96:0.1 人間は、神格の概念を思い描くに当たり、まずすべての神を含み、次には部族の神にすべての外国の神を従属させ、やがて最後に、最終かつ最高の価値の一柱の神以外の全てを除外する。ユダヤ人は、思い描くすべての神をイスラエルの自分達の主なる神のより高尚な概念に統合した。同様にヒンズー教徒は、リグヴェーダに描かれている「神々の一精神性」 へと自分達の多種多様の神を結合させ、一方、メソポタミアの住民は、自分達の神々をベルメロダクのより集中された概念に縮小させた。一神教のこれらの考えは、メルキゼデクのマキヴェンタが、パレスチナのシャレイムに登場してから間もなく世界中で円熟した。だがメルキゼデクの神格についての概念は、包括、従属、および排斥の進化的哲学のそれとは異なっていた。それは、それ専ら創造力に基づいて形成され、メソポタミア、インド、エジプトの最高度の神の概念にすぐに影響を及ぼした。
96:0.2 シャレイム宗教は、ケニーテ人と他の幾つかのケナーアン部族による伝統として崇敬された。これは、メルキゼデクの肉体化の目的の1つであった。つまり1神の宗教は、その1神の息子の地球での贈与への道に備えるように育成されるべきであるということ。マイケルは、かれが現れることができる民族、つまり宇宙なる父を信じる民族が存在するまで、ユランチアにはとても来ることはできなかった。
96:0.3 シャレイム宗教は、教義としてパレスチナのケニーテ人のあいだで持続し、この宗教は、後にヘブライ人に採用されたように、まずは、エジプト人の道徳指導に影響された。その後、バビロニアの神学思想によって。そしてついには、善と悪のイラン人の概念によって。ヘブライ宗教は、実際アブラーハームとマキヴェンタ・メルキゼデクの間の盟約に基づいており、進化的には多くの独自の環境状況の結果であるが、文化的にはレヴァント地方の宗教、道徳、哲学から自由に借りてきた。エジプト、メソポタミア、イランの道徳や宗教的考えの多くが、西洋民族に伝えられたのはヘブライ宗教を通してのことである。[1]
96:1.1 初期のセム族は、すべてを霊が宿るものと見なした。動物と植物界の霊があり、年毎の霊や子孫の主人があり、火、水、空気の霊があり、恐れられ崇められるべき紛れもない霊の殿堂があった。そして、宇宙の創造者に関するメルキゼデクの教えは、これらの従属的霊を、または自然神への信仰を決して完全に破壊したというわけではなかった。
96:1.2 多神教から単一神教を経て一神教へのヘブライ人の進歩は、不屈で連続した概念的発展ではなかった。神性の概念の進化において多くの退歩を経験したが、どの時代にもセム族信者の異集団のあいだには神についての種々の考えが存在した。時々、数々の用語が神の概念に適用され、また、混乱を防ぐためにこれらの様々な神格の称号は、ユダヤ教の神学の発展に関係があるように定義されるであろう。
96:1.3 1.ヤハウェは、南パレスチナ部族の神であり、その部族は、神のこの概念をシナイ火山のホレーブ山に関連づけた。ヤハウェは、セム部族とその民族が注目し、崇拝を要求をした何百、何千もの自然神の中の単なる1神であった。[2]
96:1.4 2. エル・エリョン。メルキゼデクのシャレイム滞在後の数世紀の間、メルキゼデクの神の教理は、様々な異説を持ち続けたが、一般に、用語エル・エリョン、天のいと高き神の名によって表現された。アブラーハームのすぐ次の子孫を含む多くのセム族は、ヤハウェとエル・エリョンの双方をさまざまな時期に崇拝した。[3]
96:1.5 3. エル・シャッダイ。エル シャッダイが何を意味するのかについての説明は難しい。神についてのこの考えは、アメネモペの知恵の書の教えから派生し、アトンに関するイフナトンの教理により変更され、エル・エリョンの概念に表現されるメルキゼデクの教えによってさらに影響を受けた混成物であった。しかし、エル シャッダイの概念がヘブライの心に浸透すると、それは、すっかり砂漠のヤハウェ信仰に彩色されるようになった。[4]
