89:0.1 原始人は、霊に恩義があると、つまり贖いの必要性があると考えた。未開人の観点からは、霊は、正義の立場からさらに多くの不運を自分達にもたらしたかもしれないのだとみなした。時の経過と共に、この概念は、罪と救済の教理へと発展した。魂は、喪失状態で世界に入ると—原罪—と見なされた。魂は、受け戻されなければならない。身代わりが、用意されなければならない。首狩り人は、頭蓋骨崇拝信仰の実践に加え、自身の命の替え玉を、身代わりを提供することができた。
89:0.2 未開人は、霊が、人間の災い、苦しみ、屈辱を見て最高の満足感を得るという考えにとりつかれていた。最初に人は、作為の罪のみを関心をもったが、後には不作為の罪に対処するようになった。そして、その後の生贄の体系のすべては、これらの2つの考えの周りで成長した。この新儀式は、生贄の宥めの儀式の遵守と関係があった。原始人は、神に気に入られるために何か特別なことをしなければならないと信じた。高度な文明だけが、一貫して冷静で慈善の神を見分ける。宥めは、将来の幸福への投資よりむしろ即座の不運に対する保険であった。そして回避、悪魔払い、強制、宥めの儀式はすべて、互いに併合する。[1]
89:1.1 禁忌のしきたりは、不運をはぐらかすための人の努力、何かの回避により亡霊の怒りを阻む人の努力であった。禁忌は、最初は非宗教的であったが、初期には亡霊、あるいは霊の制裁を習得し、こうして補強されると、それは、立法者や団体の作り手となった。禁忌は、儀式基準の源であり、原始の自制の原型である。それは、最も初期の社会的規制であり、長い間唯一無二であった。それは、まだ社会規制構造の基本単位である。[2]
89:1.2 未開人の心でこれらの禁止があつめた敬意は、それらを執行すると思われる力への恐怖と全く相等しかった。禁忌はまず、偶然の不運の経験がもとで起きた。その後、禁忌は、首長やシャーマンにより—亡霊により、神によってさえも導かれると考えられた呪術師—により提案された。霊報復への恐怖は、未開人の心では非常に大きく、禁制を破ってしまったとき、時として恐怖で死ぬほどであり、この劇的な出来事が、生存者の心に禁忌の保持を途方もなく強くする。[3]
89:1.3 最も初期の禁止の中には女性の処分と他の財産処分に制限があった。宗教は、禁忌の進化においてより大きい役割を演じ始めるにつれ、禁止令下にある品目は、不浄であると、後には神聖でないと見なされた。ヘブライ人の記録は、清廉なものと不浄なもの、聖なるものと邪悪なるものに多く言及しているが、これらの線に沿った信仰は、他の多くの民族のものよりもずっと厄介ではなく、広範囲におよばなかった。
89:1.4 ダラマティアとエーデンの7条の戒律は、ヘブライ人の10の命令と同じく明確な禁忌であり、総てが、最古の禁止がそうであったように否定形で表現された。しかし、これらのより新しい掟は、何千もの以前の現在の禁忌を代理をしたという点で、実に救済であった。そして後のこれらの戒律は、これ以上に、何かを服従と交換に確実に約束した。[4]
89:1.5 初期の禁忌とされる食物は、物神崇拝とトーテム信仰が端緒であった。。豚は、ヒンズー教徒にとっての牛のように、フェニキア人にとって神聖であった。エジプト人の豚肉の禁制は、ヘブライ人とイスラム教徒の信仰によって永続化された。禁制食物の変異形は、妊婦が特定の食物について考え過ぎると、生まれてくるその子供は、その食物の反映であるという信仰であった。そのような食品は、子供にとり禁忌となるのであった。[5]
89:1.6 喫食方法は、やがて禁忌となり、昔と今の食事作法が始まった。カースト制度と社会階層は、昔の禁止の遺留である。禁忌は、社会の組織化において極めて効率的ではあったが、ひどく耐え難い負担であった。否定的な禁制は、有用で建設的な規則を維持するばかりでなく、陳腐で、時代遅れの、無益な禁忌をも維持した。
89:1.7 しかしながら、広範囲の、しかも多種多様のこれらの禁忌を除外し、原始人に関する批評に参加する文明的社会というものは、ないであろうし、禁忌は、原始宗教の支えとなる制裁がなかったならば決して持続はしなかったであろう。人間進化における不可欠要素の多くは、非常に高価であり、努力、犠牲、自己犠牲においては莫大な費用が掛かったが、これらの自制の業績は、人が文明の上向いのはしごを登る本物の横木であった。
