80:0.1 ヨーロッパの青色人種は すばらしい文化的な文明を自ら達成することはなかったものの、紫色人種と彼らのアンド系後継者の時代以降、アダーム系と混合されたその種族が後のアンド系侵略者と混合されると、ユランチアに現れた積極果敢な文明到達のための最も強力な血統の1つをもたらした生物上の基礎を提供した。
80:0.2 現代の白人民族は、サンギク民族、つまり幾らかの赤色人種と黄色人種とだが特に青色人種と混合されるようになったアダームの血統の生き残りの種族を取り込んでいる。全ての白色人種と、そしてさらに多くに初期のノヅ系血族には、最初のアンドン系の血統が、かなりの割合である。
80:1.1 最後のアンド系が、ユーフラテス渓谷に追いやられる前、その同胞の多くは、冒険家、教師、交易者、および戦士としてヨーロッパに入った。地中海地溝は、紫色人種の初期ジブラルタル地峡とシチリアの陸橋により保護されていた。ごく早期の人間の何らかの海商がこれらの内陸湖で樹立され、北からの青色人種と南からのサハラ砂住民は、そこで、東からのノヅ系とアダーム系に遭遇した。
80:1.2 ノヅ系は、地中海の東部の地溝で最大規模の文化の1つを設立し、これらの中心地からいくらか南ヨーロッパへと、しかしとりわけ北アフリカへと浸透していった。横幅のある頭のノヅ系-アンドン系のシリア人は、ゆっくり上昇しているナイル川デルタ地帯での定住に因み、かなり早くから焼き物と農業を展開した。かれらは、また、羊、ヤギ、牛、および他の家畜を取り入れ、またシリアは当時その産業の中心地であったので大いに改良された金属加工法を取り込んだ。
80:1.3 エジプトは、ナイル渓谷に芸術と文化をもたらし、それを豊かにしたメソポタミア人の絶え間ない流入を3万年以上受け入れてきた。しかし、エジプトは、多くのサハラ民族の入来が、ナイル川沿いの早期の文明を大いに悪化させたことから、およそ1万5千年前にその最低文化水準に至った。
80:1.4 しかし、初期、アダーム系の西への移動を妨げるものはあまりなかった。サハラは、牧夫と農業家が、一面に広がる開かれた牧草地であった。サハラ砂漠のこれらの住民は、決して製造に従事することがなく、都市建設者でもなかった。それらは、絶滅した緑色人種、それに橙色人種の大規模な遺伝子をもつ藍色と黒色の集団であった。しかしかれらは、陸の隆起と水分の多い変動する風が、この繁栄し平和な文明の残余物を分散させる前に、紫色人種の極めて限られた量の遺産を受け取った。
80:1.5 アダムの血は、ほとんどの人類と共有されたが、ある者達は、他の者以上に確保した。インドの混血人種とアフリカのより黒い民族は、アダーム系にとり魅力を感じるものではなかった。かれらは、アメリカ大陸に遠く隔たっていなければ、赤色人種と自由に交際していたであろうし、黄色人種に好感をもったであろうが、黄色人種は、遠いアジアにあり接近は同様に困難であった。したがって、かれらは、冒険かまたは利他主義に心が動かされると、またはユーフラテス渓谷を追い出されると、ごく自然にヨーロッパの青色人種との交合を選んだ。
80:1.6 当時ヨーロッパで優位であった青色人種は、早期の移動中のアダーム系が嫌悪感を催す何の宗教習慣ももってはおらず、紫色人種と青色人種間には、かなりの性的誘因力があった。最良の青色人種は、アダーム系との結婚を許されることは高い誉れであると考えた。青色人種の全男性は、アダーム系の女性の愛情を勝ち取るために巧みで芸術的になる覇気を抱いたし、またアダーム系の注目を受けることは、優れた青色女性にとっての最高の熱望であった。
80:1.7 エーデンの移動する息子らは、ネアンデルタールの群体の生きながらえている種族を情け容赦なく撲滅する一方で、自分達の文化的な実践を活気づけて、青色人種のより高度の型と徐々に結合した。劣性血族の除去と一体とされたこの人種混合の手法は、十数集団のより雄々しく進歩的な青色人種を生み出し、そのうちの1集団は、クロマニョン人と命名された。