96:1.6 この時代の宗教の支配観念の1つは、神の摂理に関するエジプト人の概念は、すなわち物質的繁栄は、エル シャッダイへの奉仕に対する報酬であるという教えであった。
96:1.7 4. エル。用語に関するすべてのこの混乱と概念の不明瞭さの真ん中にあって多くの敬虔な信者は、神性のすべての発展的考えのすべてを心から崇拝しようと努力し、この合成神をエルと呼ぶ習慣が行き渡った。そして、この用語は、さらにベドゥインの他の自然神を包含した。[5]
96:1.8 5. エロヒーム。長い間キシュとウールにはアダームとメルキゼデク時代の伝統に基づいて設立された3柱の中の1柱の神の概念を教えたシュメール系カルデア人集団が、存続した。この教理はエジプトへと届き、そこにおいてこの三位一体は、エロヒーム、または、単数でエロアーの名で崇拝されていた。エジプトの哲学集団とヘブライ系のアレクサンドリアの後の教師達は、多元的な神のこの統一を教え、また、脱出時のモーシェの顧問の多くが、この三位一体を信じた。しかし、三位一体のエロヒームの概念は、バビロニア人の政治的影響を受けるまで決してヘブライ神学の実部にはならなかった。[6]
96:1.9 6. 種々様々の名前。セム族は、神の名を口に出すことを嫌がり、したがって、その時々に次のような数多くの称号に頼った。神の霊、主、主の天使、全能者、聖なるもの、いと高きもの、アドーナイ、高齢者達、イスラエルの主なる神、天地の創造者、キーリオス、ヤー、万軍の主、天の父。[7]
96:1.10 イェホヴァは、ヘブライの長い存在においてようやく展開したヤハウェの完成された概念を表すために近代において使われてきた用語である。しかし、イェホヴァという名前は、イエスの時代から1,500年後まで慣例とはならなかった。[8]
96:1.11 紀元前およそ2,000年まで、シナイ山は、火山として断続的に活動しており、この地帯でのイスラエル人の滞在時まで、時おり爆発が起きていた。火と煙は、この火山噴火に関連した雷のような爆発音とともに、すべてが、周辺地域のベドゥインを感銘させ、恐れさせもし、またヤハウェを大いに恐れさせる結果となった。ホレーブ山のこの霊は、後にヘブライ人のセム族の神になり、ヘブライ人のセム族は、ついには、この神が他のすべての神の上にあって最高であると信じた。
96:1.12 ケナーアン人は、長い間ヤハウェを崇敬し、またケニーテ人の多くは多かれ少なかれエル・エリョン、シャレイム宗教の超越的な神を信じたが、ケナーアン人の大多数は、漠然と昔の部族神の崇拝を固守した。かれらは、惑星的とは言えないまでも国際的な神のために、決して自分達の国家の神を進んで捨てようとはしなかった。ケナーアン人は、普遍的な神に関心がなく、したがって、これらの部族は、ヤハウェと、それにベドゥイン牧夫のシナイ火山の霊の概念を象徴する銀色と金色の子牛を含む部族神を崇拝し続けた。
96:1.13 シリア人は、自分達の神を崇拝しつつ、ヘブライ人のヤハウェも信じた。というのは、シリア人の予言者が、シリア人の王に次のように言ったからであった。「かれらの神は丘の神です。だから、我々よりも強かったのです。しかしながら、平野でかれらと戦うならば、私達の方がきっと強いでしょう。」[9]
96:1.14 人が文化的に進むにつれ、より重要でない神は、最高の神の次にされる。偉大なジュッピターは、単に感嘆だけとして持続する。一神教信者は、彼らの従属的な神を霊、悪霊、運命の三女神、ネレイス、妖精、ブラウニー、小人、バンシー、および邪眼として守っている。ヘブライ人は、単一神教を経験し、長い間ヤハウェ以外の神々の存在を信じたが、これらの外国神は、ますますヤハウェに従属するものであると考えた。彼らは、アモル人の神であるケモシュの実在を認めたが、彼はヤハウェに従属すると主張した。