89:2.1 偶然の恐怖と不運の畏怖は、これらの災難に対する想定される保険であるとように、文字通り人を原始宗教の創案へと追い込んだ。宗教は、魔術と亡霊から霊と物神を経て禁忌へと発展した。あらゆる原始部族には、それぞれの禁断の実の木が、文字通りリンゴが、しかし比喩的にはいろいろな種類の禁忌を重くぶらさげる1,000種の枝があった。そして禁制の木は、絶えず「してはならない。」と言った。[6][7]
89:2.2 未開の心が、善霊と悪霊の両方を描くまでに発展し、また禁忌が、進化的宗教の厳粛な制裁を受けたとき、舞台は、罪の新概念の登場に向けてすっかり準備された。罪の考えは、啓示宗教のその登場以前に広く世界に確立された。自然な死は、原始の心にとり罪の概念によってのみ論理的になった。罪は禁忌への違反であり、死は罪への刑罰であった。[8]
89:2.3 罪は、儀式的であり、理性的ではなかった。行為であり、考えではなかった。そして、罪のこの全概念は、ディルムンの長引く伝統と地球の小楽園の時代までに育成された。アダムとエーデンの園の伝統もまた、人種黎明のかつての「最盛期」の夢に中味を添えた。そしてこのすべては、思考体系で後に表現される考え、つまり人は特別な創造にその起源があり、自分の経歴を完全に開始し、そして禁忌への違反—罪—が、人を後のひどい苦況に落しためたという考えを固めた。[9][10]
89:2.4 禁忌への常習的違反は、悪になった。原始の法は、悪を犯罪にした。宗教は、それを罪にした。初期の部族間での禁忌への違反は、犯罪と罪の結合したものであった。共同体の災難は、必ず部族の罪に対する罰と見なされた。見た目に明らかな邪悪な者の繁栄は、繁栄と正義は相伴うと信じる者達に大変な心配をもたらすしたので、禁制違反者への罰のために地獄を考案する必要があった。今後の罰のこれらの場所の数は、1ヶ所から5ヶ所と異なった。[11]
89:2.5 告白と許しの考えは、原始宗教に早くから登場した。人は翌週に犯すつもりの罪を公開の会合において許しを求めるのであった。告白は、単に赦免の儀式、しか 冒涜の公示、つまり「不浄、不浄」の叫びの儀式であった。つぎには、浄化の儀式的枠組のすべてが続いた。すべての古代民族が、これらの無意味な儀式を慣行した。初期部族の多くの明らかに衛生的慣習は、主に儀式的であった。[12]
89:3.1 断念は、宗教発展の次の段階として到来した。食を断つことは、一般的習慣であった。それは、やがて肉体的快楽の、特に性的種類の多くの型に先んずる習慣となった。断食の儀式は、多くの古代宗教に深く根づいており、事実上、すべての現代の神学的思索体系へと伝承してきた。[13]
89:3.2 未開人が、死者とともに財産を焼却したり埋葬する荒廃的習慣から立ち直ろうとしている頃、つまり人種の経済構造の形をなし始めている頃、この新しい断念の信仰教義が現れ、何万もの熱心な魂が、自ら貧困を求め始めた。財産は、精神的障害と見なされた。物質所有からくる精神の危険性に及ぶこれらの概念は、フィロンとパウーロスの時代に広範囲に受け入れられ、以来、ヨーロッパ哲学に著しく影響を及ぼした。[14]
89:3.3 貧困は、多くの宗教、とりわけキリスト教に関する書物や教えに盛り込まれるようになった苦行の儀式のほんの一部であった。苦行は、しばしばこの愚かな断念の儀式の否定の型である。しかしこのすべてが、未開人に自制を教え、またそれは、社会発展における価値ある前進であった。自己否定と自制は、初期の進化的宗教からの2大社会的利得であった。自制は、新しい人生哲学を人に与えた。それは、利己的満足の分子を増加させる試みの代わりに個人的要求の分母を低減することにより、人生の分数を増大させる芸術を人間に教えた。[15]
89:3.4 自己訓練のこれらの昔の考えは、鞭打ちや肉体的拷問の様々な種類を取り入れた。母信仰の聖職者は、自らが去勢を甘受し手本を示し、肉体的な苦しみの美徳を教えることに特に活発であった。ヘブライ人、ヒンズー教徒、仏教徒は、肉体的屈辱のこの教義の熱心な信者であった。
89:3.5 人間は、古代ずっと神の自制の原簿上に余分な貸し方記入においてこれらの方法を探求した。自己否定と苦行の誓いをたてることは、かつては何らかの情緒の緊張下における慣習であった。これらの誓いは、そのうちに、神との契約の型をとり、その意味で、神が、肉体のこの難行と屈辱の代償に何か明確なことをするはずだと考えられたがゆえに、真の進化の過程を意味した。誓いは、否定的でもあり、肯定的でもある。今日この有害で極端な自然の誓約が、インドの特定集団の間に最もよく観測される。
