192:0.1 使徒がエルサレムからガリラヤに向かう頃には、ユダヤの指導者達は、かなり静まっていた。イエスが王国の信者の家族にだけ現れ、また使徒は、身を隠し、いかなる公の説教もしなかったので、ユダヤの支配者達は、福音の運動が、結局は、効果的に鎮圧されたと結論を下した。指導者達は、もちろん、イエスが甦ったという噂の広まりに当惑したものの、追随者の徒党が遺体を移動したという話の繰り返しに対して、買収された衛兵達が、そのような全ての報告を効果的に妨げることを頼みとした。[1]
192:0.2 この後ずっと、使徒が迫害の上げ潮によって分散するまで、ペトロスが、使徒部隊の一般に認められた代表者であった。イエスは、そのような権限をペトロスに決して与えなかったし、仲間の使徒も、そのような責任ある位置に決して正式にペトロスを選出しなかった。ペトロスは、皆の同意により、また皆の主要な伝道者であったことからも自然にそれを引き受け、またそれを維持した。この後、公の説教が使徒の主な活動となった。ガリラヤからの帰着後、ユダの代理に皆が選んだマタイアスが、会計係となった。[2]
192:0.3 エルサレムに滞在した1週間、イエスの母マリアは、多くの時間をアリマセアのヨセフの家に留まっていた女性信者と過ごした。
192:0.4 使徒がガリラヤに出発したこの月曜日の朝早々、ヨハネ・マルコスは、皆と共に行った。都から後をつけ、皆がベサニアをはるかに過ぎたとき、かれは、送り返されはしないであろうと確信し、皆の間に大胆に近づいた。
192:0.5 使徒達は、ガリラヤへの途中、甦ったあるじの話をするために何度か止まり、依って、水曜日の夜、かなり遅くなるまでベスサイダには到着しなかった。全員が起きて朝食の相伴の用意をしたのは、木曜日の正午であった。
192:1.1 4月21日、金曜日の朝6時頃、ベスサイダの通常の上陸場所近くで舟が岸に近づくと、モロンチアのあるじは、10人の使徒の前に、13回目、ガリラヤでは初めて、姿を現した。[3]
192:1.2 使徒がゼベダイオスの家で待機し、木曜日の午後と夕方を過ごした後、シーモン・ペトロスは、漁に行こうと提案した。ペトロスが釣遊びを提案すると、彼らは全員賛同した。かれらは、夜通し、網で頑張ったが不漁であった。かれらは、不漁をあまり気にしなかった、というのも、エルサレムで自分達に起こきたつい最近の出来事を話す興味深い多くの経験をしたので。しかし、陽が昇ると、かれらはベスサイダに戻ることにした。岸に近づいたとき、皆は、船着場近くの波打ち際で炎のそばに立つ何者かを見た。かれらは初め、獲物を携える自分達を歓迎するためにやって来たヨハネ・マルコスであると思ったが、岸に近づくにつれ、間違いが分かった—男性はヨハネにしては背が高過ぎた。岸の人があるじであるとは、誰の心にも浮かばなかった。なぜイエスが、先の集いの真っただ中、そして、恐怖、裏切り、死の悲惨な関係のあるエルサレムの閉じこもった環境から遠い、戸外の自然に触れる広場で皆に会いたかったのか、かれらは、完全には理解していなかった。あるじは、皆がガリラヤに行けばそこで会うであろうと告げてあり、その約束を果たそうとするところであった。[4][5]
192:1.3 錨を下ろし、岸に行くために小舟に乗る準備をしていると、「若者よ、何か捕ったか。」と岸の男が声を掛けた。そして、皆が、「いいえ」と答えると、「右舷に網を投げ入れなさい。魚がいるであろう。」と再び言った。指示したのがイエスだとは知らなかったが、言われた通りに皆が一斉に網を投げ入れると、それは一杯で網はいっぱいで引き上げられないほどにたくさんであった。そのとき、ヨハネ・ゼベダイオスは、気がついた。かれは、重く手応えのある網を見たとき、自分達に話していたのはあるじだと悟った。この考えが心に浮かぶなり、かれは、ペトロスの方に身を乗り出し、「あるじさまだ。」と囁いた。ペトロスは、いつも軽はずみな行為と衝動的な献身の男性であった。したがって、ヨハネがこう耳に囁くと、急に立ち上がり、あるじの側に早く着くことができるように水の中へと飛び込んだ。小舟が岸に近付き、同胞は、魚の網を引っ張ってペトロスのすぐ後ろからやってきた。[6]
