145:0.1 イエスと使徒は、1月13日火曜日の晩にカペルナムに到着した。いつも通り、かれらは、ベスサイダのゼベダイオスの家に自分達の本部を置いた。洗礼者のヨハネを死に追いやられたそのとき、イエスは、ガリラヤを皮切りに初の公開の説教のための旅行を始める準備をした。イエスが戻ったという便りは、急速に街中に広まり、翌日早々に、イエスの母マリアは、息子ヨセフを訪ねるためにナザレへと急いだ。[1]
145:0.2 イエスは、使徒に初めての大規模な公への説教旅行の準備を命じ、ゼベダイオス家で水曜日、木曜日、金曜日を過ごした。かれもまた、個人や団体の双方からくる多くの熱心な尋問者を迎えて、教えた。アンドレアスを通して、かれは、来たる安息日にユダヤの会堂で話す手配をした。
145:0.3 金曜日の夕方遅く、一番下の妹ルースが、イエスを秘かに訪問した。かれらは、岸近くに投錨された舟の中でおよそ1 時間共に過ごした。誰も、ジョン・ゼベダイオスを除いては、この訪問について知らなかっし、イエスは、他言しないよう彼を窘めた。ルースは、彼女の最も早期の精霊的意識の時代からイエスの多事多端の伝道、死、復活、昇天まで一貫して、また躊躇うことなく地球任務の神性を信じたイエスの家族の唯一人であった。そして、彼女は、肉体での超自然の父であり兄の任務の特質を一度も疑うことなく、ついには次の世界へと進んだ。裁判、拒絶、磔刑のつらい試練の間、地球の家族に関しては、末っ子ルースが、イエスの主な安らぎであった。
145:1.1 この同じ週の金曜日の朝、イエスが海辺で教えていると、水際近くにまで人々が押し合ったので、かれは、近くの舟に乗っている数人の漁師に助けに来るよう合図した。舟に乗り、イエスは、集ってきた群衆に2 時間以上も教え続けた。この舟は、「シーモン」と命名された。それは、シーモン・ペトロスの嘗ての漁船であり、イエス自身の手によって造られた。この特別な朝、ダーヴィド・ゼベダイオスと2人の仲間が、この舟を使っており、湖での不漁の夜から岸近くに寄ってきたところであった。イエスが、援助に来るよう要求したときは、かれらは、網の掃除や修理をしていた。[2][3]
145:1.2 イエスは、人々に教え終えた後でダーヴィッドに言った。「私を助けに来てくれて遅れたので、今度は、君達と働かせてもらおう。漁に行こう。向こうの深いところへ行き、一網下ろそう。」しかし、ダーヴィドの助手の一人であるシーモンが、答えた。「あるじさま、それは無益でございます。我々は夜通し、こつこつ働いて、何の漁もありませんでした。でも、仰せの通り網を仕掛けてみましょう。」そこで、シーモンは、主人のダーヴィドの合図があったのでイエスの指示に従った。イエスに指定された場所に進むと、かれらは、網を沈めたが、その網が破れるのではないかと恐れるほどの魚の群れを封じ込め、陸の仲間に応援の合図を送るほどであった。3隻全てが沈むほどに魚で満たされたとき、このシーモンは、イエスに跪いて言った。「私から離れてください、あるじさま。私は罪深い者でありますから。」シーモンとこの挿話に関係があった全員は、漁獲量に驚いた。その日から、ダーヴィド・ゼベダイ、このシーモン、そしてその仲間は、網を捨ててイエスの後を追った。[4][5]
145:1.3 しかし、これはいかなる点からも、奇跡の漁獲ではなかった。イエスは、自然に密接した学生であった。彼は、経験豊富な漁師であり、ガリラヤ海の魚の習性を知っていた。かれは、この場合、単に通常魚が日中この時刻に見られる場所にこれらの男を向けさせたに過ぎない。しかし、イエスの追随者は、常にこれを奇跡と見なした。
145:2.1 次の安息日、会堂での午後の礼拝の際、イエスは、「天の父の意志」について説教をした。午前中、シーモン・ペトロスは、「王国」について説いた。アンドレアスは、会堂での木曜日の晩の会合で教え、彼の課題は、「新たなる道」についてであった。この特定の時期、地球上のいかなる都市でよりもカペルナムの多くの人々は、イエスを信じた。[6]
