95:0.1 インドが、東アジアの宗教と哲学の多くを生み出したように、レヴァント地方も西洋世界の信仰の故国であった。シャレイム宣教師は、どこにおいてもメルキゼデクのマキヴェンタの福音の朗報を広布しながらパレスチナ、メソポタミア、エジプト、イラン、アラビアを経て南西アジア全体に広がっていった。これらの国のいくつかでは、それらの教えは実を結んだ。他の国々では異なる好評を得た。失敗は、時には彼等の知恵不足であり、時には情況に対しし切れなかったからであった。
95:1.1 メソポタミアの宗教は、紀元前2,000年までには、セース人の教えをまさに失うところであり、主に2集団の侵略者、じわじわと西方の砂漠からのベドゥインのセム族の侵入、また北方から下りてきた未開騎馬人の原始信仰の影響下にあった。
95:1.2 週の7日目を祝う初期のアダーム系民族の慣習は、決して完全にメソポタミアで消滅したわけではなかった。メルキゼデク時代における7日目は、不運中の不運と見なされたに過ぎない。それは、禁忌に支配されていた。不吉な7日目に旅にでたり、料理をしたり、または火を起こすことは不法であった。ユダヤ人は、目にしたバビロニアの7日目の遵守、すなわち安息日に関係づけるメソポタミアの禁忌の多くをパレスチナに持ち帰った。[1]
95:1.3 シャレイムの教師は、メソポタミア宗教に磨きをかけ、また向上させるために多くのことをしたとはいえ、様々な民族を一神の永続続認識に至らせることには成功しなかった。そのような教えは、150年以上のあいだ主流となり、そして徐々に多神の昔の信仰に取って代わられた。
95:1.4 シャレイムの教師は、メソポタミアの神の数を大いに減少させ、ひところは主要な神をベル、シャマスク、ナブ、アヌ、エーア、メロダク、シンの7神にまで減らした。その新しい教えの最盛期に、かれらは、他の総てのもの、つまりバビロニアの3神の上に地と海と空の神々であるベル、エーア、アヌの3神の地位を上げた。さらに他の3組が、アンド系とシュメール人の三位一体の教えを連想させる、またメルキゼデクの3円の記章でシャレイムの信仰に基づくすべてが、異なる場所で成長した。[2][3][4]
95:1.5 シャレイムの教師らは、決して神の母であり性的繁殖力の霊であるイシュタールの人気に完全に打ち勝つことはできなかった。かれらは、この女神への崇拝の改善のために多くのことをしたが、バビロニア人とその隣人は、性崇拝の偽装の型から一度も完全に脱却したことがなかった。すべての女性が、少なくとも若い頃一度は見知らぬ人を受け入れることが、全メソポタミアでの一般的習慣になっていた。これは、イシュタールが必要とする献身であると考えられ、また繁殖力は、主にこの性の犠牲に依存していると信じられていた。
95:1.6 メルキゼデクの教えの早期の進歩は、キシュにある学校の指導者であるナボダドが、寺での蔓延的売春慣習への集中攻撃をすると決めるまで極めて満足できるものであった。だが、シャレイムの宣教師達は、この社会改革をもたらすことができず、精霊的かつ哲学的なより重要な教えのすべては、この失敗による挫折のなかで敗北に終わった。
95:1.7 シャレイム福音のこの敗北の後には、パレスチナにはアシュトレースとして、エジプトにはアセト、ギリシアにはアフロディーテ、北方部族にはアスターテとして既に侵入していたイシュタールの宗教儀式の拡大が、すぐに続いた。そして、バビロニア人の司祭者が星の観測へと新たに向き直ったのは、イシュタールの崇拝のこの復活との関連においてであった。占星術は、広範囲におよぶメソポタミアのその最後の復興を経験し、易断が流行となり、また司祭は、何世紀もの間ますます堕落していった。[5]