192:1.4 この時までに、ヨハネ・マルコスは、起きており、使徒が重荷の網をもって岸に来るのを見て、迎えるために岸を駆け下りた。そして、10人ではなく11人の男達を見ると、本人とは気づかれていない方は、復活したイエスであると推測し、少し離れて驚いている10人が黙って立っていたので、若者は、あるじへと急ぎ、足元に跪いて、「ご主人さま、あるじさま」と言った。そのとき、イエスは、「君達に平和あれ」と皆を迎えたエルサレムのときのようにではなく、普通の語調でヨハネ・マルコスに話し掛けた。「さて、ヨハネ、再び君に会えて、また良い訪問ができる気楽なガリラヤにいて私は嬉しい。ヨハネ、我々と共にいて、朝食をとりなさい。」
192:1.5 イエスが青年と話すと、10人は、岸に魚の網を手繰り上げるのを忘れるほどに驚いた。そのとき、イエスは、「魚を引き上げ、そのうちの何匹かを朝食用に支度をしなさい。すでに火と沢山のパンもある。」[7]
192:1.6 ヨハネ・マルコスは、あるじに敬意を払ったが、ペトロスは、渚で照り映えて燃えている石炭の光景にしばし衝撃を受けていた。その場面は、自分があるじを見捨てたハナンージャの中庭での真夜中の炭の炎をあまりにもまざまざと思い出させた。しかし、ペトロスは、全身を揺すり、あるじの足元に跪き、「ご主人さま、あるじさま」と叫んだ。
192:1.7 次に、ペトロスは網を手繰る仲間に合流した。獲物の水揚げをし終え数えてみると153匹の大物があった。再び、これをもう一つの奇跡の漁獲と呼ぶことは、誤りであった。この出来事には何の奇跡もなかった。それは、単にあるじの予備知識の実行に過ぎなかった。かれは、魚がそこにいることが分かっており、このため、網を投げ入れる場所を使徒に指示した。[8]
192:1.8 イエスは、「さあ、皆来なさい、朝食に。私が皆と雑談する間、双子も座りなさい。ヨハネ・マルコスが魚の下拵えをする。」と言った。ヨハネ・マルコスは、7匹の大振りの魚を運び、それをあるじが炎にあてて、魚が出来上がると、若者は、それを10人に給仕した。そこでイエスは、パンを千切ってヨハネに手渡し、ヨハネは空腹な使徒に順番に給仕した。全員に行き渡ると、イエスは、自らが魚とパンを若者に給仕して、ヨハネ・マルコスに座るように命じた。そして、食べている間、イエスは、皆と雑談し、ガリラヤでの、そして、まさしくこの湖畔での自分達の多くの経験について詳しく話した。[9]
192:1.9 これは、イエスが集団としての使徒に現れた3度目であった。イエスが、漁獲があったかを尋ねて最初に話し掛けたとき、通常近くにいるタリヘアの魚屋が、乾物用に新鮮な獲物の買い付けのためにこのように話しかけることは、ガリラヤ湖のこれらの漁師にとっての共通の経験であったので、皆は、岸に来たとき、彼が誰であるか気を回さなかった。[10]
192:1.10 イエスは、10人の使徒とヨハネ・マルコスと1時間以上雑談し、それから、二人ずつ—教えのために最初に二人ずつ組ませた者同士ではない—を伴い、話しながら汀へと往きつ戻りつした。11人の全使徒がエルサレムから一緒にやって来たが、シーモン・ゼローテースは、ガリラヤに近づくにつれますます元気を失い、ベスサイダ到着時には同胞を見捨てて自分の家に戻るほどであった。
192:1.11 この朝、皆を残していく前に、イエスは、2人の使徒が家に行きシーモン・ゼローテースをその日のうちに連れて来るべきであると指示した。そこで、ペトロスとアンドレアスがそうした。