145:2.2 イエスがこの安息日の午後会堂で教えるに当たり、習慣に従いまず法律から内容を選び、出エジプト記から読んだ。「そして、あなた方の主に、神に仕えなさい。主は、あなた方のパンと水を祝福し、全ての病が除き去るであろう。」かれは、予言書からの第2の本文を選び、イェシァジァから読んで、「起きて輝きなさい。あなたの光が来たのだから。そして主の栄光が、あなたの上に輝いている。闇が地を覆い、真っ暗闇が諸国民を覆うかもしれないが、主の精霊は、あなたの上に輝き、精霊の栄光は、あなたに見られるであろう。非ユダヤ人さえこの光に来るであろう。そして、多くのすばらしい心は、この光の明るさに降伏するであろう。」[7][8]
145:2.3 この説教は、宗教が個人的経験であるという事実を明らかにするためのイエスの側の努力であった。とりわけ、あるじは、次のように言った。
145:2.4 君達は、情け深い父が、全体として家族を愛するとともに、その家族の個々の構成員への強い愛情ゆえに、皆を一集団と見なしているということをよく知っている。君達は、もはやイスラエルの子供としてではなく、神の子として天の父に近づかなければならない。君達は、集団としては本当にイスラエルの子であるが、個人としては、各々が神の子である。私は、父をイスラエルの子等に明らかにしに来たのではなく、むしろ本物の個人の経験として個々の信者に神についてのこの知識と彼の愛と慈悲の顕示を携えて来たのである。予言者は全員、ヤハウェが民を労ると、神がイスラエルを非常に好きであると教えてきた。しかし、私は、後の予言者の多くも理解したよりすばらしい真実を、神があなたを—あなた方一人一人を—個人として愛していると宣言しに来た。今までのすべての世代のあなた方には、国家の、または人種の宗教があった。今は、私は、個人の宗教を与えに来たのである。
145:2.5 しかし、これさえ新しい考えではない。予言者の何人かが、そのように教えてきたので、君達の間の精霊的に関心のあるものの多くは、この真実を知っていた。聖書で予言者エレミヤのこの文を読んだことはないのか。『その頃には、かれらはもう、父が酸い葡萄を食べたので、子供の歯が浮くとはもう言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。誰でも酸い葡萄を食べる者は、歯が浮くのである。見よ、その日が、我が民と新しい契約を結ぶ時がくる。私がエジプトの国から連れ出した日に彼らの祖先と結んだような契約によるのではなく、新たな道に従って、私は、彼らの心に私の律法を書き記しさえする。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。その時代には、ある人が隣人に、主を知っているかとは聞かない。いや、そうではない。それは、身分の低い者から高い者までが皆、私を知るからである。[9]
145:2.6 これらの約束を読んではいないのか。聖書を信じていないのか。予言者の言葉が、あなたが他ならぬこの日に見ているものに実現されているとは思わないのか。エレミヤは、宗教を心の問題として扱うことを、個人として自分自身を神に関係づけることを勧めはしなかったか。預言者は、天の神があなたの個々の心を追求するとは言わなかったか。また、本来の人間の心は、何ものにもまして、人を誤らせ、しばしば絶望的に邪であると警告されなかったのか。[10]
145:2.7 エゼキエルが、宗教は、個々の経験において現実のものにならなければならないとあなたの祖先にさえ教えた個所をまだ読んではいないのか。きみは、『父が酸い葡萄を食べたので、子供の歯が浮く』という諺をもう決して用いないようになる。『私は誓って言う。』と主なる神は言う。『見よ、全ての命は私のものである。父の命も、息子の命も私のもの。罪を犯す者のみが死ぬ。』そこでエゼキエルは、神のために話してこの日にさえ予見して、『私は新たな心も与え、あなた方のうちに新たな精霊を授けよう。』と言った。[11]