95:1.8 メルキゼデクは、すべての父であり造物主である一神についての教えと信仰経験のみによる神の恩恵の福音ただ一つの説教について追随者に警告を与えてきた。しかし、過度の試み、すなわち突然の革命による鈍い発展に取って代わる試みは、多くの場合しばしば新しい真実の教師の誤りであった。メソポタミアのメルキゼデク宣教師は、道徳的水準を人々にとってあまりにも高く設定した。あまりに多くを試みた結果、その高潔な大儀は敗北した。かれらは、明確な福音を説くために、つまり宇宙なる父の現実の真実を広布するために任命されたが、慣習改革という明らかに価値ある動機に巻き込まれるようになり、その結果、重大な任務は、脇道に逸れ、事実上、挫折し忘却された。
95:1.9 キシュのシャレイム本部は、1世代で終わりを告げ、また一神信仰の宣伝活動は、実質的には全メソポタミアで消滅した。しかし、シャレイムの学校の残存者は、持続した。あちらこちらに点在する小集団が、一創造者の自分達の信仰を存続し、メソポタミアの司祭の偶像崇拝と不道徳性と闘った。
95:1.10 彼らの教えが拒絶された後の時期に、シャレイム宣教師たちは、旧約聖書の多くの詩篇を書いた石に書き、その石を後のヘブライの聖職者たちが、監禁中に見つけ、次にユダヤ人の著述とされる賛美歌の収集の中にそれらを取り入れられた。バビロンからのこれらの美しい詩篇は、ベルメロダークの寺院では書かれなかった。それらは、初期のシャレイム宣教師の子孫の仕事であったし、またバビロニア人司祭の魔術の集塊に対し著しい対照をなしている。ヨブ記は、キシュのシャレイム学校やメソポタミア全体に至る相当に優れた教えの反映である。
95:1.11 メソポタミアの宗教文化の多くは、アメネモペとイフナトンの働きによりエジプト経由でヘブライ文学と礼拝式へと至った。エジプト人は、初期のアンド系メソポタミア人から得られる社会的義務に基づく教えをよく保持し、しかもこの教えは、ユーフラテス渓谷を占領した後のバビロニア人により大規模に失われた。
95:2.1 メルキゼデクの本来の教えは、エジプトでその最も深い根をおろし、そこからヨーロッパへと広まった。ナイル渓谷の進化的宗教は、ノヅ系、アダーム系、後のアンド系民族の優れた血統の到来により周期的に補強された。エジプト人の民生長官の多くは、時にシュメール人であった。エジプトは、インドが、このころ最大規模混合の世界の人種を有していたように、ユランチアに存在する徹底的に混合された宗教哲学の型を育成し、またそれは、ナイル渓谷から世界の多くの地域に広がった。ユダヤ人は、天地創造に関する考えの多くをバビロニア人から受け入れたが、神の摂理の概念はエジプト人から得ていた。
95:2.2 エジプトがメソポタミアよりも一層好意的にシャレイムの教えに受容を示したのは、哲学的、もしくは宗教であるよりも、むしろ政治的で道徳的風潮であった。エジプトの各部族の指導者は、王位への道を戦った後、部族の神を最初の神格と他のすべての神の創造者であると宣言することにより自らの王朝を永続させようとした。このようにしてエジプト人は、超越的神の考えに、つまり普遍的創造者の神格についての後の教理に対する踏み台に徐々に慣れてきた。一神教の考えは、何世紀もの間エジプトで前後に揺らいだ。一神の信仰は、常に前進してきたが、発展的多神教の概念を圧することは決して完全にはできなかった。
95:2.3 長い間、エジプト民族は、自然神を崇拝していた。とりわけ雄牛を崇拝する部族、ライオンを崇拝する別の部族、雄羊を崇拝する3番目の部族という具合いに40の部族が、独自の神をもった。それより以前には、アメリカ原住民によく似てトーテム部族であった。