89:3.6 断念と屈辱の信仰が、性的満足に注意を向けたのは尤もなことであった。禁欲信仰は、戦争従事に先立つ兵士の間の儀式として生まれた。それは、後日、「聖者」の慣習になった。この信仰は、密通よりも単なる小悪であるという理由から結婚を黙認した。世界の重要な宗教の多くが、この古代信仰に著しく影響を受けてきたが、キリスト教が、何にもまして最も影響を受けてきた。使徒パウーロスは、この宗派の熱愛者であり、その個人的視点は、パウーロスがキリスト教神学に結びつけた教えに反映されている。「男が女に触れないのは良いことである。」「すべての人が私のようであればよいのに。」「私は、それ故、未婚者と未亡人に、私のようにしていさえすれば良い、と言う。」パウーロスは、そのような教えは、イエスの福音の一部でないことをよく知っていたし、これに関してのパウーロスの承認が、「私は命令によって話すのではなく、許可でこれを話す」というその声明によって例証されている。しかしこの信仰は、パウーロスを女性軽蔑へと導いた。一番残念なことは、パウーロスの個人的な意見が、重要な世界宗教の教えに長い間影響を及ぼしているということである。天幕造りの教師の忠告が文字通り、しかも広く順守されるならば、人類は、突然の、不名誉な終わりに至ったことであろう。その上、古代の禁欲礼賛との宗教のかかわり合いは、結婚と家庭との戦い、社会の本物の基礎と人間の進歩の基本的制度に直接通じる。そのような総ての信仰が、様々な民族の多くの宗教における独身司祭の形成を育んだということは驚きに当たらない。[16][17][18][19][20]
89:3.7 人は、いつの日か認可なくして自由を、暴食癖なくして栄養を、放蕩なくして快楽を享受する方法を学ぶべきである。自制は、人間の極端な自己否定であるよりも行動上の規制のためのより良い手段である。イエスもまた、決してこれらの無理な見解を追随者に教えなかった。
89:4.1 信仰心の一部としての生贄には、他の多くの信心深い儀式と同様に、単純かつただ唯一の源を持たなかった。権威に頭を下げたり、神秘の存在の前に信心深い敬愛でひれ伏す傾向は、その主の前の犬のへつらいに見られる。それは、崇拝の衝動から生贄行為への一歩に過ぎない。原始人は、自分が被った痛みにより生贄の値打ちを測った。最初に生贄に対する考え方が、宗教儀式に加わったとき、痛みを生じない捧げものは検討されなかった。最初の生贄は、毛を引き抜いたり、肉を切ったり切断したり、歯を叩き落したり、指を切除するような行為であった。生贄のこれらの粗野な考え方は、文明が進むにつれ自己犠牲、禁欲、断食、剥奪の儀式への段階へと、そして肉体の悲しみ、苦しみ、苦行を経る後のキリスト教義の清めへと高められた。
89:4.2 宗教発展の初期、生贄に関する2つの概念が存在した。感謝の気持の態度を意味する寄贈の生贄、そして贖いの考えを取り入れた負債の生贄の考え。その後、代替の概念が展開した。
89:4.3 さらにその後、人は、神への伝言持参人として機能するかもしれないいかなる自然をも生贄であると思いついた。それは、神の鼻孔に甘い味としてあるかもしれない。これが、生贄の馳走に発展し、その内にますます入念に飾り立てるようになる生贄儀式の香や他の美的特徴をもたらした。[21]
89:4.4 和解と宥めの生贄の儀式は、宗教が発展するにつれ回避、慰め、悪魔払いのより古い方法を差し換えた。
89:4.5 生贄の最も初期の考えは、先祖の霊に課せられる敵意のない査定の考えであった。償いの考えは、後にようやく展開した。人が人種の進化の起源の概念から逃がれるにつれ、つまり惑星王子時代の伝統とアダームの滞在が時とともに知れ渡るにつれ、罪と原罪の概念が、広範囲におよび、ゆえに偶発的、個人的な罪の生贄が、人種的な罪の償いに関する生贄の原理へと発展した。生贄の償いは、未知の神の憤りと嫉妬さえ覆い隠す総合保険手段であった。
89:4.6 多くのとても感情を害し易い霊と意地汚い神に囲まれた原始人は、すべての聖職者、儀式、それに精神的負債から救い出す全生涯を通じての生贄を必要とするそのような多くの債権者である神と直面した。原罪の、または人間の罪の教義は、生まれるすべての人を霊の力に対して由々しい負債を作らせた。