145:2.8 「これ以上、神が、個人の罪のために国を罰すると恐れるべきではない。天の父は、国の罪のために信じる子供等の一人を罰しはしないであろう。どんな家族の個々の構成員も、しばしば家族の誤りや集団による罪の具体的な結果に悩まなければならないが、良い国—あるいは良い世界—の希望が、個人の進歩と啓蒙に結びついているとは、気づかないのか。
145:2.9 人間がこの精霊的な自由を考慮した後に、地上の子等が、創造者を見つけ、神を知り、神のようになることを追い求める楽園経歴の永遠の上昇 (これは、内在する霊からくる神性の衝動への被創造物の意識的な反応に含まれる)を始めることを天の父が望んでいるということをあるじは描写した。
145:2.10 使徒は、この説教に大いに助けられた。彼らは全員、王国の福音が国ではなく、個人に向けられる知らせであると、より完全に理解した。
145:2.11 カペルナムの人々は、イエスの教えに詳しくはあったが、この安息日の説教には驚いた。かれは、代書人としてではなく、いかにも、権威を持っている者として教えた。[12]
145:2.12 イエスが話し終えたそのとき、イエスの言葉に非常に動揺した会衆の一人の若者が、激しい癲癇の発作に襲われ大声で叫んだ。発作の終わりに、意識を戻すとき、かれは、夢見の状態で言った。「ナザレのイエス、いったい我々は、あなたと何の関係があるのですか。あなたは、神の聖なる者である。我々を滅ぼしに来たのですか」イエスは、人々に静かにするように命じ、青年の手を取って言った。「出て来い」—そこで、青年は、即座に目を覚ました。[13]
145:2.13 この青年は、不浄の霊や悪霊にとりつかれたのではなかった。普通の癲癇の犠牲者であった。しかし、青年は、自分の患難は、悪霊憑依によるものであると教えられてきた。彼は、この教えを信じ、自分が思うことや言うことは全てその病に従って振る舞った。人々は皆、そのような現象が、不浄な霊の存在に直接起引していると信じた。従って、かれらは、イエスがこの男から悪霊を追い出したと信じた。しかし、イエスは、その時、癲癇を治しはしなかった。当日の日没後まで、この男性は、本当には癒されなかった。ペンテコステの日のずいぶん後に、イエスの行為について書く最後の使徒ヨハネは、これらのいわゆる「悪魔の追放」の行為のすべての言及を避け、そして、かれは、そのような悪霊憑依の事例は、ペンテコステ以後決して起こらなかったという事実からこれをしたのであった。
145:2.14 この当たり前の事件の結果、イエスが男から悪霊を追放し、午後の説教の締め括りの際に礼拝堂で奇跡的に彼を癒したという話が、カペルナム中に広められた。安息日は、そのような驚くべき噂を急速に効果的に拡散するにはまさに最適の日であった。また、この話は、カペルナムの周辺のすべての小さい居留地にまで伝えられ、人々の多くがそれを信じた。[14]
145:2.15 イエスと12 人が本部を置いたゼベダイオスの大きい家では、ほとんどの場合シーモン・ペトロスの妻とその母が、料理と家事をした。ペトロスの家は、ゼベダイオス家の近くにあった。そして、ペトロスの妻の母が、数日間寒気と熱に病んでいたので会堂からの帰途、イエスと友人達は、そこに立ち寄った。さて、イエスが、この病の女性をしっかり見つめ、手を握り、眉をなで、安らぎと勇気づけの言葉をかけていたとき、偶然、熱が引いた。会堂で奇跡は施してはいなかったと使徒に説明する時間が、イエスにはまだなかった。使徒の心にはこの事件がとても鮮やかで生き生きとしており、またカナでの水と葡萄酒の件も思い出しながらもう一つの奇跡として、かれらは、この偶然の一致をとらえ、使徒の何人かは、都中にこの知らせを広めに飛び出した。[15]
145:2.16 ペトロスの義母アマタは、マラリア熱に苦しんでいた。このとき、イエスが奇跡的に治癒させたのではなかった。ゼベダイオス邸の前庭で起きた並はずれの出来事の数時間後まで、つまり日没後まで、彼女の治癒は、起こらなかった。