95:2.4 そのうちエジプト人は、煉瓦の貯蔵所に埋められた死体は腐敗する一方で、ソーダを染み込ませた砂の作用により煉瓦のない墓に置かれたものは保存される—防腐処置が施される—ことに気づいた。この観測は、死者を防腐処理する後の習慣につながる実験に導いた。エジプト人は、肉体の保存が来世への人の通路を容易にすると信じた。個人は、肉体の腐敗後の遠い未来において正確に確認されることができるように、棺には像を彫り、墓には死体と共に埋葬用の像を収納した。これらの埋葬像の作成は、エジプト芸術における大きな改良に導いた。
95:2.5 何世紀もの間、エジプト人は、肉体の保護と死後の快い生存としての墓を信じた。魔術習慣の後の発展は、揺りかごから墓場まで人生に重荷になる一方で、人々を墓の宗教から最も有効に救い出した。聖職者は、「人が冥界で心を持ち去られる」からの保護であると信じられたまじないの内容を棺に記すのであった。まもなく、これらの魔術の本文のさまざまの組み合わせが、死者の書として収集され保存された。ナイル渓谷の魔術的儀式は、その当時の儀式ではあまり達しない程度の良心と性格の領域に早くから関わるようになった。次には、これらの倫理的で道徳的な理想が、入念な墓よりも、救済のための頼りとされた。
95:2.6 これらの時代の迷信は、エジプトにその起源を持ち、そこからアラビアとメソポタミアに広まった治療物質としての唾の効き目の一般信仰によく例示されている。若い神セットは、ホルスの伝説的な戦いで目を失ったが、セットの敗北後に、賢明な神トスが傷に唾を吐きかけこの目を治した。[6]
95:2.7 エジプト人は、長い間、夜空のきらめく星は、立派な死者の魂の生存を表すと信じた。かれらは、他の生存者は太陽に吸収されると考えた。ある期間、太陽崇拝は、先祖崇拝の種類となった。巨大ピラミッドの入り口への傾斜のある通路は、王の魂が墓から出るとき、恒星の静止し、固定された星座に、つまり王の想定上の住まいに、まっすぐに行くことができるように北極星を直接指し示した。
95:2.8 太陽の傾斜光線が、雲の隙間から地球に向かって貫いているのが観測されるとき、王と他の公正な魂が昇ることのできる天の階段の降下を示すと信じられた。「ペピ王は母のもとに昇るために彼の輝きを自分の足下の階段として掛けた。」
95:2.9 メルキゼデクが肉体で現れたとき、エジプト人は、周辺民族の宗教よりはるかに高度のものを持っていた。肉体から離脱した魂は、魔術の唱え文句で適切に武装させられるならば、妨害する悪霊を回避し、またオシリスの判決の間へ進み、そこで、もし「殺人、強盗、虚偽、密通、窃盗、身勝手さ」がなければ、それは、至福の領域に認められるのであった。もしこの魂が、秤にかけられ、欠けていると分かるならば、地獄に、貪食婦に送られるのであった。これは、周辺民族の多くの信仰との比較において比較的高度な来世の概念であった。
95:2.10 地球での肉体における人の人生の罪に対する死後の判決に関する概念は、エジプトからヘブライ神学に継続された。判決という言葉は、ヘブライ詩篇の書全体のなかでただ一度だけ現れ、その特別の詩篇は、エジプト人によって書かれた。
95:3.1 エジプト文化と宗教は、主にアンド系のメソポタミアに由来し、ヘブライ人とギリシア人を介しておおむねその後の文明に伝わったとはいえ、エジプト人の多くの、じつに多くの社会的で倫理的な理想主義が、純粋に進化的発展としてナイル渓谷で起きた。アンド系出来の多くの真実と文化の移入にもかかわらず、エジプトにおいては純粋に人間の発展としての道徳的文化が、マイケルの贈与以前の他のいかなる外接地域における同様の自然手段による発展よりもさらに発展した。
95:3.2 道徳的進化は、完全には顕示に依存していない。高い道徳概念は、人間の自己の経験から導きだすことさえできる。神の魂が内に宿ることから、人は、精神的価値さえ進化させ、人格の経験的生活から宇宙洞察を導き出すことができる。良心と性格のそのような自然の進化は、古代の第2エーデンから、後にはシャレイムのメルキゼデクの本部からの真実の教師の周期的到着によっても高められた。