192:2.1 彼らが朝食を終えたとき、他のものが火の側に座っている間、イエスは、波打ち際で散策しようとペトロスとヨハネに合図した。一緒に歩いていると、「ヨハネ、私を愛しているか。」とイエスが尋ねた。ヨハネが、「はい、あるじさま、心から。」と答えると、あるじは言った。「では、ヨハネ、狭量を捨て、私が君を愛してきたように人を愛することを学びなさい。世界で愛が一番すばらしいものであるということを分からせることに人生を捧げなさい。それは、人が救済を求めることを推進する神の愛である。愛は、すべての精霊的な善の源、すなわち真と美の本質である。
192:2.2 イエスは、次にペトロスの方に向き、「ペトロス、私を愛しているか。」と尋ねた。ペトロスは、「ご主人さま、全ての魂であなたを愛しているのをあなたはご存じです。」と答えた。その時、イエスは言った。「私を愛しているならば、ペトロス、私の子羊に餌を与えなさい。弱者、貧者、若者に力を貸すことを怠ってはいけない。恐怖を持たず、贔屓もせずに福音を説きなさい。神は偏らないということをいつも覚えていなさい。私が君に仕えたように仲間に仕えなさい。私が君を許したように必滅の仲間を許しなさい。君の思索の価値と賢明な省察の力を、経験から学びなさい。」[11][12]
192:2.3 一緒に前方に少し歩いた後、あるじは、ペトロスの方に向き、「ペトロス、本当に私を愛しているか。」と尋ねた。すると、シーモンは、「はい、ご主人さま、私が、あなたを愛しているのをあなたはご存じです。」と言った。再びイエスは、「それなら、私の羊の世話をしなさい。群れの良い、また真の羊飼いになりなさい。彼らの信用を裏切ってはいけない。敵の手による不意打ちを受けてはならない。いつも用心しなさい—目を覚まして祈りなさい。」[13]
192:2.4 さらに数歩行ってから、イエスは、ペトロスに向き、「ペトロス、本当に、君は私を愛しているか。」と3度目に尋ねた。そこでペトロスは、あるじが自分を疑っているように見えてわずかに悲しみ、「ご主人さま、あなたは全てのことをご存じです、だから、私があなたを本当に、本当に愛しているのを知っておられます。」とかなりの感情を込めて言った。その時、イエスは言った。「私の羊に餌をやりなさい。群れを見捨てるでない。仲間の全ての羊飼いの模範となり、励ましとなりなさい。私が君を愛したように群れを愛し、君の幸福に私の人生を捧げたように彼らの幸福に自身を捧げなさい。そして、最期まで私のあとについてきなさい。」[14][15]
192:2.5 ペトロスは、この最後の言葉—イエスの後に従い続けるべきであるということ—を文字通りに取った。そして、かれは、イエスに向き、ヨハネを指差して「私があなたの後に続くならば、この男には何をさせましょうか。」と尋ねた。そこで、ペトロスが自分の言葉を誤解したと分かり、イエスは言った。「ペトロス、同胞が何をするかに関して心配するな。君が去った後、私がヨハネを留めるとして、私が戻って来るときまでさえも、それが君にとって何であるというのか。君が私について来ることだけを確実にしなさい。」[16]
192:2.6 この注意は、同胞の間に広まり、多くの者が考え望んでいたように、力と栄光で王国を樹立するためにイエスが戻る前に、ヨハネは死なないだろうという趣旨で、イエスの声明として受け取られた。シーモン・ゼローテースが奉仕活動に戻り、仕事に従事し続けたのは、イエスが言ったことに対するこの解釈からであった。[17]