89:4.7 寄贈と賄賂は人に与えられる。しかし、神に供されるとき、それらは神聖に作られたとか、捧げられたとか描写されるか、または生贄と呼ばれる。断念は、宥めの消極的な形であった。生贄は、積極的な型になった。宥めの行為は、称賛、賛美、世辞、それに持てなしさえ盛り込んでいた。それは、神の崇拝の現代の形式を構成している昔の宥めの信仰の積極的なこれらの習慣の名残りである。崇拝の現代の型は、単にこれらの古代の生贄の積極的な宥めの手法の儀式化である。
89:4.8 動物の生贄は、現代種族にとってよりも原始人にとってはるかに意味深かった。これらの未開人は、動物を自分達の実際の、近い親類と見なした。人は、時の経過につれ作業用動物の贈呈をやめて生贄奉納において明敏になった。人は、当初は家畜を含むすべてのものの最上のものを生贄にした。[22]
89:4.9 あるエジプトの支配者が次のような生贄をしたと述べたとき、それは、空威張りではなかった。11万3,433人の奴隷、49万3,386頭の牛、88隻の船、2,756個の黄金の形象、33万1,702本の蜂蜜と油、22万8,380本の葡萄酒、68万714羽のガチョウ、674万4,428本のパン、574万352袋の硬貨。このために彼は、骨折って働く臣下に痛ましいほどに税をかけねばならなかった。
89:4.10 純然たる必要性が、神がその魂を味わった後、最終的に生贄の物質部分を食べるようにこれらの半未開人を追い立てた。この習慣は、古代の神聖な食事の、現代用語での聖餐式の見せかけによる大義名分を見つけた。[23]
89:5.1 初期の人食い習慣に対する現代の考え方は、完全に誤っている。それは、早期社会の慣習の一部であった。人食い習慣は、伝統的に現代文明にとっては身の毛もよだつものであるが、それは、原始社会の社会構造と宗教構造の一部であった。集団の利益が、人食い習慣の実践を決定した。それは、迷信と無知への奴隷状態ゆえに必要性の催促にそって成長し、持続した。それは、社会、経済、宗教、そして軍事上の習慣であった。
89:5.2 古代人は、人食い人種であった。古代人は、人肉を味わい、それゆえに霊と原始の神に食物の贈り物としてそれを捧げた。亡霊霊は、単に変性した人間であり、また食物は、人間の最大の必要物でる理由から、食物は、ひいては同様に霊の最大の必要物であったに違いない。
89:5.3 人食い習慣は、かつて進化的人種の間ではほとんど普遍的であった。サンギク系は、すべて人食いであったが、元々アンドン系はそうではなく、ノヅ系もアダーム系もそうではなかった。アンド系も、進化的人種との甚だしい混合が始まるまでそうではなかった。
89:5.4 人肉嗜好は、進む。飢餓、友情、報復、または宗教儀式で始まると、人肉を食することは、習慣的食人に移行する。人食いは、滅多にこれが基本的理由ではないものの、食料不足を経験して起こった。しかしながらエスキモーと初期のアンドン系は、飢饉の時を除いては、滅多に人食いはしなかった。赤色人種は、特に中米では、人食い人種であった。出産で失われる体力を更新する目的で自身の子供を殺して食べるのが、かつて原始の母にとっての一般的習慣であり、クイーンズランド州では、最初の子供は、今もなお頻繁にこのようにして殺され、むさぼり食われる。近代における人食いの習慣は、多くのアフリカ部族による戦争手段として、隣人を恐れさせる一種の恐怖として用いられてきた。
89:5.5 一定の人食い習慣は、一度は優勢の血統の退化から生じたが、それは、進化的人種の中ではほとんど一般的であった。人食いは、人間が、敵への激しく苦々しい感情を経験すると一度に起こった。人肉を食することは、報復の厳粛な儀式の一部になった。敵の亡霊は、破壊され得るか、または食べる人と融合できると信じられた。男性の魔法使いは、人肉を食することによりその力を得るということが、かつては広範囲におよぶ信仰であった。
89:5.6 ある人食い集団は、自身の部族の者、部族団結を強くすると考えられた擬似霊の同系交配だけを消費するのであった。しかし、彼らは、その強さを盗用する考えで報復のためにも敵を食べた。その身体が、食べられたならばそれは友人、または仲間の部族民の魂にとり名誉であると考えられ、一方で敵をむさぼり食うことは、敵への罰以外の何物でもなかった。未開人の心は、一貫性への何の見せかけもしなかった。
