅い時刻に、イエスがガニドと二人の見知らぬ者と現れ、こう言った時のジュースツスの妻の驚きを想像して見よ。「こんな時間に来る我々を許してくれるでしょうが、ガニドと私は、軽い食事がしたいし、これらの私達の新たな友達と分け合いたいし、二人もまた栄養を必要としている。 また、こういうことの他に二人の女性の人生の再出発の手助けの最善の方法について、あなたが、我々二人と一緒に助言することに関心をもつだろうという考えで来たのでもある。女性たちは、事情を話すことができるが、多くの苦労をしたと私は推測しているし、また、あなたの家、ここに二人が直接現れたこと自体、彼女等が、いかほどまでにひたすらに善良な人々を知りたいと切望しているかを証明しているし、また、二人が誠に健気で高潔な女性になり得るかをいかに喜んで全世界—天の天使さえ—に示す好機を迎え入れることであろう。」
133:3.9 ジュースツスの妻マールタが、食物を配膳し終えると、イエスは、不意の暇乞いをしながら言った。「遅くなって来たし、この青年の父が我々を待ち受けていることでもあるので、あなた方—3人の女性達—いと高きものの愛し子達をここに残し、我々二人は失礼させてもらう。君達が、地球での新たでより良い人生、また、はるか彼方での永遠の生活のための計画を立てる間、私の方は、君等の精霊の導きのために祈るつもりである。」
133:3.10 イエスとガニドは、このように女性等と別れた。2人の娼婦はずっと何も言わないままであった。同様に、ガニドも無言であった。その上、しばらくの間マールタもそうであった。が、ややあってマールタは、難局に対処し、この見知らぬ者のためにイエスが望んだ全てをした。2 人の女性のうちの年長者は、永遠の生存という明るい望みをもってその後間もなく死亡した。若い方の女性は、ジュースツスの職場で働き、後にはコーリントスで最初のキリスト教会の永久会員になった。
133:3.11 イエスとガニドは、クリスポスの家で、後にパウロの忠誠な支持者となったガイウスというものに幾度か会った。コーリントスでのこの2カ月間、彼等は、意味のある何十人もの個人との親密な会話をし、明らかにさり気ない全接触の結果、半分以上の非常に影響を受けた者達が、その後のキリスト教の共同体の一員となった。[6]
133:3.12 パウロは、コーリントスに最初に行ったとき、長逗留するつもりはなかった。しかし、かれは、ユダヤ人の家庭教師が、自分の仕事への道をいかによく準備していたかを知らなかった。さらに、かれは、すでに大きな関心が、アクヴィラとプリースキラにおきていたということが分かった。アクヴィラは、ローマでイエスが接触したキニク派の1人であった。この二人は、ローマからのユダヤ難民であり、パウロの教えを速く受け入れた。二人が天幕職人であったので、パウロは、両者と同居し、共に働いた。パウロがコーリントスでの滞在を長引かせたのは、こういった状況によるものであった。[7]
133:4.1 イエスとガニドは、コーリントスにおいてさらに多くの興味深い経験をした。二人は、イエスから受けた訓示から大いに利益を受けた相当数の人々と親しく話した。
133:4.2 かれは、人間の仲間の虚弱者や衰弱者でさえも神々しい人生の困難な事柄を容易に受け取ることができるように人生経験の製粉場で真実の穀物をすり砕くことに関して製粉業者に教えた。イエスは言った。「精霊的認識においては赤子である者達に真実の乳を与えよ。君の生きた情愛深い奉仕活動において、魅力的な形で、それぞれの尋問者の感受性の容量に合った精霊の糧を供給しなさい。」[8]
133:4.3 ローマの百人隊長に言った。「ケーサーのものはケーサーに返し、神のものは、神へ。」ケーサーが、神格のみが主張できるその敬意を大胆に横取りしようとしない限り、神への誠実な奉仕とケーサーへの忠勤は、衝突しない。神を知るようになるならば神への忠誠は、尊敬に値いする皇帝への君の献身をより忠誠に、より忠実にするであろう。」[9]