192:2.7 他の者のところに戻ると、イエスは、アンドレアスとジェームスと散策し話しに出掛けた。しばらく行くと、イエスは「アンドレアス、私を信じるか。」と、アンドレアスに言った。すると使徒の元主長は、イエスがそのような質問をするのを聞くと、じっと立ち、「はい、あるじさま、私は確かにあなたを信じます。あなたは、私がそうしているとご存じです。」と答えた。その時、イエスは言った。「アンドレアス、私を信じるならば、同胞をさらに信じなさい—ペトロスをさえ。私は、かつて君に同胞の指揮を託した。今、私が父のところに行くために君達を去るに当たり、君は、他のものを信じなければならない。厳しい迫害のために同胞が広く離散し始めるとき、肉体をもつ私の弟ジェームスが、負うには経験不足である重荷を課せられるとき、ジェームスの思いやりのある賢明な相談役になりなさい。そして、信じ続けなさい、私は君をがっかりさせはしないので。君が地球で終わるとき、君は私の元に来るであろう。」
192:2.8 それから、イエスはジェームスの方に向いて、「ジェームス、私を信じるか。」と尋ねた。もちろん、ジェームスは、「はい、あるじさま、心からあなたを信じています。」と答えた。その時、イエスは言った。「ジェームス、私をさらに信じるならば、同胞に対し短気でないようになるであろう。私を信じるならば、それは、君が信者の兄弟愛に親切であることを助けるであろう。君の言動の因果関係を量り知ることを学びなさい。刈り取りは植え付けに基づくことを心しなさい。精霊の平静と忍耐の育成のために祈りなさい。これらの恩恵が、生きる信仰と共に犠牲の杯を飲む時間が来るとき君を支えるであろう。しかし、決して狼狽するでない。地球での人生が終わるとき、君も私といるために来るのである。」[18][19]
192:2.9 イエスは、次にトーマスとナサナエルと話した。「トーマス、私に仕えるか」と尋ねた。トーマスは、「はい、ご主人さま、私は今も、そしていつもあなたに仕えます。」と答えた。その時、イエスは言った。「私に仕えるならば、私が君に仕えたように、肉体をもつ私の同胞に仕えなさい。そして、愛のこの奉仕のために神に任命されてきた者として、この善行に飽きることなく堪え忍びなさい。私との地球での奉仕を終えたとき、君は私と共に栄光のうちに仕えるであろう。トーマス、疑うことをやめなければならない。信仰において、真実に関する知識において成長しなければならない。子供のように神を信じなさい、ただし、そのように子供っぽく行動することはやめなさい。勇気を持ち、信仰に強く、神の王国で強力でありなさい。」
192:2.10 そして、あるじは、「ナサナエル、私に仕えるか。」と言った。使徒は答えた。「はい、あるじさま、一心不乱の愛情で。」その時、イエスは言った。「では、全心で私に仕えるならば、疲れを知らない愛情をもって必ずや地球の私の同胞の幸福に専念しなさい。君の友好と助言を取り混ぜて、愛を君の哲学に加えなさい。私が君に仕えたように、仲間に仕えなさい。私が君の世話をしたように、人に誠実でありなさい。あまり批判的でないように。一部の者にあまり期待をせず、そうすることで失望の程度を少なくしなさい。そして、ここでの仕事が終わるとき、君は、上で私と共に仕えるのである。」
192:2.11 この後、あるじは、マタイオスとフィリッポスと話した。フィリッポスに、「フィリッポス、私に従うか。」と、言った。フィリッポスは、「はい、ご主人さま、自分の生命をもってしてもあなたに従うつもりです。」と答えた。その時、イエスは言った。「私に従いたいのであるならば、非ユダヤ人の地に入り、この福音を宣言しなさい。予言者は、従うことは犠牲よりも良いと言った。信仰で、君は王国の神を知る息子になったのである。従うためのただ1つの法がある—それは、王国の福音を宣言しに旅立たせる命令である。人を恐れるのをやめなさい。闇で苦しみ真実の光を切望する仲間に永遠の生命の朗報を説くことを恐れないようにしなさい。これ以上、フィリッポス、金と物資のために東西に奔走をしないように。君は今、ちょうど君の同胞がそうであるように、喜ばしい知らせを説くことにおいて自由である。そして、私は、君の先を行き、終わりまでも共にいるのである。」[20][21]