89:5.7 いくつかの部族の間では、老いた両親が、その子供に食べられようとしたのであった。近親者を食べることは、他の部族では控えるのが慣習であった、それらの体は売られるか、他人のものと交換された。殺戮の目的で肥育された女性と子供のかなりの取引きがあった。病気、もしくは戦争が、人口を抑え切れないときは、余剰人数は、あっさり食された。
89:5.8 人食い習慣は、次の影響のために徐々に消えつつある。
89:5.9 1. それは、共同儀式、仲間の部族民に死刑を課す共同責任の肩代りになることがあった。流血の罪悪感は、全員が、すなわち社会が参加するとき犯罪でなくなる。アジアの人食い習慣の最後は、処刑された犯罪者を食するこれであった。
89:5.10 2. それは、非常に早く宗教儀式になったが、亡霊への恐怖の増大が、人食い習慣の減少に常に作用したというわけではかった。
89:5.11 3. 最終的にはそれは、体の一部分あるいは器官、つまり魂もしくは霊の部分を有すると考えられるそれらの部分だけが食べられるという程度にまで進歩した。飲血が一般的になり、薬に体の「食べられる」部分を混合することが慣習であった。
89:5.12 4. それは、男性に限られるようになった。女性が、人肉を食べることは禁じられた。
89:5.13 5. 次には首長、聖職者、およびシャーマンに限られた。
89:5.14 6. その後、 それは、より高度の部族の間では禁制になった。人食いの禁制は、ダラマティアに始まり、ゆっくりと世界に広がった。かつては埋葬された体を掘り起こしそれを食べるのが一般的な習慣であったので、ノヅ系は、人食い習慣に対抗する方法として火葬を奨励した。
89:5.15 7. 人間の生贄は、死者の人食い習慣に弔鐘を鳴らした。人肉は、優れた人間、つまり首長の食物になり、ついにはさらに優れた霊のために取り置かれた。その結果人間の生贄の供え物が、最も劣る部族を除いては、人食い習慣を有効に終わらせた。人食いは、人間の生贄が完全に確立されて禁制となった。人肉は、神のためだけの食物であった。人は、わずかな儀式的小片、聖餐しか食べることができなかった。
89:5.16 最終的には動物が、生贄目的の一般的用途になり、またより後退した部族の間でさえも犬を食べることが、人食いを大いに減少させた。犬は、飼い馴らした最初の動物であり、食物としてもそれ自体高い評価で保持された。
89:6.1 人間の生贄は、人食い習慣の間接的結果でもあり、その解決策でもあった。決してこれらの死の生贄を食することが習慣ではないとき、霊世界への霊の護衛の提供はまた人食いの減少へと導いた。アンドン系、ノヅ系、アダーム系は、人食い習慣に最も耽けってはいない者であったが、いかなる人種も何らかの型における、またはいつかの時点において人間の生贄の習慣と完全に無関係ではなかった。
89:6.2 人間の生贄は、事実上普遍的特性である。それは、中国人、ヒンズー教徒、エジプト人、ヘブライ人、メソポタミア人、ギリシア人、ローマ人、および他の多くの民族の宗教慣習に存続し、アフリカやオーストラリアの進歩の遅い部族の間で最近に至ってまでも存続した。後のアメリカ先住民には、人食い習慣からの新生する文明があり、したがって、人間の生贄に浸った。特に中米と南米において。動物をその代用にし、通常時の人間の生贄を最初に断念したのはカルデア人であった。およそ2,000年前、心の優しい日本の天皇は、人間の生贄の代わりをする埴輪を導入したが、北ヨーロッパでこれらの生贄が立ち消えになるのは、1,000年足らずも前のことである。人間の生贄は、進歩の遅いある部族においては一種の宗教的あるいは儀式的な志願者による自殺がまだ続けられている。あるシャーマンは、以前ある部族の非常に尊敬される一老人の生贄を命じた。人々は、反抗した。従おうとしなかった。するとこの老人は、自分の息子をシャーマンに殺させた。古代人は、この習慣を信じ切っていた。[24]