133:4.4 ミースラ信仰の熱心な指導者に言った。「君は、永遠の救済の宗教を確かに捜し求めているが、人為の神秘主義と人間の哲学の間でそのような栄光の真実の探索をするということは誤っている。永遠の救済の神秘は、君自身の魂の中に住んでいるということを知らないのか。天の神が君の中に住まうために彼の精霊を送ってきていること、またこの精霊が、全ての真実を愛する人間と神に仕える人間をこの世から死の入り口を通過し、神がその子等を待ち受ける永遠の光の高さまで引率していくということを知らないのか。そして、決して忘れれてはいけない。神のようになることを本当に願うならば、神を知る者は神の息子である。」[10]
133:4.5 かれは、エピクーロス派の教師に言った。「最良を選び、最善を尊ぶことを確かにしているが、人間の心の神の存在の認識に由来する精霊の領域に表現される人間の生活のよりすばらしいものを認めることができないとき、君は賢明であるのか。すべての人間の経験における素晴らしいものは、その精霊が君に内住し、我々の共通の父、全創造の神、宇宙の主の個人的な存在を達成するその長くてほとんど無限の旅において先へと導こうとしている神を知ることの実現である。」[11]
133:4.6 ギリシア人の契約者と建築業者に言った。「友よ、人間の物質の建築物を築くように、君の魂の中に神精に似たもので精霊的な特質を育てなさい。時間に生きる建築業者としての君の業績を天の王国の精霊の息子としての君の達成に優先させることのないように。他者のために時の世界の大邸宅を建設するが、君は、自分のための永遠の大邸宅への権利の確保を怠ってはならない。常に覚えていなさい。その地盤が正義と真実である都というものがあり、また、その建築者と建設者は、神であると。」[12]
133:4.7 ローマの裁判官に言った。「人を裁く際、きみ自身もいつの日か宇宙の支配者達の法廷に裁きを受けることを覚えておくように。正当に、慈悲深くさえ、裁きなさい。いつか、君も、このように最高調停者からの慈悲深い斟酌を同様に切望するであろう。同様の状況下で自らが裁かれたいと思うように、文字通りにでなく、法の精神によって手引きされて裁きなさい。そして、全ての地球の裁判官の前にいつか君が立つ時、君の前に引かれて来る者の必要の照らして公正さに支配される正義を与えるように、慈悲により和らげられる正義を期待する権利が、君にもあるであろう。」[13]
133:4.8 ギリシアの宿屋の女将に言った。「いと高きものの子供をもてなす者として君の親切なもてなしをしなさい。人々の心の中に住むために下ってきた神精が宿る人々の中の神に働きかけるという増加する体現を通して、日々の骨折り仕事を美術の高い段階へと高め、それによって、彼らの心を変えることを追い求め、神精が与えられたこれらのすべての贈り物の楽園の父に関する知識へと導くようにしなさい。」[14]
133:4.9 イエスは、ある中国商人を頻繁に訪ねた。別れ際に彼を諭した。「神を、君の真の精霊の先祖だけを、崇拝しなさい。父の精霊がいつも君に宿り常に魂の向きを天へ示すということを覚えていなさい。この不滅の精霊の無意識の導きに従うならば、神を見つける高められた道において前進し続けるのは確かである。そして君が天の父に達するとき、それは、神を探すことにより君がますます神に似てきたからであろう。では、チャン、元気で、だが、ほんの一時季だけ。なぜなら、我々は、父が楽園に向かう者のために多くの楽しい停止場所を設けている光の世界で再会するのであるから。[15]
133:4.10 イギリスからの旅人に言った。「兄弟よ、君は、真実を捜し求めていると見てとる。私は、すべての真実の父の霊が君の中に住むかもしれないと暗示する。かつて、君は、自身の魂の精霊と話すことを心から努力したか。そのようなことは、本当に難しく、成功の意識をあまり与えない。だが、内在する精霊と通じ合おうとする物質的な心のあらゆる地道な試みは、 確実な成功をもたらす。それでも、そのようなすべての壮大な人間の経験の大部分が、神を知るそのような人間の魂の中に意識を越えた記録として長く残らなければならない。」
133:4.11 家出少年に言った。「覚えていなさい、人には逃げ出すことのできない2 つのものがある—神と自分自身。どこへ行こうとも、自身と君の心の中に住む天の父の精霊とを連れている。息子よ、自身を騙そうとすることをやめなさい。落ち着いて人生の事実に直面する勇敢な実践を始めなさい。教えたように、神との関係における息子の資格の保証と永遠の命の確実性にしっかり掴まりなさい。この日から真の男、勇敢に、明敏に人生に直面すると決心をした男になることを目的としなさい。