192:2.12 それから、マタイオスと話し、あるじは、「マタイオス、心から私に従う気持ちがあるのか。」と尋ねた。マタイオスは、「はい、ご主人さま、私は、完全にあなたの意志を為すことに捧げています。」と答えた。その時、あるじは言った。「マタイオス、私に従うならば、王国のこの福音をすべての民族に教えに出掛けなさい。もはや君は、同胞に人生の物質的なものを手配はしないであろう。今後は、君も精霊救済の朗報を宣言することになっている。これから先、父の王国のこの福音を説く任務に従うことだけに注意を向けなさい。私が地球で父の意志を為したように、君は、神から委任された仕事を実現させるであろう。覚えていなさい、ユダヤ人と非ユダヤ人の双方は、君の同胞である。天の王国の福音の救済の真実を宣言するとき、誰をも恐れるでない。そして、私が行くところに、君はやがて来るであろう。」
192:2.13 それから、あるじは、アルフェウスの双子ジェームスとユダと歩いて話した。かれは、両者に、「ジェームス、ユダ、私を信じるか。」と尋ねた。双方が、「はい、あるじさま、信じます。」と答えると、あるじは言った。「私は、まもなく君達を残して行く。生身の私は、すでに君達を残して行ったことが君達には分かっている。私は、父の元に行く前の短い間だけこの姿でいる。君達は、私を信じている—君達は、私の使徒であり、つねに使徒であるだろう。私が去るとき、また君達が私と暮らすために来る前に、おそらく君達の以前の仕事に戻ったあと、私との付き合いをずっと信じて覚えていなさい。外へ働きかける仕事における変化が、君達の忠誠に影響を及ぼすようなことを許してはいけない。地球での君達の終わりまで神に対する信仰をもちなさい。君達が信仰する神の息子であるとき、領域のすべての清廉な働きは、神聖であるということを決して忘れてはいけない。神の息子がすることは何も普通ではありえない。だから、今後ずっと神のために働いているように仕事をしなさい。そして君達がこの世で終わるとき、私には、君達が私のために同様に働く他の、しかもより良い世界がある。そしてこの仕事のすべてにおいて、この世界と他の世界において、私は、君達と共に働くのであり、私の精霊は君達の中に住むのである。」
192:2.14 イエスがアルフェウスの双子との会話から戻ったのは、ほとんど10時であった。使徒達を後にするに当たり「では、叙階式をした山上で明日正午に君達全員に会うまで。」と言った。かれは、このように話すと、彼らの視覚から消え去った。
192:3.1 4月22日、土曜日正午、11人の使徒は、申し合わせによりカペルナム近くの丘の上に集合し、そしてイエスが、彼らの間に現れた。この会合は、あるじが、使徒として、また地球の父の王国の大使として彼らを俗世から引き離したまさにその山であった。そして、、あるじの14度目のモロンチア顕現であった。[22]
192:3.2 このとき、11人の使徒は、あるじの周りに輪になって跪き、あるじの訓令の繰り返しを聞き、王国の特別な仕事のために初めて引き離された時のように、聖職受任式の場面の再現を見た。あるじの祈りを除く、このすべては、彼らにとり父の奉仕への以前の奉納の記憶としてあった。あるじ—モロンチアのイエス—は、そのとき祈り、それは、使徒が、以前に一度も聞いたことのないような威厳の語調と力の言葉であった。あるじは、そのとき自身の宇宙の中にあり、すべての力と権威をその手に与えられた者として宇宙の支配者達と話した。そして、11人のこれらの男性は、大使職の先の盟約に対するモロンチアの再奉納であるこの経験を決して忘れなかった。あるじは、大使達とちょうど1時間この山で過ごした。そして、慈愛深い送れを告げると、かれは、皆の視界から消え去った。[23]