80:1.8 初期のメソポタミア文化の高まりは、これらと他の理由によりより好ましい移動経路という些細ではない理由を含め、ほぼ例外なくヨーロッパへと前進した。そして、現代ヨーロッパ文明の先例を決定づけたのが、これらの情況であった。
80:2.1 紫色人種の初期のヨーロッパへの拡大は、ある種のかなり突然の気候と地質の変化によって急に遮られた。北の氷原の後退とともに、西からの水を孕んだ風は、向きを北に変え、サハラの広漠とした牧草地帯は、徐々に不毛の砂漠に転じた。この干魃は、巨大なサハラ高原の背の低い、黒髪の、黒目だが長頭の居住者を分散させた。
80:2.2 より純粋な藍色の集団は、中央アフリカの森林へと南方に移動し、以来そこにずっと留まっている。さらに混血した集団は、3方向に広がった。西に向かう優れた部族は、スペインへ、そこからヨーロッパの隣接地域に移動し、長髪で暗褐色の後の地中海種族の核を形成した。サハラ高原の東へ向かった最も進歩的でない分隊は、アラビアへ、そして北メソポタミアとインドを通過し遠くセイロンに渡った。支配的集団は、北と東からナイル渓谷とパレスチナへと移動した。
80:2.3 これが、デカン高原からイラン、メソポタミア、加えて地中海の両岸沿いに点在する現代の民族間にある程度の親族関係を呈しているこの二次サンギクの下層である。
80:2.4 アフリカでのこれらの気候変化の同時期、イギリスは、大陸から分離し、デンマークは、海から隆起し、一方西の地中海盆地を保護しているジブラルタル地峡は、地震の結果崩れ、すぐに大西洋の水面の位置にまでこの内陸湖を上げた。シチリアの陸橋は、やがて水中に沈み、地中海の一続きの海を作り出し、また大西洋にそれを接続した。自然のこの大災害は、全世界史において何十もの人間の定住地に洪水をもたらし、最大の生命損失を引き起こした。
80:2.5 地中海盆地のこの抱き込みは、ただちにアダーム系の西部移動を抑え、サハラ住民の大きな流入は、増加人口の捌け口をエーデンの北と東に求めた。アダムの子孫は、チグリスとユーフラテス渓谷から北方への旅の最中、山岳の障害と当時は広域にわたっていたカスピ海に出くわした。アダーム系は、トルキスタン中に点在する自分達の定住地の周りで何世代にもわたり猟をし、群れを追い、土を耕した。この立派な民族は、ゆっくりとその領土をヨーロッパへと拡大していった。しかしアダーム系は、この領域が、ほぼ完全にメソポタミアと接触をしていなかったことから、東からヨーロッパ入りし、そのときアジアの文化より何千年も遅れた青色人種の文化を知った。
80:3.1 青色人種の古代文化の中心地は、ヨーロッパのすべての川沿いに定められていたが、ソンム川だけが、現在、前氷河期時代に流れた同じ水路を流れている。
80:3.2 我々は、青色人種がヨーロッパ大陸に充満しているように話してはいるが、そこには数十もの人種の型があった。ヨーロッパの青色人種は、3万5千年前にさえすでに、赤色人種と黄色人種の二つの血統を有する非常に混合された民族であったが、かれらは、一方大西洋沿岸地帯と現代のロシアの領域においてはかなりの量のアンドン系の血を吸収し、また南ではサハラ砂漠の民族に接触していた。だが多くの人種的集団を列挙する試みは無益であろう。
80:3.3 アダーム系以後のこの初期のヨーロッパ文明は、アダーム系の独創的な創造力と青色人種の活力と芸術との特異な混合であった。青色人種は、相当の活力をもつ人種であったが、アダーム系の文化的で精神的な状態を大いに低下させた。余りにも多くのものが、少女達をだましたり、堕落させたりする傾向にあり、後者にとりクロマニヨン族に自分達の宗教を認識させることは非常に難しかった。ヨーロッパの宗教は、1万年の間インドやエジプトでの発展に比べ不振であった。
80:3.4 青色人種は、何をするにもとても正直であり、混血のアダーム系の性的非行とは全く無関係であった。かれらは、純潔を尊重し、戦争が男性不足を生じたときに限って一夫多妻を実践した。