133:4.12 最期の時間の死刑囚に言った。「兄弟よ、君は、悪の時代に当たってしまった。君は迷った。次第に犯罪の網に縺れた。君との話しから、君がその現世の命を犠牲にするつもりがなかったことがよく分かる。しかし、君は確かにこの悪を犯し、仲間は、有罪であると判決を下した。すなわち彼らは、君が死ぬべきだと評決した。君あるいは私は、その自己選択の方法において国のこの自衛権を否定できない。君の悪行の刑罰から人間的に逃がれる方法はなさそうである。仲間は君のしたことで君を判断せざるを得ないが、君が許しを懇願できる裁判官がおり、かれは、君の本当の動機とより良い意図によって君を裁くであろう。君の悔悟が本物であり、信仰が誠実であるならば、神の裁きに合うということを恐れる必要はない。人間によって君の誤りが死罪に値すると課せられた事実そのものは、天の法廷の前で、君の魂が正義を得て、慈悲を味わう機会に対して偏見をもつものではない。
133:4.13 イエスは、熱望する多くの人々との数多くの、この報告書に記すには多過ぎるほどの、個人的会談を楽しんだ。3人の旅行者は、コーリントスでの滞在を味わった。教育の中心地としてより有名であったアテネを除き、コーリントスは、これらのローマ時代を通してギリシアで最重要都市であり、この繁栄する商業の中心地での2カ月間の滞在は、3人全員に多くの貴重な経験をする機会を提供した。この都市での彼らの滞在は、ローマからの帰途のすべての停留において最も興味あるものの1つであった。
133:4.14 ゴノドは、コーリントスにかなりの興味があったが、仕事は遂に終了し、皆は、アテネに向けて出帆の準備をした。コーリントスの港の1つから陸路16キロメートルの距離の他所へ運ぶことのできる小型船で旅をした。
133:5.1 皆は、まもなくギリシアの科学と学習の昔の中心地に到着した。ガニドは、その境界を故郷のインドの地にまでも広げた嘗てのアレクサンドリア帝国の文化の中心地アテネにいるという考え、ギリシアにいるという考えに興奮していた。商取引は、ほとんどなかった。それでゴノドは、多くの興味ある場所を訪ねたり、若者と多才な師との間で交わされる興味深い議論を聞いたりして時間の大部分を二人と共に過ごした。
133:5.2 立派な大学はアテネにまだ発展しており、三人組は、頻繁にその講堂を訪れた。アレキサンドリアの博物館での講演に出席したとき、イエスとガニドは、プラトンの教えを徹底的に議論をしたことであった。皆は、ギリシアの芸術を楽しみ、その例は、まだこの都市周辺のあちこちで見つけられた。
133:5.3 父と息子の両者は、イエスが、ある晩彼等の宿でギリシア人の哲学者と科学について議論をしたのを大いに楽しんだ。この学者ぶる者がほぼ3 時間話した後、そして、彼が講和を終えたとき、現代の概念に置き換えて、次のようにイエスが言った。
133:5.4 科学者は、引力のエネルギー、または力の発現、光、および電気をいつか測定するかもしれないが、これらの同じ科学者は、これらの宇宙現象が何であるかを決して(科学的に)話すことができない。科学は、物理的エネルギー活動を取り扱う。宗教は、永遠の価値を取り扱う。真の哲学は、これらの量的、質的な観察を相関させるために最善をつくす知恵から起こる。純粋に物理的な科学者は、精霊的な盲目は言うまでもなく、数学上の自尊心と統計的自惚れに苦しめられるようになるかもしれないという危険が常に存在する。
133:5.5 論理は、物質界において妥当であり、その運用を物理的な事象に制限されるとき、数学は、頼りとなる。しかし、生活問題に適用される場合、双方ともに完全に信頼もできないし、絶対確実でもない。生活は、全く物質的でない現象を包含する。算術は、1 人の男が10 分で羊を刈ることができるとしたら、10 人の男だと1 分でそれを剪断することができると提示する。それは数学らしく響くが、真実ではない。なぜなら、10 人は、そうはできないからである。仕事が大いに遅れるほどにお互いが邪魔となるであろう。