96:1.15 ヤハウェについての考えは、神についての人間のすべての理論の最も大規模な発展を経た。その進歩的発展は、アジアでの仏陀の概念の変化にのみ比較することができる。アジアでの仏陀の概念は、ヤハウェの概念が最終的に宇宙なる父の考えにつながるように、最後には宇宙の絶対者の概念に導いた。しかし、歴史的事実の問題として、ユダヤ人がホレーブ山の部族神から後の時代の愛情に満ち慈悲深い創造者の父へと神への視点をこのように変えたにもかかわらず、かれらは、神の名前を変えなかったということが理解されるべきである。彼らは常に神のこの発展する概念を、ヤハウェと呼び続けた。
96:2.1 東洋のセム族は、肥沃な半月地域の東の領域に侵入したよく組織化され、よく統率された馬の乗り手であり、バビロニア人と結合した。ウル近くのカルデア人は、東方のセム族のなかで最も高度であった。フェニキア人は、地中海沿岸に位置するパレスチナの西の区域を保持する優秀でよく組織化された混血セム族集団であった。セム族は、世界の9人種のほとんど総てからの遺伝的要素を有するユランチア民族のなかでも最も混合した者達の中にあった。
96:2.2 アラビアのセム族は、再三北の約束の地へと、「乳と蜜のあふれた」土地へと血路を開いたが、しばしばより組織化され高度に文明化した北のセム族とヘティテ人に排除された。後に、これらの流浪のベドゥイン族は、異常に苛酷な飢饉の間、エジプトの公共事業の契約労働者として大量にエジプトに入ったが、結果的には、ナイル渓谷の普通の、虐げられた労働者の厳しい日々の労役において奴隷状態の苦い経験をしたに過ぎなかった。[10]
96:2.3 セム族のある部族が、独自の信仰のためにイスラエルの、後のヘブライ人、ユダヤ人、および「神の選民」の子孫が召集されたのは、メルキゼデクのマキヴェンタ とアブラーハームの時代の直後であった。アブラーハームは、全ヘブライ人の人種上の父ではなかった。かれは、エジプトで捕虜になった総てのベドゥインのセム族の先祖でさえなかった。いかにも、エジプトから来た彼の子孫は後のユダヤ人の母体を形成はしたものの、イスラエルの一族に取り入れられるようになった男女の圧倒的多数は、エジプトに一度も滞在したことはなかった。彼らは、アブラーハームの子孫とそのセム族の仲間がエジプトから北アラビア経由で旅をしたようにモーシェの統率力に従うことを選んだ単なる遊牧民の仲間であった。[11][12][13][14]
96:2.4 いと高きものであるエル・エリョンに関するメルキゼデクの教えと信仰を通じての神の恩恵の盟約は、まもなくヘブライ国家を形成するセム系民族のエジプト人の奴隷時代までには大部分が忘れられていた。しかし、これらのアラビア遊牧民は、捕らわれのこの期間を通して自らの人種の神としてのヤハウェへの残存する伝統的信仰を維持した。
96:2.5 ヤハウェは、100以上の個々のアラビア部族に崇拝されており、また、ヘブライ人の奴隷捕虜の中の庶民の宗教は、ヘブライ人とエジプト人の混合の血統を含むエジプトのより教育された階級の中に固執したメルキゼデクのエル エリョンの概念の色合いを除いては、魔術と犠牲の古いヤハウェの儀式の修正版であった。
96:3.1 至上の創造者についてのヘブライの概念と理想の進化の始まりは、偉大な指導者、教師、またまとめ役であるモーシェのセム族のエジプトからの出発に遡る。モーシェの母は、エジプト王室の出であった。父は、政府とベドゥインの捕虜の間のセム人の連絡員であった。モーシェには、その結果、優れた人種の源から得られる特質があった。祖先は大いに混合されたので、いかなる1つの人種集団に類別することは不可能である。モーシェは、この混合型でなかったならば、その指導力の下にエジプトからアラビア砂漠へと逃れたそれらのベドゥイン系のセム族と徐々に結びつくようになる雑多な大群の管理を可能にしたその異例の多才と順応性を決して見せなかったであろう。[15]