95:3.3 シャレイム福音がエジプトに浸透する何千年も以前に、その道徳指導者達は、正義、公正、貪欲の回避を教えた。ヘブライ経典が著される3,000年前、エジプト人の処世訓は、次の通りであった。「正義を基準とする者は地歩を固めている。その人はその道に従って歩く。」彼らは、優しさ、節度、思慮深さを教えた。この時代の偉大な教師の一人の教えは、次の通りであった。「正しいことをし、すべての者を公正に扱いなさい。」この時代のエジプトの三つ組は、真実-司法-正義であった。ユランチアの純粋に人間的なすべての宗教のなかで、ナイル渓谷のこのかつての人道主義の社会的理想と道徳的な崇高さ壮大さを凌ぐものは、一つもなかった。
95:3.4 シャレイム宗教の存続する教理は、これらの進化する倫理的考えと道徳的理想の土壌に栄えた。善と悪の概念は、「命は平和を好む者に与えられ、死は罪ある者に。」と信じる民族の心にすぐ反応した。「平和を好む者は愛されることをする者である。罪ある者は嫌われることをする者である。」何世紀ものあいだ、ナイル渓谷の住民は、そもそも正邪—善悪—の後の概念を受け入れる以前にこれらの台頭しつつある倫理的、社会的基準によって生活していた。
95:3.5 エジプトは、知的で道徳的であったが、それほど精神的ではなかった。6,000年間に、エジプト人の間に出現した偉大な予言者は、4人だけであった。エジプト人は、アメネモペにはしばらくの間従った。彼らは、オフバンを殺害した。イフナトンを受け入れはしたが、熱心さを欠いての短い1世代の間であった。モーシェを拒絶した。アブラーハームにとり、後にはヨセフにとり、シャレイムの一神の教えのためにエジプト中に大きな影響を与え易くしたのは、この場合もやはり、宗教情況よりもむしろ政治的情況であった。しかし、最初にエジプトに入ったとき、かれらは、メソポタミア移民の変更された道徳基準と混合されたこの非常に進化した倫理的文化に遭遇した。初期のナイル渓谷のこれらの教師は、神の命令、神の声として最初に良心を宣言する最初の者であった。
95:4.1 そのうちに、多くの者に「人の息子」と呼ばれ、他からはアメネモペと呼ばれる一人の師がエジプトで育った。この予言者は、善と悪の間で良心を裁定のその最頂点へ高め、罪に対する処罰を教え、太陽神を求めることを通して救済を宣言した。
95:4.2 アメネモペは、富と財産は神の贈り物であることを教え、この概念は、後に登場するヘブライ哲学に徹底的に影響を与えた。この高潔な教師は、神-意識がすべての行為の決定要素であると信じた。神臨場の、また神への認識の中で刻一刻送られるべきであると信じた。この賢人の教えは、旧約聖書が書物になるずっと以前、ヘブライ語に翻訳され、その後その民族の聖典となった。この善人の主要な説教は、政府の責任ある地位における正直さと誠実さを自分の息子に教えることに関係があり、とうの昔のこれらの気高い心情は、現代のいかなる政治家をも礼遇するであろう。[7][8]
95:4.3 ナイル渓谷のこの賢人は、「富は自分たちに翼をつけ、飛び去る」—地球のすべてのものは儚い、ということを教えた。この賢人の重要な祈りは「恐怖から救われる」ということであった。彼は、すべての者に「人の言葉」から「神の行為」 へ向き直るように勧めた。現に、彼は教えた。人は申し入れるが、神は処分する。ヘブライ語に翻訳されたこの賢人の教えは、旧約聖書の箴言に関する哲学を決定した。その教えは、ギリシア語に翻訳され、その後のすべてのギリシャ宗教哲学に影響を与えた。フィロン、後のアレクサンドリアの哲学者は、知恵の書を一冊所持していた。[9][10][11]