145:2.17 そしてこれらの事例は、驚きを探している世代と奇跡志向の人々が、イエスが別の奇跡を行なったと宣言する口実として、すべてのそのような偶然の一致に必ず飛びつく態度の典型である。
145:3.1 この多事多端の安息日の終わり近く、イエスと使徒が夕食に加わる準備をするまでには、全カペルナムとその近郊では、これらの評判の治癒の奇跡に興奮していた。そして、病気や悩める者は皆、陽が落ちるとすぐにイエスのところへ行くか、友人達にそこへ運ばれていく準備を始めた。ユダヤの教えでは、神聖な安息日の間、健康を求めることさえ許されてはいなかった。
145:3.2 したがって、地平線に太陽が沈むや否や、何十人もの悩む男女、子供等が、ベスサイダのゼベダイオスの家に向かって進み始めた。1 人の男が、太陽が隣人の家の後ろに沈むとすぐに、麻痺している娘と出発した。[16]
145:3.3 全日の出来事が、この並はずれた日没場面の舞台準備をした。イエスが午後の説教に使用した本文さえ、病気が払いのけられなければならないと仄めかしていた。かれは、先例のない力と権威で話してきた。その言葉は、とても無視できなかった。かれは、いかなる人間の権威にも訴えることなく、同時に人の良心と魂に直接話した。論理、法的こじつけ、賢明な格言に頼ることなく、聞き手の心に強力で、直接的な、明確で、個人的な訴えをした。
145:3.4 その安息日は、イエスの地球での人生で、さよう、宇宙の人生での、格別な日であった。すべての地域宇宙の意図と目的にとって、カペルナムの小さなユダヤの都市は、ネバドンの実質の首都であった。カペルナムの会堂の一握りのユダヤ人が、イエスの説教の重要な最後の表明を聞く唯一の存在ではなかった。「憎しみは恐怖の影である。復讐は臆病の仮面である。」聴衆もまた、「人は悪魔の子ではなく、神の息子である」と宣言する彼の祝福の言葉を忘れることができなかった。
145:3.5 日の入り後間もなく、イエスと使徒達がまだ夕餉の食卓の周りに長居していると、ペトロスの妻が、前庭に声を聞きつけ、扉へ向かって行くと、大きな病人の一隊を、またカペルナムからの道路は、イエスの手による治癒を求めて集いくる人々で混雑しているのを見た。彼女は、この光景を見るや否やすぐ夫に知らせ、夫はイエスに告げた。
145:3.6 ゼベダイ家の表口から踏み出てみると、あるじは、傷つき、苦む人々の隊列を目にした。かれは、およそ1,000人の病気や病気がちの人間を見つめた。少なくとも、それは、彼の目の前に集まった人数であった。居合わせる者すべてが苦しんでいるというわけではなかった。一部の者は、この努力において治療を確実にするために愛しい者達を補助しながらやって来た。
145:3.7 宇宙行政にあたる彼自身の信託された息子達の誤りと悪行の結果として、大いに苦しんでいるこれらの悩める人間達、女、男、子供等の光景が、特にイエスの人間の心の部分に触れるとともに、この情け深い創造者たる息子の神性の慈悲を刺激した。しかし、かれは、純粋に物質的な驚異の土台の上に永続する精霊的な動勢を築き上げることは決してできないことをよく心得ていた。自身の創造者の特権を示すことを控えることは、彼の一貫した方針であった。カナ以来、超自然の、あるいは奇跡の教えは、彼の教えに伴うことはなかった。それでも、苦しむこの群衆は、彼の同情的な心に触れ、彼の理解ある愛情に力強く訴えるのであった。
145:3.8 前庭からの声が叫んだ。「あるじさま、話しください。私達の健康を取り戻してください。病気を治してください。魂を救ってください。」これらの言葉が発せられるや否や、この肉体をもつ宇宙の肉体化の創造者にいつものように伴っている熾天使、物質制御者、生命伝送者、中間者の巨大な数の随員は、君主が合図を送るならば、創造する力で行動する準備ができていた。これは、人の息子が判断に当たり神性の叡知と人間の同情が絡み合ったので、イエスの地上経歴において父の意志への訴えにおいて避難を求めるというそういった瞬間の1つであった。