96:3.2 ナイル王国の文化の誘惑にもかかわらず、モーシェは、父の民と運命を共にすることを選んだ。この偉大なまとめ役が、父の民のきたるべく解放のための計画を立てているとき、ベドゥインの捕虜には宗教の名に相応しいものはほとんどなかった。それらは事実上、真の神の概念をもたず、世界に望みももっていなかった。
96:3.3 これまで指導者は誰一人として、見放され、うちひしがれ、悄然とした無知な人間集団を改革し高めることを引き受けなかった。しかしこれらの奴隷は、遺伝的傾向に隠れた発展の可能性を持ち、しかも、解放のための反乱と攻撃の日に備えて有能な組織者軍団の構成のためにモーシェの指導をうけてきた教育のある十分な数の指導者がいた。これらの優れた者達は、自国の民の監督者として雇われた。かれらは、エジプトの支配者らへのモーシェの尽力により何らかの教育を受けていた。
96:3.4 モーシェは、仲間のセム族の自由のために外交交渉努力を払った。モーシェとその兄は、彼らがアラビア砂漠へ向けてナイル渓谷を平和的に去る許可をえるためにエジプト王との協定締結に入った。エジプトでの長年の奉仕の印にささやかな金品の支払いを受け取ることになった。ヘブライ人側は、ファラオとの友好関係を維持し、エジプトに対しいかなる同盟にも参加しない契約を結んだ。しかし、王は後に、自分の間者が、ベドゥインの奴隷の間に不忠実を発見したという口実を理由にこの条約を無効にしようと決めた。王は、ベドゥインの奴隷は、砂漠に入り、エジプトに背いて遊牧民を組織化するための自由を求めていると主張した。
96:3.5 だが、モーシェは落胆しなかった。好機の到来を待ち、そして、1年足らずで、エジプト兵力が、リビアの南からの強い襲撃とギリシア海軍の北からの侵入の同時の猛攻撃に対し全力で抵抗している隙に、この大胆な組織者は、目覚ましい夜間の脱出でエジプトから同胞を連れ出した。自由のためのこの突進は、慎重に計画され巧みに実行された。ファラオと全滅した少人数のエジプト集団が激しく追跡したにもかかわらず、彼らには多くの戦利品がもたらされ、戦利品の全ては、先祖の砂漠の家に向けて行進する間に前進する逃亡奴隷の集団の略奪品は増大し、かれらは成功した。[16]
96:4.1 モーシェの教えの進化と高揚は、全世界のほぼ半分に影響を及ぼしてきており、20世紀においてでさえもまだそうである。モーシェがより高度なエジプトの宗教哲学を理解する一方、ベドゥインの奴隷は、そのような教えをあまり知らなかったものの、先祖がヤハウェと呼んだホレーブ山の神を決して完全に忘れたことはなかった。
96:4.2 王の血筋の女性と捕虜の部族の男性の間の異例の結合に対する説明は、信仰の共通性であり、モーシェは、父母の双方からメルキゼデクのマキヴェンタの教えについて聞いていた。モーシェの舅は、ケニーテ人のエル・エリョンの崇拝者であったが、この解放者の両親は、エル・シャッダイの信者であった。モーシェは、その結果、エル・シャッダイ教徒として教育され、舅の影響で、エル・エリョン教徒になった。エジプト脱出後シナイ山周辺でのヘブライ人の露営の頃までには、モーシェは、神格(自分のすべてのかつての信仰に由来する) の新しくて拡大した概念を明確の述べ、そして賢明にも自分達の昔の部族神ヤハウェの拡張された概念として民に宣言することを決めた 。