133:5.6 数学は、1 人が知的で道徳的な1 単位の価値を表すならば、10 人が10 倍のこの価値を表すことを断言する。しかし、人間の人格を扱う際、そのような人格は、単純な算術合計よりむしろ方程式に関係がある人格の数の二乗と等しいという方が真実により近いであろう。連携した労働の協調のある人間の社会的集団は、その部分の単なる合計よりもはるかに大きい力を表す。
133:5.7 量は事実として確認されることができ、その結果、科学的な画一性となる。心の解釈の問題である質は、価値の見積りを表す。従って、個人の経験に留まらなければならない。科学と宗教の両方が、より独断的でなくなり、批判に対しより寛容になるとき、哲学は、明敏な宇宙の理解において統一を達し始めるであろう。
133:5.8 あなたが、その操作について実際に明察することさえできるならば、広大無辺の宇宙には統一がある。真の宇宙は、永遠なる神のあらゆる子供に好意的である。真の問題は、人の限られた心が、思考における論理の、真実の、照応する統一をどのように実現できるか、ということである。量的事実と質的価値は、楽園の父に共通の原因があるということを単に心に抱くだけで、心のこの宇宙を知る状態を持つことができる。現実のそのような概念は、宇宙現象の意味深い統一に対するより広い洞察をもたらす。それは、進歩的な人格到達への精霊的な目標を明らかにさえする。そして、これは、絶えず非個人的な関係を変え、個人的な関係を発展させる生きている宇宙の変らない背景を感じることができる統一の概念である。
133:5.9 それらに介在する物質、精霊、状態には、真の宇宙の真の統一における相互に結合し、関連する3段階がある。事実と価値の宇宙現象がどのように拡散的に見えるかにかかわらず、それらは、結局崇高なるものの中に統一される。
133:5.10 物質的存在の現実は、目に見える物質だけでなく、認識されないエネルギーにも付随する。宇宙のエネルギーが、非常に低下し、運動に必要な度合を獲得すると、次には好ましい状況下において、これらの同じエネルギーは質量となる。そして、忘れてはいけない。見た目の現実の存在を知覚できる心だけでも、それ自体本当である。そして、エネルギー-質量、心、精霊のこの宇宙の基本的な原因は、永遠である—それは、存在し、また宇宙なる父とその絶対的調整者の性質と反応にある。
133:5.11 彼等は全員、イエスの言葉に大変驚き、ギリシア人が皆に暇乞いをすると、イエスが、「ついに、私の目は、人種的な優越以外に何かを考え、宗教以外に何かを話すユダヤ人を見た。」と言った。そこで、かれらは就寝した。
133:5.12 アテネでの滞在は快く、有益であったが、それは、人間交流においては特に実りあるというものではなかった。ギリシアに栄光があり、その人民の心に叡知があった初期の下位の奴隷の子孫であったので、その時代のあまりに多くのアテネ人は、過去の彼らの評判を知的に誇りに思ったか、精神的に愚かで無知であった。その時でさえ、アテネの市民の間にはまだ多くの鋭敏な心の者がいた。
133:6.1 アテネを去るに当たり、旅人達は、ツロアス経由でアジアのローマ行政区の首都エペソスへ行った。彼らは、都からおよそ3キロメートルのエペソス人のアルテミスの有名な神殿を何度も訪れた。アルテミスは、全小アジアで最も有名な女神であり、古代のアナトリア時代のさらに以前の母神が永続化したものであった。彼女の崇拝の為に奉納された巨大な神殿に展示された粗末な偶像は、天から落下してきたと言われた。神性の象徴としての像を敬うガニドの以前の習慣が根絶されるというわけではなかったので、ガニドは、小アジアのこの豊饒と多産の女神に敬意を表し、小さい銀の社を購入するのが最善であると考えた。その夜、彼らは、人間の手で作られたものへの崇拝に関し長々と話した。
133:6.2 滞在の3日目、彼らは、港口の浚渫を観察するために川に沿ってを歩いた。正午に、皆は、里心を起こし、気落ちした若いフェニキア人と話した。かれは、自分を飛び越えての昇進をした特定の青年を、とりわけ妬んでいた。イエスは、元気づける言葉を伝え、昔のヘブライの諺を提示した。「人の贈り物は、その人の為に道を開き、偉人の前に彼を導く。」[16]