89:6.3 古代の、昔ながらの宗教習慣と前進的文明の正反対の要求の間の心を引き裂く争いの例証となる記録上のイフサーと一人娘のヘブライの物語より悲惨で哀れな経験はない。この善意の男性は、一般の習慣通り愚かな誓いをし、敵への勝利に対しある代償を支払うことに同意し、「戦いの神」と掛け合ってしまった。この代償とは、この男性が、自宅に帰り着くと、迎えに最初に家から出て来た者を生贄にするというものであった。イフサーは、信頼できる奴隷の一人が、迎えを務めるものと思っていたのだが、自分の娘の、しかも一粒種が、喜んで自分の帰宅を迎えるために出て来たのであった。そのため、そんな後の時代でさえも、しかも一応は文明的民族の間においてさえ、この美しい乙女は、その運命を悲しむ2カ月後に、実際にその父により、また仲間の部族民の賛意をもって人間の生贄として捧げられた。このすべてが、人間の生贄奉納に対するモーシェの厳しい裁定にもかかわらず為されたのであった。しかし男女は、愚かで不必要な誓いをたてることに耽け、また、老人は、そのようなすべての誓約を非常に神聖であると信じられた。[25][26]
89:6.4 昔はいかなる重要な建築が新たに開始されるときも、「礎の生贄」として人間を殺すのが通例であった。これが、営造物を監視し、保護するための亡霊の霊を提供した。中国人は、鐘の鋳造の準備に際し、風習上少なくとも少女1人が、鐘の音を良くする目的のために生贄に命じられた。選ばれた少女は、溶融した金属の中に生きながらに投じられた。[27]
89:6.5 重要な壁に生きた奴隷を組み入れることが多くの集団の長い間の習慣であった。北ヨーロッパ部族は、後代に新しい建物の壁に生きている人間を葬るこの習慣の替わりに通行人の影を壁の中に置き換えた。中国人は、建設中に死亡したそれらの労働者を壁の中に葬った。
89:6.6 パレスチナの小領土の王は、イェリーホの城壁の構築に当たり、「長子アビラムでその地盤を築き、最年少の息子セグブでその門を組み立てた。」そのような時代にさえ、この父は、その都の門の土台の穴に2人の息子を生きたまま置いたばかりでなく、その行為も「主の言葉の通りに」したと記録されている。モーシェは、これらの礎の生贄を禁じたが、イスラエル人は、モーシェの死後すぐにこの生贄に戻った。新建築物の礎石に小さな装身具と形見の品を埋蔵する20世紀の儀式は、原始の礎の生贄の名残りである。[28][29]
89:6.7 霊に初物の果実を捧げるのは、多くの民族の長い間の慣習であった。現在では大なり小なり象徴的であるこれらのしきたりは、人間の生贄に関わる早期の儀式すべての遺物である。生贄として長子を捧げる考えは、古代人、特にそれを諦めた最後の者であるフェニキア人の間で普及していた。かつては生贄に際して「命には命」と言われていた。今死に際しては「塵から塵へ」と言う。[30][31]
89:6.8 息子イサクを生贄にと強いたアブラーハームの姿は、文化的感受性には衝撃を与えるが、当時の人間には新しくも奇妙でもない考えであった。父親にとり長子の息子を生贄にすることは、大きな情緒的圧迫下での長い間の一般的習慣であった。並はずれの、または珍しい何かが起こるとき、人間の生贄を提供するのが必要であるという世界規模での深遠な信仰がかつて存在したことから多くの民族には、この話に類似する言い伝えがある。[32]
89:7.1 モーシェは、代わりとして受け戻しの開始により人間の生贄を打ち切らせようとした。民が軽率で愚かな誓いからの最悪な結果の回避を可能にする系統的な計画を立てた。聖職者に支払うべき制定された料金に従い、土地、財産、および子供を身請けすることができた。長子の生贄をやめたそれらの集団は、残虐行為を続けたあまり進歩的でない隣人よりもかなりの利点をすぐに得た。そのような多くの後進的部族は、この息子損失により大いに弱体化したばかりでなく、指導者継承さえもしばしば中断した。[33][34][35]
89:7.2 一時的な子供の生贄の自然の産物は、長子保護のために家の側柱に血を塗りつける習慣であった。これは、1年の神聖な祝宴の1つと絡めてしばしば行われ、しかもこの儀式は、かつてメキシコからエジプトまでの世界のほとんどで行なわれていた。[36]
89:7.3 ほとんどの集団が、子供殺害の儀式をやめた後でさえ、遠く荒野に、または水上の小舟の中に幼児を独り置き去りにするのが習慣であった。もし子供が生き残ったならば、神が、サーゴーン、モーシェ、キーロス、ロームルスの伝統のように、子供の保護に介入したと考えられた。間もなく、長子の息子を成長させ、死の代わりに追放し、神聖であるとして、または生贄として捧げる習慣が到来した。これが、植民地化の起源であった。ローマ人は、植民地化の計画におけるこの習慣を固く守った。[37]