145:3.9 ペトロスが、救いを求める叫び声に注意するようにあるじに懇願すると、イエスは、苦しんでいる群れを見下ろして答えた。「私は父を明らかにし、その王国を設立するためにこの世界にやって来た。この目的のためにこそ、この時間まで生きてきたのである。従って、もし、それが私を寄越したあの方の意志であり、また、天の王国の福音公布への私の献身に矛盾していなければ、私の子供が完全にされるのを見ることを望み、—そして—」しかし、それから先のイエスの言葉は、騒ぎで掻かき消された。
145:3.10 イエスは、この治療決定の責任を父の裁定に任せた。イエスの専属思考調整者の指揮下に働いている天の人格の集団が勢いよく活動していたとき、あるじは、ほとんど言葉を発していなかったので、明らかに父の意志は異議を挟まなかった。夥しい数の随員は、苦しめられているこの人間の群れの中に降りて行き、瞬時に683人の男女、子供等が完全になった、すなわち、すべての身体の病気と他の具体的な異状が完全に癒された。そのような場面は、その日以前も、その日以降も、地球では決して目撃されなかった。そして、治療のこの創造的なうねりを見るためにいた我々にとって、それは感動的な光景であった。[17]
145:3.11 しかし、超自然の回復のこの突然で予想外の発生に驚いた全ての存在の中でも、イエスが、最も驚いた。彼の人間的興味と同情が、目前に広がる悩み苦しんでいる光景に焦点が合わせられた瞬間、かれは、創造者たる息子の特定の状態や状況のもとでの創造者の特権である時間要素を制限できないことに関して専属調整者の勧告的な警告を自分の人間の心に留めおくことを怠った。イエスは、もし父の意志がそれによって侵されないのであれば、これらの苦しむ人間が完全に癒されるのを見ることを望んでいた。イエスの専属調整者は、創造的なエネルギーのそのような行為が、そのとき楽園の父の意志を逸脱しないと即座に判断し、そして、そのような決定により—治療願望のイエスの先行する表現があったことから—創造的行為があった。創造者たる息子が望むことは、何であろうがその父が望むことなのである。そのような一纏めの人間の肉体治療は、その後のイエスの地上生活のすべてにおいて行なわれなかった。
145:3.12 予想されていたかもしれないように、カペルナムのベツサイダでの日没のこの治療の評判は、ガリラヤとユダヤ中に、そして地方へと広まった。再び喚起されたのはヘロデの恐怖であり、かれは、イエスの活動と教えに関する報告をすること、また彼がナザレの元大工であるのか、それとも洗礼者ヨハネが死から復活したものなのかを見張り人に確かめに行かせた。
145:3.13 主にこの意図しない肉体的な治療の披露ゆえに、これからずっと残りの地球経歴の間、イエスは、伝道者であるととも医師にもなった。彼が教え続けたのは本当であるが、使徒が、公への説教と信者への洗礼をする一方、イエスの個人的な仕事は、大部分は病人と困窮する者への奉仕であった。
145:3.14 しかし、神性エネルギーのこの日没の超自然の、創造的な身体的な治療の享受者の大半は、慈悲のこの驚異的徴候により永久に精神的に恩恵を被った訳ではなかった。少数の者は、この身体的恩恵に本当に教化されたのだが、精霊の王国は、時間を超越した独創的治療のこの驚くべき現象によっては人の心に進入しなかった。
145:3.15 地球でのイエスの任務に沿って時おり起きた治療の奇跡は、王国公布の計画の一部ではなかった。それらは、神性の慈悲と人間の同情の先例のない組み合わせに関連したほとんど無制限の創造者の特権の神性存在体を必然的に地球に固有に備わっていたことによる。しかし、そのようないわゆる奇跡は、偏見を高める評判をもたらし、多くの求めていない悪評を提供したので、イエスに多くの迷惑をもたらした。