80:3.5 クロマニョン人は、勇敢で明敏な人種であった。それ等は、子供文化の効率的組織を維持した。両親は、これらの仕事に参加し、年上の子供等が全面的に用いられた。それぞれの子供は、洞窟の手入れ、芸術、火打ち石作成において注意深く訓練された。初期に女性は、家庭内の技術と天然農業に熟練しており、一方男性は、狩猟に長けており勇敢な戦士であった。
80:3.6 青色人種は、猟師であり、漁夫であり、食物採集者であった。専門の船大工であった。石斧を作り、木を切り倒し、一部は地面の下に、それに獣皮の屋根を付けた丸木小屋を組み立てた。シベリアにはまだ同様の小屋を建てる民族がいる。南方のクロマニヨン人は、一般に洞窟や岩穴に住んでいた。
80:3.7 夜の警備に立つ歩哨が、冬の厳しい間、洞窟の入り口で凍死することは珍しくなかった。かれらは、勇気があったが、何よりも芸術家であった。アダーム系混血者は、突然独創的な想像力に拍車をかけた。青色人種の芸術の頂点は、より黒い肌の人種がアフリカからスペイン経由で北に来る前のおよそ1万5千年前であった。
80:3.8 アルプスの森林は、1万5千年前、大規模に広がっていた。ヨーロッパの狩人は、世界の満足な猟場を乾燥と不毛の砂漠に変えた同じ気候の威圧により川の流域へ、また海岸へと追いやられていた。ヨーロッパの巨大な広々とした放牧地は、雨を伴う風が北に向きを変えると、森林に覆われるようになった。この大々的かつ比較的突然の気候変更は、ヨーロッパの人種を広々とした空間の狩人から牧夫へと、また多少は漁夫と土地耕作者への転職に追い立てた。
80:3.9 これらの変化は、文化的進歩をもたらしつつあった生物学上の退歩に至った。優れた部族は、先の狩猟時代より高度の型の戦争捕虜と結婚し、劣ると思われる者達を一貫して滅ぼしてしまった。しかし、かれらは、集落を確立し、農業と商業に従事し始めると、凡庸な捕虜の多くを奴隷としてその命を救うようになった。そして、全体のクロマニヨン型を後に大いに劣化させたのがこれらの奴隷の子孫であった。文化的この退歩は、メソポタミア人の最終かつ大挙の侵攻が、ヨーロッパを一掃し、すばやくクロマニヨン型と文化を併合し、白色人種の文明を開始する東からの新鮮な起動力を受けるまで続いた。
80:4.1 アンド系が一定の流れでヨーロッパに流入する間、7度の主な侵攻があり、最後の到来者は、馬に乗り3度のうねりでやってきた。一部は、エーゲ海の島々やドナウ川渓谷を経てヨーロッパに入ったが、さらに初期のより純血の種族の大半は、ヴォルガ川とドン川の牧草地を越えた北方経路で北西のヨーロッパにわたった
80:4.2 アンドン系の大群は、3度目と4度目の侵攻の合間にロシアの幾つもの川とバルト海経由でシベリアから来て、北からヨーロッパに入った。それらは、すぐに北アンド系部族に同化された。
80:4.3 より純血な紫色人種の初期の拡大化は、その後の半ば軍隊的で征服好みのアンド系子孫のものよりはるかに平和的であった。アダーム系は平和を好んだ。ノヅ系は好戦的であった。これらの群体の結合は、後にサンギク人種と混合したように、実際の軍事上の征服をした攻撃的なアンド系を生み出した。
80:4.4 ただし馬が、アンド系の西洋における支配を決定した漸進的要素であった。馬は、分散していくアンド系にこれまでに存在しない移動の利点を与え、アンド系騎兵の最後の集団が、全ヨーロッパを侵略し、カスピ海周辺でのすばやい進行を可能にした。アンド系の前のすべてのうねりは、非常にゆっくり動いたので、メソポタミアから長い距離でも崩壊しがちであった。しかし、これらの後のうねりは、急速に動いたので、密着した集団としてヨーロッパに達することができ、まだある程度の高い文化を保持していた。