133:6.3 地中海のこの旅行で訪問した大都市訪問のうち、彼らは、キリスト教宣教師のその後の仕事にとって些細なことをここで達成した。キリスト教は、主にパウロの努力でエペソスにその発足を確実なものとした。パウロは、ここに2年以上住み、生計のために天幕を作り、毎晩ツランノスの学校の本講堂で宗教と哲学についての講義をしたのであった。[17]
133:6.4 この地元の哲学の流派に関係がある進歩的な思想家がおり、イエスは、この人物との何度かの有益な会談をした。イエスは、これらの会談において「魂」という言葉を繰り返し用いた。この学識あるギリシア人は、最後に「魂」の意味を問い、イエスが答えた。
133:6.5 「魂とは、人間を永々と動物世界の上の段階に高める自己反射的で、真実について洞察力のある魂を認識する人の部分である。自意識は、それ自体は、魂ではない。道徳的な自意識は、真の人間の自己実現であり、人間の魂の基礎を構成しており、そして魂は、人間の経験の潜在的生存価値を有する人のその部分である。道徳的な選択と精霊的な達成、神を知る能力と神に似ることへの衝動は、魂の特徴である。人の魂は、道徳的思考と精霊的活動から離れて存在することはできない。澱んだ魂は、死にかかっている魂である。しかし、人の魂は、心の中に住む神精とは全く別なものである。神精は、人間の心の最初の道徳的な活動と同時に到着し、それは、魂の誕生の時である。
133:6.6 魂の救済あるいは喪失は、道徳的な意識が、その関連する人間の精霊の贈与との永遠の同盟を通して生存状態に達するかどうかに関係する。救済は、道徳的な意識による自己実現の精霊化であり、その結果、生存価値を備えるようになる。魂対立のすべての形は、道徳的または、精霊的な自意識と、純粋に知的な自意識の間の不調和にある。
133:6.7 人間の魂は、熟し、高尚し、精霊化されるとき、それが物質的なものと精霊的なものの間、物質的な自己と神精の間にある実体に近づくという点において、天にいるような状態に到達する。物質的な調査法でも精霊的な立証法でも発見できないことから、人間の進化する魂は、描写が困難であり、立証するのはそれ以上に難しい。物質科学は、魂の存在を示すことができないし、純粋な精霊の吟味もできない。人間の魂存在の発見に関する物質科学と精霊標準の両方の失敗にもかかわらず、道徳的に意識的なあらゆる人間は、本当の、実際の個人的な経験として、自己の魂の存在を知っている。」
133:7.1 やがて旅人達は、ロードス島に止まり、キプロスに出帆した。彼らは、長い水路の旅を楽しみ、目的の島に到着し、身体を休め精力を回復した。
133:7.2 地中海の旅の終わりに近づいていたので、キプロスで本当の休息と遊戯の期間を楽しむことが、皆の計画であった。パポスに着陸し、近くの山での数週間の滞在に備えすぐに物資の収集に取り掛かった。到着後の3 日目、彼らは、荷を満載した動物達と丘を目指して出発した。
133:7.3 2 週間、三人組は大いに楽しんでいたが、何の徴候もなく、若いガニドが、いきなり、ひどい病気に掛かった。かれは、2 週間激しい熱に悩まされ、しばしば錯乱状態となった。イエスとゴノドの両者は、病の少年の付き添いで忙しくしていた。イエスは、巧みに、そして優しく若者の面倒をみた。父は、患っている青年に対するイエスのすべての奉仕に明らかにされる温厚さと熟練の様に驚嘆した。彼らは、住宅地からは遠くにいたし、少年は動くことができないほどの病気であった。従って、二人は、山中のその場所で健康を回復するためのできる限りの看病をした。
133:7.4 ガニドの3 週間の回復期間、イエスは、自然とその多様な情趣について多くの興味ある事柄を彼に話した。また、彼らは、山頂を歩き回り、少年が質問し、イエスがそれに答え、また傍らで父親が全体の成り行きに驚嘆し、彼らは、いかに楽しんだことであったか。
133:7.5 山に滞在の最後の週、イエスとガニドは、人間の心の機能について長らく話した。数時間の議論の後、若者は、この質問をした。「しかし、先生、人がより高等動物よりもより高度の自意識形態を経験するとは、どういうことですか。」そこで、現代の言い回しで、イエスが答えた。