145:4.1 この大々的な治療後の晩ずっと、悦びと幸せな群集は、ゼベダイオスの家に溢れ、イエスの使徒は、感情的な熱意で最高に緊張していた。人間の見地から、これは多分、イエスとの彼らの全ての関わりの中で最高の日であった。ついぞ、後にも先にも彼等の望みは、確信に満ちたそのような期待の極みにまで高まることはなかった。イエスは、ほんの数日前に、まだサマリアの境界内にいるとき、王国が政権を握る時が来たと彼らに言い、使徒は、そのとき目にしたことが、その約束の実行だと思った。かれらは、治療の力のこの驚くべき現象が、ほんの始めであるならば、来ることになっている光景にわくわくするのであった。イエスの神性に対するかれらの持続する疑いは、払いのけられた。かれらは、戸惑いの魅惑の頂点に文字通り酔っていた。
145:4.2 かれらは、イエスを捜したが、見つけることができなかった。あるじは起きてしまったことに非常に狼狽した。さまざまの病気が癒されたこれらの男女、子供は、夜遅くまで長居し、感謝を伝えられるかもしれないとイエスの帰りを望んでいた。使徒は、数時間が経過し、隠遁したままのあるじの行為を理解することができなかった。あるじの打ち続く不在を除けば、彼らの喜びは、いっぱいで完全であったのだろうが。イエスが彼らのもとに戻ったときには、時刻は遅く、治癒の出来事の受益者のほぼ全員は、各自の家に帰っていた。イエスは、 12人と彼に挨拶するために長居していた他の者達の祝辞と敬愛を拒み、「父は肉体を癒す力があると喜ぶのではなく、魂を救う力があると喜びなさい。明日は父の用向きをするのであるから骨を休めよう。」と言った。
145:4.3 またもや12 人は失望し、当惑し、心嘆く男等は、それぞれの休息についた。双子以外は、その夜ぐっすり眠った者はあまりいなかった。あるじは、使徒の魂を励まし心を喜ばせる何かをするやいなや、彼らの望みを即座に粉々に打ち砕き、勇気と熱意の基盤を完全に取り壊すように思えた。この戸惑う漁師達が互いの目を覗き込むとき、彼らには「彼を理解することができない。このすべては何を意味するのか。」という1つの考えしかなかった。
145:5.1 イエスもまたその土曜日の夜、あまり眠らなかった。世界には物理的苦悩が満ち、物質的な困難がはびこっていると、かれは、はっきりと知り、そして、病人や苦しんでいる者に時間の多くを注がざるをえないので、人の心の中に精霊の王国を設立するという自分の任務が妨げられるか、あるいは、少なくとも物理的なもののための活動に従属されるという重大な危険の思索に耽けった。夜間、イエスの人間の心を占めたこれらの考え、また同様の考えのために、その日曜日の夜明けのはるか前に起き、父との親交のために一人で好きな場所の1つに出掛けた。この早朝のイエスの祈りの主題は、かれが、人間の苦しみを前にして、自身の人間の同情が、自身の神性の慈悲とつながれて、自分にそのような訴えをすることを許させないかもしれないということ、自分の時間のすべてが、物理的な奉仕で占められ、精霊的な奉仕を怠るということへの叡知と判断のためのものであった。かれは、必ずしも病人の世話を避けることを願ったというわけではなかったが、精霊的な教育と宗教的な訓練のより重要な仕事もしなければならないということを知っていた。[18]
145:5.2 イエスは、一意専心に適した個室がなかったので丘に何度も祈りに出かけた。
145:5.3 ペトロスは、その夜眠ることができなかった。それで、かれは、非常に早く、イエスが祈りに出かけた直後に、ジェームスとジョンを起こし、3 人であるじを探しに行った。1 時間以上の探索の後、かれらは、イエスを見つけ、彼の奇妙な行為の理由を教えてくれるように懇願した。かれらは、すべての人間が大喜びし、また使徒が大いに喜んでいるときに、かれはなぜ、治癒の精霊の強力な注入に悩んでいるように見えるのかを望んでいた。[19]
145:5.4 4 時間以上イエスは、これらの3 人の使徒への何があったかの説明に努めた。かれは、生じた事について教え、そのような徴候の危険性を説明した。イエスは、祈るためにやって来た理由を打ち明けた。父の王国が、なぜ驚異の働きや身体の治療に基づいて建てることができないのか本当の理由を仲間に明確にしようとした。しかし、彼らは、その教えを理解することができなかった。