89:7.4 原始崇拝と独特の性のだらしなさとの多くの結びつきは、人間の生贄とにその起源があった。女性は、昔首狩り人に出会ったならば、性的降伏により自分の生命を救うことができたのであった。その後、生贄として神に奉納される少女は、寺の神聖な性の奉仕のために身体を捧げることで、自分の生命の救いを選ぶことができた。この方法で自分の買い戻しの金を得ることができた。古代人は、このようにして自分の命の贖いに従事する女性と性関係を持つことを極めて高揚的であるとみなした。それは、神聖な少女と付き合う宗教儀式であり、さらに、この儀式全体は、平凡な性的満足感への無難な口実を提供した。これは、少女達とその相手の双方が、自らに実践する微かな自己欺瞞の種であった。慣習は、文明の段階的進歩において常に遅れをとり、その結果、進化的人種の初期の、 しかもより野蛮な性の慣習を是認した。
89:7.5 寺の売春は、ついには南ヨーロッパとアジア全体に広まった。寺の売春婦から得た金は、すべての民族の間で神聖—神への気高い進物—であると考えられた。最高の型の女性が、寺の性市場に群がり、その収益をすべての神聖な奉仕と公的利益の仕事の捧げた。上流階級の女性の多くは、寺での暫定的な性の接客業により結婚持参金を集め、ほとんどの男性が、そのような女性を妻に持つことを好んだ。
89:8.1 犠牲の贖いと寺の売春は、実際には人間の生贄の変形であった。次いで娘達の見せかけの生贄が、登場した。この儀式は、流血と生涯純血の誓いからなり、昔の寺の売春への道徳的反応であった。最近では、処女達は、神聖な寺の火の番の仕事に専念した。
89:8.2 人間は、ついには体のある部分の提供は、 昔の、しかも純然たる人間の生贄の代理でありうるという考えを思いついた。また、肉体切断は、受け入れのできる代替えであると考えられた。毛髪、爪、血液、そして指さえもが、生贄にされた。後の、またほとんどの古代の一般的儀式は、部分的な生贄の宗教慣習の結果であった。それは、純粋に生贄的であり、それに対する衛生上の考えはなかった。男性は割礼を施された。女性は耳に穴を開けられた。[38]
89:8.3 その後切断の代わりに指をまとめて縛ることが、習慣になった。頭を剃り髪を切るのは、同じく信仰心の型であった。去勢行為は、当初は人間の生贄の考え方への変形であった。鼻と唇に穴を開けることは、今でもアフリカで実行されており、入れ墨は、初期の残酷に体に傷跡を残すことからの芸術的発展である。
89:8.4 生贄の習慣は、ついには進歩的教育の結果、契約の考えに後押しされた。神は、とうとう人間との本当の契約に入ると考えられた。そしてこれは、宗教の安定化における重要な一歩であった。法、つまり契約が、運、恐怖、迷信に取って代わる。[39]
89:8.5 人は、神についての概念において、宇宙の管理者が、信頼できると心に描かれる段階に達するまでは、決して神との契約締結を夢にみることさえできなかった。神に関する人の初期の考えは、非常に擬人化したものであったがゆえに、人間自身が、比較的信頼でき、道徳的であり、倫理的になるまでは、信頼できる神を想像することができなかった。
89:8.6 ところが、神と契約をする考え方が、ついに遂に到着した。進化的人間は、あえて神との取り引きをするというそのような道徳上の尊厳をついに習得した。したがって、生贄奉納は、徐々に人の神との哲学的取り引きの目標へと発展した。このすべてが、不運から守る新たな手段、もしくは繁栄のより明確な購買のためのむしろ高められた新たな方法を意味した。これらの初期の生贄は、神への無料の贈り物、自発的な報恩の、あるいは感謝の捧げ物であったという間違った考えを抱いてはいけない。それらは、真の崇拝表現ではなかった。
89:8.7 原始の祈りの型は、霊との取り引き、神との議論に他ならなかった。それは、懇願と説得が、 より具体的で高価な何かに置き換えられる一種の物々交換であった。人種の開発途上の通商は、商業の霊に熱心に説き聞かせ、物々交換の抜け目なさを展開した。今、これらの特色は、人の崇拝方法に現れ始めた。そしてある者は、他者より優れた商人であったように、ある者は、他者より優れた祈り人と見なされた。公明正大な者の祈りは、重んじられた。公明正大な者は、神にあらゆる儀式の義務を完全に放出し、すべての負債を霊に支払う者であった。[40]