80:4.5 中国とユーフラテス川地域の外の全生息界では、馬を巧みに乗りこなすアンド系騎手が、紀元前6千年と7千年に出現すると、1万年にもわたる非常に限られた文化的進歩しかなかった。アンド系騎手は、青色人種の最良の者達を吸収し、最悪を撲滅しつつロシアの原野を横断し西部に移動するにつれ、1つの民族に混合されていった。これらが、いわゆる北方人種の先祖、スカンジナビア、ドイツ、そして、アングロサクソン民族の祖先であった。
80:4.6 それは、ほどなく優れた青色人種の種族が、北ヨーロッパ中でアンド系によって完全に吸収されるときであった。昔のアンドン系は、ただラプランド (そして、ある程度ブルターニュ) において独自性の外見さえ保持した。
80:5.1 北ヨーロッパ部族は、メソポタミアからロシアの南のトルキスタン領域経由の移住者の一定の流れによって絶え間なく補強され向上されており、またアンド系騎兵の最後のうねりは、ヨーロッパを一掃したときには、アンド系を受け継いだ者が、世界の全ての他の国々で見られるよりもその領域にすでに多くいた。
80:5.2 北アンド系の軍本部は、3千年のあいだデンマークにあった。この主要地点から、連続的な征服の波が押し進み、メソポタミアの征服者と被征服民族との最終の混合を目の当たりにする何世紀かが過ぎるにつれ、それが、アンド系を徐々に減少させ、白人をますます増大させていった。
80:5.3 青色人種が、北で吸収され、ついには南に進出した白人の騎兵侵略者に屈する一方で、前進する混血の白人部族は、クロマニヨンの頑固で長引く抵抗にあったが、優れた知力と増大し続ける生物供給源が、より平凡な人種の絶滅を容易にした。
80:5.4 白人と青色人種との決定的な戦いが、ソンムの谷間で争われた。ここで、最良の青色人種は、南方に移動するアンド系と激しく争い、これらのクロマニヨン人は、白人侵略者の優れた軍事戦略に屈する前の500年以上に渡り、首尾よく自分達の領土を防御した。最後のソンムの戦で勝利を収めた北の軍隊の指揮官トールは、北の白人部族の英雄になり、後にその一部の者により神として崇敬された。
80:5.5 最も長く存続した青色人種の要塞は、南フランスにあったが、軍事上の最後の強大な抵抗勢力は、ソンム沿いで打ち負かされた。その後の征服は、商業の浸透と川沿いの人口的圧迫、それに劣者の容赦ない根絶を伴う優者との連続的結婚によって進行した。
80:5.6 アンド系年長者の部族協議会が、劣性の捕虜が不適任であると宣告すると、その捕虜は、シャーマンの司祭に委ねられ、その聖職者は、捕虜を川に連れていき入念な儀式、「極楽」—致死水没—開始の儀式を施した。このようにしてヨーロッパの白人侵略者は、自分達の集団にすぐに吸収されていない遭遇する全民族を皆殺しにし、その結果青色人種は終わり—しかもすぐに—を告げた。
80:5.7 クロマニヨンの青色人種は、現代のヨーロッパ人種の生物学上の礎を構成したが、その後の、しかも故国の精悍な征服者に吸収された形でのみ生き残った。青色人種は、ヨーロッパの白色人種の多くの逞しい特徴と体力に貢献したが、混血のヨーロッパ民族のユーモアと想像力は、アンド系に由来している。北方の白色人種をもたらすこのアンド系と青色人種の結合は、アンド系文明の即座の喪失、過渡的特徴の遅れをもたらした。ついに、これらの北の野蛮人の潜在的優越性が現れ、現代のヨーロッパ文明となった。
80:5.8 発展する白色人種は、紀元前5千年までには北ドイツを含む北フランス、イギリス諸島などの北ヨーロッパの全てにおいて優位であった。中央ヨーロッパは、しばらくのあいだ青色人種と丸い頭のアンドン系に支配された。後者は、主にドナウ川渓谷に場所を定め、決して完全にはアンド系にとって代わられなかった。
80:6.1 文化は、アンド系の最後の移動期からユーフラテス渓谷において衰退し、当面の文明の中心は、ナイル渓谷に転じた。エジプトは、地球上で最も高度な集団の本部としてメソポタミアの継承者になった。