96:4.3 モーシェは、エル エリョンについての考えをこれらのベドゥインに教えようと努力をしていたのだが、皆はこの教理を決して完全には理解しないであろうとエジプトを去る前に確信するようになった。したがって、意図的に自分達の砂漠の部族神をかれの追随者の唯一無二の神として妥協的に採用することとした。モーシェは、他の民族と国には他の神がいるかもしれないとは明確には教えなかったが、決然として、ヤハウェは、すべてを越えて上に位置するということを、特にヘブライ人に主張した。しかし、かれは、ベドゥイン部族の黄金色の子牛にずっと象徴されてきた古代の用語ヤハウェの名の下に、神に関する新しくより高度の自分の考えをこれらの無知な奴隷に提示しようとしている厄介な困難にいつも悩んでいた。
96:4.4 ヤハウェが逃亡するヘブライ人の神であったという事実は、シナイの聖なる山の前になぜそれほど長い間滞在したのか、また、モーシェがホレーブの神であるヤハウェの名にかけて公表した十戒をなぜそこで受けたかを説明している。シナイの前でのこの長い滞在中、新しく進化するヘブライ人の崇拝の宗教儀式がさらに仕上げられた。
96:4.5 その麓での信仰深い滞在の3週目にホレーブの激しい爆発が無かったならば、モーシェには、いくらか進んだ儀式的崇拝の確立と追随者を四半世紀の間維持することにおいてそもそも成功していたとは思えない。「ヤハウェの山は火に焼きつくされ、煙は炉の煙のように昇り、山全体は激しく揺れた。」この大災害を目にしたことで、彼らの神が、「強力で、凄まじく、むさぼり食う炎、恐ろしく全能で」あるという教えでモーシェが同胞を印象づけることができたということは驚きではない。[17][18]
96:4.6 モーシェは、ヤハウェが、選民としてヘブライ人を特定したイスラエルの主なる神であると宣言した。モーシェは、新しい国を建設しつつあり、ヤハウェが厳しい現場監督、「嫉妬する神」であると追随者に伝え、宗教についての自分の教えを賢明に全国的にした。しかし、かれが、ヤハウェは、「すべての肉なるもののすべての精神の神」であると教えたとき、また「とこしえの神はあなたがたの避難所であり、下には永遠の腕がある。」と言ったとき、かれは、神格の概念を拡大しようとしたのであった。モーシェは、ヤハウェは契約を守る神であることを教えた。また、神は「あなた方を見捨てず、滅ぼしもせず、あなた方の先祖との盟約を忘れない。なぜなら、主はあなた方を愛しており、あなた方の先祖に誓った約束を忘れないから。」と教えた[19][20][21][22]
96:4.7 「真実で不正のない神、その道は公正で正しい」と神を提示したとき、モーシェは、ヤハウェを最高の神格の高位に掲げる雄々しい努力をした。それでいて、この気高い教えにもかかわらず、追随者の有限の理解力の理由から、人の姿での神であり、発作的に怒り、復讐し、厳しさをもつものとして、さらには執念深くて人の行為に容易に影響されるものとして神を語る必要があった。[23]
96:4.8 モーシェの教えの下に、この部族の自然神ヤハウェは、荒野を通り抜け、放浪の身にあるその民の後を追い、やがてはそこで、すべての民族の神として思い描かれるイスラエルの主なる神となった。ユダヤ人を奴隷にしたバビロンでの後の監禁が、万国の神の一神教の役割を引き受けるヤハウェの発展概念を遂に自由にした。
96:4.9 ヘブライ人の宗教歴史の最も特異で驚くべき特徴は、ホレーブ山の原始の神から歴代の精神的指導者の教えを経て、愛と慈悲深い創造者なる父のすばらしい概念を宣言したイザヤのもつ神格教理に表現される高水準の発展への神に関するこの連続的進化に関係がある。
96:5.1 モーシェは、軍の指導者、社会の組織者、宗教の教師の並はずれた結合体であった。かれは、マキヴェンタとイエスの時代の間の最も重要な個人の世界的な教師であり指導者であった。モーシェは、イスラエルに記録には残されていない多くの改革を取り入れようとした。一生の間に、モーシェは、1国家のその後の誕生と1人種の恒久化のための地盤を築くとともに、いわゆるヘブライ人の多言語の群衆を奴隷の身分、そして文明から隔絶した流浪の身分から導いた。