95:4.4 アメネモペは、進化の倫理と顕示の道徳を保護するために機能し、その著述においてヘブライ人とギリシア人にそれらを伝えた。かれは、この時代の最も偉大な宗教教師ではなかったが、西洋文明の発展におけるその後の極めて重要な2つのつながりの思想—西洋の信仰の極致はヘブライ人の間で発展し、そしてギリシア人がヨーロッパのその最大の高さへと純粋な哲学的思想を発展させた—に着色したという点で最も影響力があった。
95:4.5 ヘブライの箴言の第15章、第17章、第20章、それに第22章の17節、第24章の22節まではアメネモペの知恵の書からほぼ逐語的に収められている。ヘブライ書の最初の詩篇は、アメネモペによって書かれており、イフナトンの教えの核心である。[12][13]
95:5.1 王室の一人の女性が、エジプト人のシャレイム医師の影響で、メルキゼデクの教えを支持すると、アメネモペの教えは、徐々にエジプト人の心の中で手を緩めつつあった。この女性は、唯一なる神のこの主義を受け入れるようにとエジプトのファラオである息子のイフナトンを説き伏せた。
95:5.2 肉体のメルキゼデクの失踪以来、イフナトンのようにシャレイムの啓示的宗教について驚くべき明確な概念を有した人間は、その時まで誰一人としていなかった。ある点で、この若いエジプト王は、人間の歴史で最も注目すべき人々の一人である。イフナトンは、精神的な落ち込みが増大するメソポタミアのこの時代、エジプトにおける一なる神のエル・エリョンの教理を生かし続け、マイケルのその後の顕示の宗教背景に必要であった一神教の哲学的な伝統をこうして維持した。他にも理由はあるが、幼子イエスは、エジプトに連れられ、そこでイフナトンの数人の精神的後継者が、イエスを見、ユランチアへのイエスの神からの任務のある局面をある程度理解したのはこの功績を認めてのことであった。[14]
95:5.3 メルキゼデクとイエスの間における最も偉大な人柄のモーシェは、ヘブライ人種とエジプト王室からの世界への同時の贈り物であった。そして、もしイフナトンにモーシェの多才さと能力があったならば、驚くべき宗教的指導力に釣り合う政治的才能を明示していたならば、エジプトは、間もなくその時代の偉大な一神教の国になっていたことであろう。また、もしこれが、起こっていたならば、イエスは、人間としてのその生涯の大部分をエジプトで過ごしたかもしれないということがかろうじて可能である。
95:5.4 歴史上どの王も、決してこの並はずれたイフナトンのように全国民を多神教から一神教へと整然と向きを変えさせなかった。最も驚くべき決断で、この若い支配者は、過去と決別し、自分の名を変え、自分の首都を捨て、まったく新しい都市を建設し、全国民のために新しい芸術と文学を創造した。しかし、この若い支配者は、あまりに速く進んだ。彼が死んでしまうと、立ちゆかないないほどあまりに多く建てた。一方、この若い支配者は、その国民の物質的な安定性と繁栄を提供ができず、その後の逆境と圧迫が続々とエジプト人に押し寄せたとき、そのすべてが、都合悪く彼の宗教上の教えに反発した。
95:5.5 驚くばかりの明確な見通しと目的への並はずれた一途さをもつこの男性に、モーシェの政治上の明敏さがあったならば、西洋世界の宗教発展と真実啓示の歴史全体を変えていたことであろう。モーシェは、その生涯のうちに、通常は不審を抱いていた聖職者の活動に歯止めをかけることができたが、権力から若い王が去るやいなや、彼らは、秘密で礼拝集団を維持し、行動に移した。聖職者達は、エジプトのその後のすべての問題をこの王の治世の間の一神教の体制に結びつけることにためっらてはいなかった。
95:5.6 イフナトンは、とても賢明に太陽神を装って一神教を確立しようとした。すべての神を太陽崇拝に吸収することにより宇宙なる父の崇拝に近づくというこの決定は、シャレイム医師の助言によるものであった。イフナトンは、神格の父性と母性に関して当時存在したアトン信仰の一般化された教理を取り込み、人と神の間の親密で敬虔な関係を認識する宗教を創出した。