80:6.2 ナイル渓谷は、メソポタミア渓谷が洪水に苦しみだす少し前に洪水に苦しみ始めたが、はるかによく事を運んだ。この初期の妨げは、継続的アンド系移民の流れによってより大きく埋め合わされたので、エジプト文化は、ユーフラテス川地域に由来はするとはいえ、前進するかに見えた。しかしエジプトには異なる7集団の人間が、メソポタミアの洪水期の紀元前5千年にはいた。1集団を除くすべてが、メソポタミアから来た。
80:6.3 エジプトは、ユーフラテス渓谷からの最後の大移動の際、最も巧みな芸術家と職人の多くを幸いにも獲得した。これらのアンド系職人は、川の生活やその洪水、潅漑、および渇水期に精通していたので、まるで家にいるかのようであった。保護されたナイル渓谷の位置を楽しんだ。そこでは、ユーフラテス川沿いよりも敵の急襲や攻撃を受けにくかった。彼らは、エジプト人の金属加工技能に大いに拍車をかけた。ここで、アンド系職人は、黒海地域の代わりにシナイ山から来る鉄鉱石を扱った。
80:6.4 エジプト人は、非常に早くに自分達の地域の神を国家神の複雑な体系へと組み込んだ。大規模な神学を開発し、また同様に大規模だがやっかいな聖職を有した。異なる数人の指導者が、セース系の初期の宗教の教えの残余を蘇らせようとしたが、これらの努力は短命であった。アンド系は、エジプトで最初の石の営造物を建設した。最初で最も優美な石のピラミッドは、アンド系の建築の天才インホテップにより首相としての役目を果たしている間に建設された。前の営造物は、レンガを材料として建築されており、世界の異なる地方で多くの石の営造物が建設されていたが、これは、エジプトで最初であった。しかし建築術は、この偉大な建築家の時代から着実に下り坂となった。
80:6.5 この輝かしい文化の時代は、ナイル沿いの内部戦争によって遮られ、やがて国は、メソポタミアがそうであったように、人を寄せつけないアラビアからの劣性部族と南からの黒人部族に侵略された。その結果、社会の進歩は、500年以上に渡り着実に衰退した。
80:7.1 メソポタミアでの文化の衰退期間中、東地中海の島々ではしばらくの間優れた文明が持続した。
80:7.2 紀元前1万2千年頃、アンド系の優れた部族は、クレタ島にわたった。これは、そのような優れた集団が、実に早くに定住した唯一の島であり、それは、これらの水夫の子孫が隣接する小島に拡大するおよそ2千年前であった。この集団は、北部ノヅ系のヴァン系分隊と結婚した細い頭と、小柄のアンド系であった。それらは皆1.8メートル以下の背丈であり、本土からより大きく、しかも劣る仲間に文字通り追い出されていた。クレタ島へのこれらの移住者は、織物、金属、陶器、建材用の石の扱いに高度な技術を有していた。かれらは、文字を書き、牧夫と農業家として生き続けた。
80:7.3 アダムソンの上背のある子孫の集団は、クレタ島定住の約2千年後、メソポタミアの北の高地の家からほぼまっすぐにやって来て、ギリシアへと北の島々に向かった。これらのギリシア人の祖先は、アダームソンとラッタの直系子孫のサートにより西方へと率いられた。
80:7.4 最終的にギリシアに住みついた集団は、アダームソン系の第2文明の終わりを構成した375人の選ばれた優者から成った。アダームソンのこれらの後の息子等は、新生の白色人種の当時の最も価値ある血統を有した。第一のエーデン時代以来、それらは、高い知力の系列のものであり、肉体的に最も美しい者であった。
80:7.5 やがてギリシアとエーゲ海諸島の地域は、商業、芸術、文化の西洋の中心地としてメソポタミアとエジプトに続いた。しかし、エジプトでそうであったように、実際にエーゲ海世界の人文科学のすべては、アダームソン系ギリシア人の先駆者の文化を除いては、メソポタミアから得られた。これらの後者の芸術と特質の全ては、アダームとハヴァーの最初の息子であるアダームソンとカリガスティア王子の純ノヅ系の部下の直系子孫の娘である彼の並はずれた2番目の妻の子孫の直接遺産である。ギリシア人が、かれらは、神と超人的存在からの直接子孫であるという神話の伝統を持っていたのも無理からぬことである。