96:5.2 脱出の時代ヘブライ人には何の文字言語もなかったが故に、モーシェの偉大な働きに関わる記録はあまり無い。その時代とモーシェの行為についての記録は、偉大な実力者の死の1,000年以上も後に現存する伝統からきている。
96:5.3 エジプト人と周辺地域のレヴァント部族の宗教にモーシェが与えた進歩の多くは、メルキゼデクの時代のケニーテ人の伝統によるものであった。アブラーハームとその同時代人へのマキヴェンタの教えがなければ、ヘブライ人は、絶望的にエジプトから暗闇に出て来たことであろう。モーシェと舅のイスロは、メルキゼデク時代の伝統の名残りを収集し、エジプト人の学習に接合されたこれらの教えは、イスラエル人の改善された宗教と儀式の創造においてモーシェを導いた。モーシェはまとめ役であった。彼は、エジプトとパレスチナの宗教としきたりの最良のものを選択し、これらの習慣をメルキゼデクの教えの伝統に結びつけ、ヘブライの崇拝の儀式的体系を組織化した。
96:5.4 モーシェは、神の摂理の信者であった。かれは、ナイル川の超自然の支配と自然の他の要素に関するエジプトの教理に徹底的に染まるようになった。神に関する立派な洞察力を持ってはいたが、皆が神に従うならば「神はあなたを愛し、あなたを祝福し、あなたを増やす」とヘブライ人に教えたとき、モーシェは、全く真剣であった。神はあなたの子宮から生まれるもの、地の産物—穀物、ブドウ酒、油、家畜—を増やすであろう。「あなたは、すべての国々の民の中で最も栄え、あなたの神、主は、あなたからすべての病を取り除き、エジプトの悪疫の何一つとてあなたにもたらしはしないであろう。」とさらに言った。「富を得る力をあなたに与えるのはあの方なのであるから、あなたの神、主を心に据えなさい。」「あなたは多くの国に貸すが、あなたが借りることはない。あなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。」[24][25][26]
96:5.5 しかし、モーシェのこのすばらしい心が、無知で文盲のヘブライ人の理解力にエル エリョン、いと高きもののこの高尚な概念を適合させようとするのを見ることは痛ましいことであった。かれは、集まった指導者達に雷のような声を出して、「あなたの神、主はお一人である。他には神はいない。」と言った。入り交じる群衆には「すべての神々のうちあなたの神のような方はいるか」と言い放った。モーシェは、「主がホレーブで火の中からあなた方に話しかけた日に、あなた方は何の姿も見なかった。」と言明し、呪物と偶像崇拝に立ち向かう勇敢で一部功を奏する立場を取った。また、いかなる種類の像の作成も禁じた。[27][28][29][30]
96:5.6 モーシェは、民が神の正義に恐れて畏敬する方を好み、ヤハウェの慈悲の広布を躊躇した。「あなたの神である主は、神々の中の神であり、主の中の主であり、偉大な神、人間をものともしない力があり、恐ろしい神である。"」と言った。「あなたが背くとき、神はあなたを殺す。あなたが従うとき、神は、あなたを癒すし、命を与える。」と宣言したとき、荒れ狂う一族を抑えようとした。しかしモーシェは、「すべての戒律を守りすべての定めに従う」という条件つきでのみ神の選民になるということをこれらの部族に教えた。[31][32][33][34]
96:5.7 ヘブライ人は、これらの初期において神の慈悲についてあまり教えられなかった。彼らは、「全能者。力に輝き、敵を打ち砕く主は、戦さ人、戦闘の神。」としての神を知っていた。「あなたの神である主は、あなたを救い出すために陣営の中を歩まれる。」イスラエル人は、自分達を愛する神を考えに入れたが、「ファラオの心を堅くし、」「自分達の敵を呪う」ものとしても考えた。[35][36][37][38]