89:8.8 初期の祈りは、崇拝とは言いがたかった。それは、健康、富、命のための取り引きの陳情であった。祈りは、あらゆる点において時代の経過における変化があまりなかった。それらは、いまだに本から読まれており、堅苦しく朗唱され、回転礼拝器に定置するために、そして木に掛けるために完全に書き出され、そこでは、吹く風が、人自らの呼吸の消費の手間を省くであろう。
89:9.1 人間の生贄は、ユランチアの儀式の発展過程において人食いの流血の領域からより高度の、より象徴的な段階へと進んだ。初期の生贄儀式は、後の聖餐式を作り出した。最近では、聖職者だけが、人食い的生贄を少量摂取し、あるいは人間の血を摂取し、その後は、全員が、動物の代用品を食するのであった。身代金、贖い、および契約のこれらの初期の考えは、近代の聖餐式に発展していった。そして、このすべての儀式の発展が、強力な社交的影響を揮った。
89:9.2 神の母信仰に関し、最終的にはケーキと葡萄酒の聖餐式が、人間の昔の生贄の肉と血の代わりにメキシコと他の場所において用いられた。ヘブライ人は、長い間過ぎ越しの祭式の一部としてこの儀式を執り行ない、また聖餐式の後のキリスト教徒版が、その起源を取ったのはこの儀式からであった。
89:9.3 古代の社会的同胞愛は、血液飲酒の儀礼に基づいた。初期のユダヤ人の友愛関係は、血液の生贄的行為に基づくものであった。パウーロスは、「永遠の契約の血」に基づき新しいキリストの信仰の建設に取り掛かった。かれは、血と生贄に関する教えで不必要にキリスト教を苦しめたかもしれないが、人間、あるいは動物の生贄による贖いの主義をきっぱりと終わらせた。その神学上の妥協は、顕示さえも進化の段階的調整に応じなければならないということを示唆している。パウーロスの言うところによれば、クリストスは最後の、そして全て十分な人間の生贄になった。神性の審判者は、いま完全に、永遠に満足している。[41][42]
89:9.4 そのため、生贄の信仰は、長い時代の後に聖餐式の信仰に発展していった。したがって現代宗教の聖餐式は、人間の生贄の衝撃的なそれらの初期の儀式と、加えてそれよりも以前の人食儀式の合法的後継者である。多くの者が、まだ救済を血に頼っているが、それは少なくとも比喩的、象徴的、神秘的になった。[43]
89:10.1 古代人は、生贄を介して神に気に入られる意識に到達したに過ぎない。現代人は、救済への自意識を得る新方法を発達させなければならない。罪の意識は、人間の心に持続するが、そこから救済の思考形態は、古臭く時代遅れになった。精神面での必要性の現実は、持続しているが、知的面での進歩は、心と魂のための平和と安らぎを保証する昔の方法を破壊してしまった。
89:10.2 罪は、神格への意図的背信と再定義されなければならない。背信には度合いがある。優柔不断の不完全な忠誠心。分割された矛盾の忠誠心。死につつある無関心の忠誠心。そして、神を信じないた理想へ強い愛着に示される死の忠誠心。
89:10.3 罪の感覚や自覚は、社会習慣への違反の意識である。必ずしも罪ではない。神格への意識的背信の不在に真の罪はない。
89:10.4 罪意識に対する認識の可能性は、人類にとっての優れた特徴の印である。それは、人を手法として印さず、むしろ潜在的偉大さと絶えず上昇する栄光の被創造物として際立たせる。そのような無価値の感覚は、人間の心を道徳的高潔さ、宇宙洞察、精神的生活の堂々たる段階に移す信仰征服にすぐに、しかも確実に導くべき最初の刺激である。人間存在のすべての意味は、束の間から永遠へと変えられ、すべての価値は、人間から神へと高められる。
89:10.5 罪の告白は、背信の断固たる拒否であるが、それは、決してそのような背信の時間-空間の因果関係を緩和しない。だが、告白—罪の本質の偽りのない認識—は、宗教上の成長と精神上の進歩に不可欠である。
89:10.6 神格による罪の許しは、意識的反逆の結果としてのそのような関係の消滅についての人間の意識の期間の後の忠誠関係の回復である。許しは、求められる必要はなく、被創造者と創造者との忠誠関係の再構築意識として受け取られるだけある。そして、神のすべての忠誠な息子は、幸福であり、奉仕を愛し、楽園上向において絶えず進歩している。
89:10.7 [ネバドンの輝かしい宵の明星による提示]