80:7.6 エーゲ海地域は、それぞれが先行するものよりはあまり精神的ではない明確な文化の5つの舞台を経験した。やがて、最後の輝かしい芸術時代は、ギリシア人の後の世代に取り込まれていた急増中の平凡なドナウの奴隷の子孫の重みの下で崩壊した。
80:7.7 カインの子孫の母信仰が、その最高の人気に達したのがクレタ島におけるこの時代であった。この信仰は、「偉大な母」の崇拝においてハヴァーを賛美した。ハヴァーの偶像がいたる所にあった。何千もの公の神殿が、クレタ島と小アジア中に建設された。そして、この母信仰は、イエスの地球の母マリアの賛美と崇拝を装って後に初期のキリスト教を組み入れるようになるクリストスの時代まで存続した。[1]
80:7.8 紀元前6.5千年頃までにはアンド系の精神的遺産にかなりの衰退があった。アダームの子孫は、広域に渡り分散し、実際にはより昔のより人数の多い民族に吸収された。アンド系文明のこの退廃は、宗教規範の消滅と共に嘆かわしい状態にある世界の精神的に窮迫している民族を置き去りにした。
80:7.9 紀元前5千年までには、アダムの子孫の最も純血な3種族が、スメール、北ヨーロッパ、ギリシアにいた。全メソポタミアは、アラビアから浸透してきた混血で皮膚の黒い人種の流入によりゆっくりと悪化していった。これらの劣性民族の到来が、アンド系の生物学的、かつ文化的残留物の海外への分散の一因となった。より大胆な民族は、肥沃な三日月地帯のあちこちから島へと西側へ殺到した。これらの移住者は、穀類と野菜の両方を栽培し、また家畜も連れて行った。
80:7.10 進歩的なメソポタミアの強力な軍勢が、紀元前およそ5千年、ユーフラテス渓谷を立ち退きキプロス島に定住した。この文明は、約2千年後に北からの野蛮な群衆により一掃された。
80:7.11 別の大移民が、後のカーヘドン跡近くの地中海に定住した。また大勢のアンド系は、北アフリカからスペインに入り、後にはこれに先立ってエーゲ海諸島からイタリアに来た同胞とスイスで入り混じった。
80:7.12 エジプトが、文化的衰退の点でメソポタミアに続くと、より優れた進歩的家族の多くは、クレタに逃がれ、その結果すでに進歩したこの文明を大いに増強させた。そして、エジプトからの劣った集団が到着し、クレタの文明を脅かした後、より洗練された家族が、ギリシアへと西に移った。
80:7.13 ギリシア人は、偉大な教師と芸術家であっただけではなく、世界の最も偉大な貿易業者と植民地開拓者であった。ギリシア人は、自分達の芸術と商業をついには吸い込んだ劣等者の殺到に屈する前に、西へ多くの文化の前哨地設立に成功したので、初期のギリシア文明における進歩の大多数は、南ヨーロッパの後の民族に固持され、またこれらのアダームソン系の混血子孫の多くが、隣接する本土の部族に組み込まれるようになった。
80:8.1 ユーフラテス渓谷のアンド系民族は、ヨーロッパへと北に移動し青色人種と接触し、また地中海地方へと西に移動し、サハラ砂漠の住民と南の青色人種と入り交じった生存者と混合した。白色人種のこの2つの支流は、長い間これらの中央地帯に生息していた初期のアンドン系の頭の広い山の生存者により過去にもまた現在にも、広く分離されていた。
80:8.2 アンドンのこれらの子孫は、ヨーロッパの中央と南東のほとんどの山岳地帯に分散していた。かれらは、小アジアからの到来者に加勢を得て、そして、かなりの数でその領域を占拠した。古代のヒッタイト人は、直接アンドン系の血統に始まった。その白い肌と広い頭は、その人種の典型であった。この種族は、アブラーハムの祖先に流れており、アンド系から文化と宗教を得る傍ら、まったく異なる言語を話したその後のアブラーハムのユダヤ人子孫の独特の容貌に多く寄与した。かれらの言語は、明確にアンドン系であった。
80:8.3 イタリア、スイス、南欧の湖上に杭、もしくは丸太の埠頭を組み立てた家屋に住んでいた部族は、アフリカ人、エーゲ海の民、とりわけ、ドナウの移動する民の広がる縁であった。