96:5.8 モーシェは、普遍的で慈悲深い神格の一瞬の片鱗をイスラエルの子らに示す一方、概して、ヤハウェについての日常のありふれた概念は、周辺の小部族民のものに比べそれ程良いものではなかった。それらの神の概念は、原始的で、粗雑で、擬人化したものであった。モーシェがこの世を去ると、これらのベドゥイン部族は、すばやくホレーブと砂漠の半野蛮的な昔の神の観念に戻った。モーシェが時々指導者達に提示した拡大されより高尚な神の洞察力は、すぐ失われ、一方大部分の人々は、彼らの物神である黄金色の子牛の崇拝、つまりパレスチナの牧夫のヤハウェの象徴の方に向いた。
96:5.9 モーシェがヘブライ人の采配をヨシュアに引き継いだとき、かれは、アブラーハーム、ナホー、ロート、それに関連する他の部族の何千人もの傍系子孫を既に集めており、それらを自立型の、また部分的に自己規制する牧歌的戦士の国へと強く駆り立てた。
96:6.1 モーシェの死後、ヤハウェの崇高な概念は、急速に低下した。ヨシュアとイスラエルの指導者等は、すべてに賢明で慈悲深く、全能の神のモーシェの伝統を抱き続けたが、一般大衆は、急速に昔の砂漠のヤハウェの観念に戻っていった。そして、神格の概念のこの後方への漂流は、様々な部族の族長、いわゆる裁判官の継続的支配の下で徐々に継続した。
96:6.2 モーシェの並はずれた個性の魅力は、神のますます拡大した概念の内意をその追随者の心に生かし続けた。しかし、かれらは、一旦パレスチナの沃地に達すると急速に遊牧的牧夫から定着の、物静かな農夫へと変化した。そして生活習慣のこの発展と宗教の観点の変化は、神ヤハウェの本質に関する概念の特徴のほぼ完全な変化を要求した。ヘブライ人は、厳格で、粗雑で、厳しくて、雷のようなシナイの砂漠神の変化の開始する時代の間に、愛、正義、慈悲の神の後に登場する概念にもう少しでモーシェの気高い教えを見失うところであった。彼らは一神教のすべての概念を失うところであった。ユランチアの精神的発展において重大な輪として役立つ者になる、他ならないすべての父の息子の肉体化の時まで1神のメルキゼデクの教えを保護する集団になる機会を失うところであった。
96:6.3 ヨシュアは、必死に部族民の心に崇高なヤハウェの概念を固定させようとし、「私はモーシェといたように、あなたと共にいよう。私はあなたを見放さず、見捨てもしない。」と宣言するに至った。ヨシュアは、信じない民に、すなわち古い土着の宗教を容易に信じようとするものの信仰と正義の宗教と共に進んでいこうとしない民に、厳しい福音を説く必要があると考えた。ヨシュアの教えの主旨は、「ヤハウェは聖なる神である。 妬む神である。あなたの背きも罪も許さない。」となった。この時代の最高の概念は、「力、判断、義の神」としてのヤハウェを描いた。[39][40][41]
96:6.4 しかし、この暗い時代にさえ、モーシェの神格の概念を宣言する孤独な教師が、時として現れるのであった。「あなた方邪悪な子らは主に仕えることはできない。主は聖なる神であるので。」「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前に清くありえようか。」「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極致を見つけることができようか。見よ、神は偉大であり、私達には知ることができない。触れはするが、私達は全能者を見つけることはできない。」[42][43][44]