145:5.5 一方、日曜日の早朝、苦しんでいる者や物珍しさを求める他の群衆が、ゼベダイの家の周りに集まり始めた。かれらは、イエスに会おうと騒ぎ立てた。アンドレアスと使徒は、とても当惑しており、シーモン・ゼローテースが会衆に話す間、アンドレアスは、数人の仲間とイエスを探しに出た。3 人の仲間といるイエスの居場所をつきとめると、アンドレアスが言った。「あるじさま、群衆になぜ我々を置き去りになさるのですか。ご覧ください。全ての者が、あなたを追い求めております。これまで決してこれほど多くの者が、あなたの教えを求めたことはございません。今も、家は遠近からやってきた者達に取り囲まれております。かれらに教えに私たちと戻ってもらえませんか。」[20]
145:5.6 これを聞いたイエスが答えた。「アンドレアス、私の地球の任務は、父の顕示であり、私の知らせは、天の王国の発布であることを、私は、お前やこれらの者に教えてはこなかったか。どうして、では、物見高い者を喜ばせ、兆しや驚異を捜し求める者の満足のために私の仕事から横を向かせたいのか。我々は、この数カ月ずっとこれらの人の中にいなかったか。彼等は、王国に関する朗報を聞くために大勢で押し寄せて来たか。かれらは、なぜ今、我々を取り巻きに来たのか。魂救済のための精霊的真実の享受の結果としてではなく、むしろ彼らの身体の治癒のためではないのか。人が驚異的な兆候のために我々に引きつけられるとき、彼らの多くが、真実と救済を求めてではなく、むしろ身体の疾患治癒を求めて来たり、物質的困難からの確実な救済を得るためにやって来るのである。
145:5.7 「私がカペルナムにいるこの間中、会堂でも、海辺でも、私は、真実を聞く耳と受け入れる心を持つすべての者に王国の朗報を説いてきた。精霊的なものを排除し、これらの好奇心の強い者の要求を満たし、身体の事柄のために忙しく立ち回るために君達と戻ることは、父の意志ではない。福音を説き病人に力を貸すために君達を聖別したが、私は、私の教えを廃除して、治療に没頭するようなことになってはいけない。いや、アンドレアス、ともに帰るつもりはない。我々が教えたことを信じ、神の息子等の自由を喜ぶようにと人々に伝えなさい、そして、ガリラヤの他の都市へ向かう我々の出発にそなえなさい、そこでは、すでに王国の良い知らせを説く道が、用意できている。父の元から私が来たのは、この目的のためである。行きなさい、そして、私が帰りを待ち受けている間、我々の即時の出発に備えなさい。」[21]
145:5.8 イエスが話し終えると、アンドレアスと仲間の使徒は、ゼベダイオスの家に悲しそうに戻っていき、集ってきた群衆を解散させ、イエスの指示通りに旅仕度をした。そして、西暦28年1月18日、日曜日の午後、イエスと使徒は、ガリラヤの都市での自分達の最初の、本当に公のための、公然の伝道遊歴に旅立った。かれらは、この最初の遊歴に当たり王国の福音を多くの都市で説いたが、ナザレへは行かなかった。[22]
145:5.9 その日曜日の午後、イエスと使徒が、リッモーンに向けて発った直後に、弟のジェームスとユダが、彼に会いにゼベダイオスの家を訪問した。当日正午頃、ユダは、兄ジェームスを捜し出し、二人でイエスの元に行こうと主張した。ジェームスがそれに同意する頃には、イエスはすでに出発していた。
145:5.10 使徒達は、カペルナムで刺激された遠大な関心を後にすることには気が進まなかった。ペトロスは、少なくとも1,000人の信者が王国へと洗礼されるかもしれないと見込んだ。イエスは、我慢強くそれらを聞いたが、戻ることには同意しないのであった。一時期、沈黙が広がり、そこで、トーマスは、仲間の使徒に講演して「行こう。あるじは話された。天の王国の神秘を完全に理解することができないとしても、我々は1つの事を確信している。我々は自分のためにいかなる栄光をも求めない師について行くのだ。」と言った。そこで、皆は、しぶしぶ、良き知らせを説きにガリラヤの都市へと出掛けた。