80:8.4 ドナウの民は、バルカン半島経由でヨーロッパ入りをし、ドナウ渓谷まわりでゆっくり北方へ移動していたアンドン系の農夫と牧夫であった。かれらは、谷に住むことを好み、陶器を作り土地を耕した。ドナウの民の最も北寄りの定住地は、ベルギーのリエージュにあった。これらの部族は、その文化の中心地と基点から遠くに移動したとき、急速に劣化した。最良の陶器は、初期の定住地の産物である。
80:8.5 ドナウの民は、クレタ島からの宣教師の仕事の結果として母崇拝者になった。これらの部族は、後に小アジア海岸から船で来て、同じように母崇拝者であったアンドン系の船員集団と混合した。石造りの小屋で死者を火葬にすることは、母崇拝者にとっての習慣であったことから、母崇拝と死者の火葬の宗教儀式を実践する頭の広い白色人種の混血型が、中央ヨーロッパの大半に定住した。
80:9.1 アンド系移動の終わりにかけてのヨーロッパにおける人種の混合は、次の3種類の白色人種にまとめられるようになった。
80:9.2 1. 北方白色人種。このいわゆる北方人種は、主として青色人種とアンド系から成るが、わずかな量のサンギクの赤色と黄色と共に、かなりの量のアンドン系血液も含んだ。その結果、北白色人種は、これらの4つの最も望ましい人間の血統を有した。しかし、最大の継承は、青色人種から来ていた。早期の典型的北方人種は、長い頭で、背が高く金髪である。しかしこの人種は、とうの昔に白人の支流のすべてに徹底的に混合されるようになった。
80:9.3 攻め入る北方人種に遭遇するヨーロッパの原始文化は、青色人種と混合した後退的ドナウの民のものであった。北方人種とデンマーク人の文化と、ドナウの民とアンドン系の文化は、今日のドイツの2種類の人種集団の存在でみせているように、ライン川で出合い混合された。
80:9.4 北方人種は、バルト海沿岸からの琥珀貿易を続け、ドナウ渓谷の幅の広い頭を持つ人々との大々的な商業をブレンナー峠経由で確立した。ドナウの民とのこの長期にわたる接触が、これらの北部の人々を母崇拝に導き、死者の火葬は、数千年もの間スカンジナビア全体でほぼ一般的であった。ヨーロッパ中で埋葬は行われはしたものの、なぜ初期の白色人種の遺骨が見つけられないかを—石や粘土の骨壷の中には灰だけ—これが説明している。これらの白人は、居住施設も造り、洞窟には決して住んでいなかった。これに先だつクロマニョン型は、洞窟や岩穴のしっかりと封をされたところによく保存されているにも かかわらず、白人の初期の文化に関する形跡が、なぜ僅かしかないかをも、これが説明している。まるで、ある日北ヨーロッパで退化しているドナウの民と青色人種の原始の文化が存在し、明くる日、非常に優れた白人の文化が突然現れたかのようである。
80:9.5 2. 中央部の白色人種。この集団は、青色人種、黄色人種、およびアンド系の種族を含んでいるが、それは支配的にアンドン系である。これらの人々は、広い頭で、浅黒く、がっしりとした体格である。かれらは、アジアに広い基盤を横たえ、頂点が東フランスを貫通する楔のように、北方人種と地中海の人種の間に押しやられている。
80:9.6 ほぼ2万年間、アンド系は、アンドン系に中央アジアの北部へとさらに遠く押しやられてきた。紀元前3千年までには、増大する乾燥状態が、これらのアンドン系をトルキスタンへと追い立てていた。南方へのこのアンドン系の前進は、カスピ海と黒海周辺で分裂し、1千年以上続き、バルカン諸国とウクライナの双方を経てヨーロッパに浸透した。この侵略は、残るアダームソンの子孫の集団を含み、侵入期間の後半にセース系聖職者の子孫の多くと同様に相当数のイランのアンド系を連れてきた。
80:9.7 アンドン系の西部への猛攻は、紀元前2,500年までにヨーロッパに達した。そしてこのトルキスタンの丘の野蛮人による全メソポタミア、小アジア、ドナウ川盆地のこの侵略は、その時までの文化に最も重大かつ永続的な退行をもたらした。これらの侵略者は、特徴的にそれ以来アルプス人種のままで残ってきた中央ヨーロッパ人の特徴を確実にアンドン系化させた。