96:7.1 ヘブライ人は、族長と聖職者の統率の下に漫然とパレスチナに定着するようになった。しかしかれらは、すぐ砂漠の未開の思考体系にむけて押し戻され、あまり高度ではないケナーアン人の宗教習慣によって質が落とされるようになった。それらは、偶像崇拝的で放縦となり、また神格に関する考えは、特定の生き残っているシャレイム集団によって維持されたエジプトやメソポタミアの神の概念よりはるかに劣り、その概念は、詩篇の幾つかに、またヨブ記と呼ばれるものに記録されている。
96:7.2 詩篇は、20人あるいはそれ以上の著者の作業である。多くがエジプト人とメソポタミアの教師によって書かれた。レヴァント人が、自然神を崇拝していたこれらの時代、まだ、かなりの数のエル エリョン、いと高きものの至上性を信じる者がいた。
96:7.3 宗教のいかなる著作も詩篇ほどには神への献身と心を揺さぶる考えの豊かさはない。そして、他には一つの著作もそのように広範囲の時間を網羅していないことを念頭に置き、もし称賛と礼拝の一つ一つの詩篇の源と年代を検討することができるならば、それは非常に役立つであろうに。この詩篇は、レヴァント地方全体にわたりシャレイム宗教の信者に受け入れられた神の異なる概念に関する記録であり、アメネモペからイザヤまでの全期間を包含する。詩篇では、神は、部族神の粗雑な考え方からヤハウェが情愛深い支配者であり慈悲深い父として描写される後のヘブライ人の大いに拡大された理想までの概念の全段階において描写されている。
96:7.4 このように考察されるとき、詩篇のこの一群は、20世紀に至るまで人によってかつて組み立てられた信心の言葉の最も貴重で有用な取り合わせを構成している。この賛美歌著作の信心深い精神は、世界の他のすべての聖典の精神を超えている。
96:7.5 ヨブ記に提示されている神格の斑模様の絵は、およそ300年に及ぶ20人以上のメソポタミアの宗教教師達の産物であった。そしてメソポタミア人の信仰のこの編集物に見られる神性についての高い概念を読むとき、人は、真の神の考えがパレスチナの暗い時代に順守されたのは、ハルダイアのウルの近辺であったということに気づくであろう。
96:7.6 神の叡知と全てへの浸透性は、パレスチナにおいてはよく理解されたが、その愛と慈悲は、そうではなかった。これらの時代のヤハウェは、「敵の魂を支配するために悪霊を送る。」かれは、自身の従順な子らを繁栄させ、その間すべての他のものを呪い、恐ろしい判断を加える。「かれは狡猾な者の企みをうちこわす。かれは、知恵ある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。」[45][46]
96:7.7 ウルにいるときだけ、表明者は、「彼が神に祈ると受け入れられ、喜んで顔を見る。神は人に神の義を報いるので。」と神の慈悲を大声で訴えた。このようにウルから、信仰による救済、神の恩恵が、説かれた。「神は、懺悔する者に寛大であり、『黄泉の穴に下って落ちないように彼を救い出せ。私はすでに身の代金を得た。』もし誰かが、『私は罪を犯し、正しいことを曲げた。そして、それは私の利益にならなかった。』というならば、黄泉の穴に落ちないように彼の魂を救い出され、彼は命の光を見る。」と言われる。メルキゼデクの時代以来、レヴァント人の世界は、ウルの予言者でありシャレイム信者らの、すなわちメソポタミアのかつてのメルキゼデクの居留地の生存者らの聖職者であるエリーフーのこの並はずれた教えほどには、人間救済のためのそのような鳴り響く励ましの言葉を聞いていなかった。[47][48][49]
96:7.8 そして、このようにメソポタミアにおけるシャレイム宣教師の生存者達は、ヘブライ民族の分裂期間、決して止むことのないイスラエルの教師達のその歴代の最初の出現まで、すべての者の宇宙なる父、創造者なる父の理想の実現、つまりヤハウェの概念の進化の頂上を極めるまで、概念の上に概念をうち建てて、真実の光を堅持したのであった。
96:7.9 [ネバドンのメルキゼデクによる提示]