133:7.6 息子よ、私は、すでに人の心とそこに住む神精に関する多くを教えたが、今は、自意識が現実のものであると強調させてくれ。どんな動物でも自意識するとき原始の人間となる。そのような達成は、非人間的なエネルギーと精霊を想い描く心の間での機能の調整から生じ、人間の人格のための絶対の焦点、すなわち天の父の精霊の授与を保証するのが、この現象である。
133:7.7 考えは、単に感覚に関する記録ではない。考えは、感覚と個人的な自己の反射的な解釈である。そして、自己とは、自身の感覚の集合体以上のものである。進化している自己における統一への接近の何かになることが始まり、その統一は、そのような自意識の強い動物起源の心を精霊的に活動させる完全統一の一部である内在するものに由来する。
133:7.8 単なる動物は、時間を通しての自意識を持つことができない。動物には、関連する感覚認識とその記憶の生理的な調整があるが、知的で反射的な人間の解釈の結論で表れるようには、動物は、意味のある感覚の認識を経験しなし、これらの結合した物理的経験の意味深い関係をも示さない。そして、彼のその後の精霊的な経験の現実に関連づけられる自意識の強い存在のこの事実は、人に宇宙の潜在的息子の素質を与え、宇宙の崇高なる統一の最終的な達成の前触れとなる。
133:7.9 また人間の自己性は、単に意識の連続状態の集合体でもない。効を奏する意識選別人や交友者の働きなくして、自己性の指定を保証するに足りる統一は存在しないであろう。そのような非統一の心は、人間の地位の意識段階にほとんど達することができないであろう。意識の関係がただ偶然であるならば、すべての人の心は、精神の狂気のある段階の抑制されない、無作為の関係を示すであろう。
133:7.10 ただ単に物理的感覚の意識から単独に確立される人間の心は、精霊的段階に決して達することができなかった。この種の物質的な心は、ある意味で全く道徳的価値を欠いており、時間内の調和した人格達成に不可欠であり、また永遠の人格生存に不可分である精霊優位の指針感覚なしでいるであろう。
133:7.11 人間の心は、早くに、超物質である性質を明らかにし始める。本当に熟考する人間の知性は、完全に時間の限界に縛られるというわけではない。その個人が人生の遂行において甚だ異なるということは、遺伝の様々な授与や環境の異なる影響だけでなく、自己が獲得した父の内在する精霊との統合の度合、一方と他方との結合の尺度をも暗示する。
133:7.12 人間の心は、二重の忠誠の対立にうまくは耐えられない。善と悪の両方に仕える努力の経験を経ることは、魂に対する厳しい重圧である。この上なく幸福で有効的に統一された心は、天の父の意志を為すことに完全に捧げられるものである。未解決の対立は、統一を破壊し、心の分裂で終わるかもしれない。しかし、魂の生存の資質は、どんな犠牲をはらっても心の平和を保証しようと試みることより、高潔な切望を諦めることにより、そして精霊の理想の妥協により促進はされない。むしろ、そのような平和は、真実である勝利に達するという確固たる主張により到達されるのであり、この勝利は、善の強大な力で悪に打ち勝って獲得されるのである。
133:7.13 彼らは、翌日サラミスに出発し、そこからシリア海岸のアンチオケに向かった。
133:8.1 アンチオケはシリアのローマ行政区の首都であり、ここには帝国の知事の住居があった。アンチオケには50万人の住民がいた。それは、帝国で3番目の人口規模であり、不正と極悪の不道徳に関しては最悪の都市であった。ゴノドには、扱うべきかなりの仕事があった。従って、イエスとガニドは、大方二人きりであった。彼らは、ダフネの林を除く、この多言語の街の周辺のすべてを訪れた。ゴノドとガニドは、この悪名高い恥ずべき神殿を訪れたが、イエスは、同行することを断った。そのような場面は、インド人にとりそれほど衝撃的ではなかったが、理想主義的なヘブライ人には反感を抱かせるものであった。