80:9.8 3. 南方の白色人種。この褐色の地中海人種は、北の白色人種よりは少な目のアンドン系の特徴をもつと同時に、アンド系と青色人種の混合から成った。またこの集団は、サハラ砂漠の住民を通してのかなりの量の二次サンギクの血液を取り込んだ。後代になると、白色人種のこの南の集団は、東地中海からの強いアンド系分子によって生気を吹き込まれた。
80:9.9 地中海沿岸地帯は、しかしながら、紀元前2,500年の遊牧民の大々的な侵入時代までアンド系に浸透されるようにはならなかった。陸上交通と貿易は、大人数の遊牧民が、東地中海地方に侵入する数世紀の間、ほぼ中断された。陸路の旅のこの障害が、海上交通と貿易の大いなる拡大をもたらした。地中海生まれの商業は、およそ4,500年前に盛んであった。そして、海上交通のこの発展が、地中海盆地全体の沿岸地域の中でのアンド系子孫の突然の拡大をもたらした。
80:9.10 これらの人種混合は、最も強く混合された南ヨーロッパ人種のための基盤を据えた。そして、この時以来、この人種は、一層の混合を、とりわけアラビアの青色-黄色-アンド系民族との混合を経験した。事実上、この地中海の人種は、実際には別々の型のように識別できなくなるほどに周囲の民族と自由に混合されているが、その仲間は、一般的には、背が低く、頭が長く、黒髪である。
80:9.11 アンド系は、北で戦争と婚姻を経て、青色人種を全滅させたが、青色人種は、南ではかなりの数で生き残った。バスク人とベルベル人は、この人種の2支流の生存を意味するが、これらの民族さえ完全にサハラ砂漠の住民と混合された。
80:9.12 これが、紀元前3千年頃の中央ヨーロッパで示された人種混合の絵である。一部のアダームの不履行にもかかわらず、より高度の型が混合したのであった。
80:9.13 これらは、来たる青銅器時代に重なり合う新石器時代の期間であった。青銅器時代は、スカンジナビアでは母崇拝と結びついていた。新石器時代は、南フランスとスペインでは太陽崇拝に結びついていた。これは、円形の、屋根のない太陽寺院の建築の時代であった。ヨーロッパの白色人種は、太陽への象徴として大きな石を楽しんで配置して活気に満ちた建築者であり、その後代の子孫もストーンヘンジでほとんど同じようにした。太陽崇拝の人気は、これが、南ヨーロッパの長い農業期間であったことを示す。
80:9.14 この比較的最近の太陽崇拝時代の迷信は、今でもブルターニュの習俗の中に存続している。これらのブルトン人は、1,500年以上キリスト教化されているが、悪の眼差しを避けるために新石器時代の魔除けを今もなお継続している。彼らは、稲妻から身を守るために煙突にまだ雷石を保っている。ブルトン人はスカンジナビアの北方人種と決して交わらなかった。ブルトン人は、西ヨーロッパの最初のアンドン系住民の生存者であり、地中海の群体と交わった。
80:9.15 だが大胆にも、白人民族を北方人種、アルプス人種、および地中海人種として分類することは誤りである。そのような分類を容認するには、あまりに多くの混合があり過ぎた。かなり明確な白色人種のそのような分類区分が、一時的にあったが、以来、広範囲の混合が起こり、いかなる明確さをもってしても、これらの区分を特定することは、もはや可能ではない。古代社会集団は、現在の北米居住民のように、紀元前3,000年においてさえ1人種だけではなかった。
80:9.16 5千年間のこのヨーロッパ文化は、成長し続け、ある程度まで混合し続けた。しかし、言語の壁が、異なる西洋諸国の完全な交換を阻んだ。この文化は、前の世紀に北アメリカの全世界の住民と調和するためのその最良の機会を経験している。そして、その大陸の未来は、 維持されている社会的文化の水準にばかりではなく、その現在の、また将来の人々に入ることが許されている人種的要素の質により決定されるであろう。
80:9.17 [ネバドンの大天使による提示]