192:3.3 そして、まる1週間、誰もイエスを見なかった。あるじが父のところに行ってしまったかどうかを知らずに、使徒は、何をしたらよいのか全く分からなかった。かれらは、覚束ないこの状態で、ベスサイダに滞在した。あるじが自分達を訪問し、また自分達も会う機会を逃してはいけないと釣りに行くのを恐れた。この週ずっと、イエスは、地球のモロンチア生物とこの世界で自らが経験していたモロンチア変遷の事柄に忙しくしていた。
192:4.1 イエス出現の知らせは、ガリラヤ中に広まっており、あるじの復活についての問い合わせや、噂されているこれらの出現についての真実を探り当てるためにゼベダイオスの家に到着する信者の数は、毎日増え続けていた。ペトロスは、この週の初め、次の安息日の午後3時に海辺で公開の会合がもたれるという知らせを送った。
192:4.2 従って4月29日、土曜日、3時にカペルナム近郊からの500人以上の信者が、ペトロスの復活以来初めての一般のための説教を聞くためにベスサイダに集まった。この使徒は最良の状態にあり、その興味をそそる教話の終了後、聴衆のわずかな者しか、あるじの復活を疑わなかった。[24]
192:4.3 ペトロスは、「我々は、ナザレのイエスが死んでいないことを断言する。墓から甦ったと宣言する。我々は、彼に会って話したと宣言する。」と言って説教を終えた。彼が、ちょうど信仰のこの宣言をし終えたとき、彼の側に、これらのすべての人々が見えるところに、モロンチア姿のあるじが現れ、馴染みのある口調で、「君達に平和あれ、私の平和を君達に残す。」と言った。このように現れそのように話すと、かれは、皆の視覚から消え去った。これは、復活したイエスの15度目のモロンチア顕現であった。[25]
192:4.4 聖職受任の山でのあるじとの談合の間に、使徒達は、11人に言われたあることのために、あるじが、やがてガリラヤの信者集団の前に公然の出現をするであろうと、そしてそうした後、自分達はエルサレムに戻ることになっていたという印象を受けた。従って、翌日早々に、4月30日日曜日に、11人は、ベスサイダからエルサレムへ向かった。ヨルダンへの途中、かれらは、相当の教えと説教をしたので、5月3日水曜日の遅くまでエルサレムのマルコス邸には到着しなかった。
192:4.5 これはヨハネ・マルコスにとり悲しい帰省であった。家に着くわずか数時間前、父エーリージャ・マルコスは、突然脳溢血で死亡した。死者復活の確実性の考えが、悲しみの使徒達の慰めに大いに役立ちはしたものの、同時に、かれらは、大問題と失望時でさえ信頼できる支持者でありつづけた良い友人の損失を本当に悲しんだ。ヨハネ・マルコスは、できることはすべてして母を慰め、母の代弁をして、母の家で自由にするように使徒を誘った。11人は、五旬節の日の後までこの上階の部屋を自分達の本部にした。
192:4.6 使徒達は、ユダヤ当局に見られないようにわざわざ日暮れ以降にエルサレムに入った。エーリージャ・マルコスの葬儀に関しても公然とは現れなかった。次の日ずっと、かれらは、出来事の多いこの上の部屋に静かに引きこもっていた。
192:4.7 木曜日の夜、使徒は、この上の部屋で素晴らしい会合を催し、トーマス、シーモン・ゼローテース、アルフェウスの双子を除く全員が、復活した主人の新しい福音について公開の説教に旅立つと誓約した。すでに、王国の福音—神との息子性、そして人との兄弟愛—を変える第一歩、イエス復活の宣言へが始まっていた。ナサナエルは、自分達の公開の知らせの重荷のこの変更に反対したが、ペトロスの雄弁さに抵抗できなかったし、弟子達、特に女性信者の熱意に打ち勝つことができなかった。
192:4.8 したがって、ペトロスの活発な指揮の下に、またあるじが父の元に昇る前に、彼の悪意のない代表者達は、イエスの宗教をイエスに関する新しく、かつ変更された宗教の形に徐々に、しかも確かで巧妙な過程で開始した。