133:8.2 パレスチナに近づくにつれ、そして旅の終わりになるにつれ、イエスは、冷静にまた反映的になった。かれは、アンチオケではあまり人々と雑談しなかった。かれは滅多に街を歩き回らなかった。ガニドは、師がなぜアンチオケに対する関心を示さなかったのかという質問の後に、イエスからようやく次のような言葉を引き出した。「この都はパレスチナから遠くない。おそらく、いつか私はここに戻るつもりである。」
133:8.3 ガニドは、アンチオケで非常におもしろい経験をした。この青年は、自分自身が利発な生徒であることを証明して、既にイエスの教えのいくつかの実用化を始めた。アンチオケで父親の商売に関係し、解雇を考えるほど非常に不快で不満になったインド人がいた。ガニドがこれを聞いたとき、自ら父親の仕事場へ行き、この同国人と長い談合をした。この男は、場違いな仕事に就かされていたと感じていた。ガニドは、天の父について話し、様々な意味でこの人物の宗教の視点を広げた。しかし、ガニドが言った全ての中でも、ヘブライの諺の引用が最も効果を示した。そしてその知恵の言葉は、「手がすることを見つける何であろうと、全力でそれをせよ。」[18]
133:8.4 ラクダの隊商のために彼らの荷物を準備をすると、彼らは、さらにシドーンへ、そこからダマスカスまで進み、3日後には、砂漠を越える長い苦しい旅の用意をした。
133:9.1 砂漠横断の隊商の旅は、旅行経験豊富なこれらの男達にとり新体験ではなかった。ガニドは、師が20頭のラクダの積載を手伝うのを見て、また自分達の動物の扱いを申し出るのを見て、「先生、何かあなたができないというようなことがありますか。」と驚いて大声で言った。イエスは、微笑むだけであった。そして、「勤勉な生徒の目には師は確実に名誉である。」と言った。そして、 彼らは、古代のウルの都に向かった。
133:9.2 イエスは、アブラハムの出生地ウルの初期の歴史に非常に興味を持っており、同時にシューシャンの遺跡と伝統にも等しく魅了されていたので、ゴノドとガノドは、イエスが更に調査を行える時間を提供するために、また自分達と共にインドに戻るように彼を説得するさらに良い機会を得るために、これらの地域における滞在を3週間延ばした。[19][20]
133:9.3 ガニドが知識、知恵、真実の違いに関してイエスと長談義をしたのはウルであった。ガニドは、ヘブライ人の賢者の言葉に大いに魅了された。「知恵は、主要なものである。それ故、知恵を得よ。知識の探求でもって理解を得よ。知恵を高めよ。さすれば、それが人を押し進めるであろう。知恵を迎え入れれば、それが、人に名誉をもたらすであろう。」[21]
133:9.4 ついに、別れの日が来た。彼らは皆、特に若者は、勇敢であった。しかし、それは辛い試練であった。彼らは、涙ぐんだ目をしていたが、勇ましい心情であった。師に別れを述べる際、ガニドが言った。「さようなら、先生、でも永遠にではなく。再びダマスカスに来るとき、私は、あなたを探します。私はあなたを慕っています。なぜなら天国の父は、あなたに似ているに違いないと思いますので。少なくとも、あなたが神に言い及んできたことが、あなたによく似ているのが私には分かります。教えを覚えていますが、特に、あなたのことを決して忘れはしません。」父は、「我々をより良くし、神を知るのを助けてくれた方、偉大な先生、さようなら。」と言った。そして、イエスは、「君達に平和を。天の父の祝福あれ。」と返した。そして、イエスは、岸に立ち、碇泊している船に小舟が二人を乗せていくのを見た。このようにしてハラクスでインドの友から立ち去ったあるじは、この世で二度と彼等には決して会わなかった。二人の方も、後でナザレのイエスとして現れた男性が、たった今別れた自分達の師であるこの同じ友人であったと知ることは、この世では一度もなかった。
133:9.5 インドでは、ガニドは、影響力のある男性になるように、著名な父のふさわしい後継者になるように成長し、そして最愛の師イエスから学んだ気高い真実の多くを広めた。人生の後半で、ガニドが、十字架上に人生を終えたパレスチナの見知らぬ教師について聞いたとき、この人の息子に関する福音と自分のユダヤ人の家庭教師の教えとの類似点を認めはしたものの、この2人が実際に同じ人物であったとは決して思いつかなかった。
133:9.6 このように、師ジャシュアの使命と称されるかもしれない人の息子の人生における章を終える。