95:5.7 イフナトンは、賢明にも太陽神アトンの外向きの崇拝を維持したが、自分の仲間をアトンの創造者とすべてのものの崇高なる父への偽装崇拝へと導いた。この若い教師-王は、多作の作家であり、聖職者が権力に返り咲くと完全に破棄された「唯一なる神」と題される31章からなる本を説明する作者であった。また、イフナトンは、137篇の賛美歌を著わし、そのうちの12篇は、ヘブライ人の著述によるものとされ、現在旧約聖書の詩篇に保存されている。
95:5.8 日常生活におけるイフナトンの宗教の最高の言葉は、「正しさ」であり、またイフナトンは、国家の倫理のみならず国際倫理をも迎え入れるために正しい行ないをする概念を急速に広げた。これは、驚くべき個人の敬虔さをもつ1つの世代であり、神を求め、神を知るというより知的な男女の中の本物の切望によって特徴づけられた。当時、社会的地位、または、富は、法的観点から言うと、いかなるエジプト人にも何の利点も与えなかった。エジプトの家族生活は、道徳的文化を保存し、補強するために多くのことをし、またパレスチナでのユダヤ人の後のずば抜けた家族生活のひらめきであった。
95:5.9 イフナトンの福音の致命的弱点は、その最もすばらしい真実、つまりアトンは、エジプトの創造者であるばかりではなく、「人類と獣類の世界全体の、またこのエジプトの地の外のすべての異郷の地の、シリアとクシュの創造者でさえある。アトンは、それぞれの場所にすべてをはめ込んで、彼らの必要なものをすべてを提供する。」という教えであった。神格のこれらの概念は、高度で、高揚するものであったが、国家主義的ではなかった。宗教におけるそのような国際的感情は、戦場でのエジプト軍隊の士気を高めはしなかったものの、若い王とその新宗教に向けて使用する有効な兵器を聖職者に提供した。アトンは、後のヘブライ人のものよりはるかに高度の神についての概念を持っていたが、それは、国の建設者の目的を果たすには高度過ぎた。[15]
95:5.10 一神の理想は、イフナトンの死に弱体化したが、多くの集団の心に存続した。イフナトンの娘婿は、自分の名前をツタンハモンと変え、聖職者と協力し古い神々の崇拝へと戻った。首都は、テーバーイスに戻リ、聖職者は、土地で富を肥し、最終的には全エジプトの1/7を所有した。やがて、大胆にも聖職者のこの同じ体制の一人が、王冠を奪取した。
95:5.11 だが、聖職者は完全に一神教の波に打ち勝つことができたというわけではなかった。かれらは、だんだんと自分達の神を止むええず結合し、ハイフン結びつけていった。ますます神の家族は縮小した。イフナトンは、創造者たる神を天の燃えるような円盤に関連づけ、若い改良者が亡くなったずっと後にもこの考えは、人の心の中で、聖職者の心の中でさえも、燃え続けた。一神教の概念は、エジプトや世界の人々の心から決して消えなかった。それは、イフナトンが、全エジプトによる崇拝のためにとても熱心に宣言した1神のその同じ神性の父をもつ創造者の到着までも存続した。
95:5.12 イフナトンの教理の弱点は、教育を受けたエジプト人だけがその教えを完全に理解できるというそれほどに高度な宗教を提案したという事実にあった。農業労働者の一連は、イフナトンの福音を現実には決して理解せず、したがって聖職者とともにアセトとその配偶者、つまり闇と邪悪の神のセットの手による残酷な死から奇跡的に復活したとされるオシリスの昔の崇拝に戻る状態にあった。
95:5.13 すべての人への不死の教えは、エジプト人には高度過ぎた。復活は、王と金持ちだけに約束された。彼らは、それゆえ裁きの日に備え、非常に念入りに自分達の肉体に防腐処置を施し保存した。しかし、イフナトンが教える救済と復活の民主主義は、やがてはエジプト人が後に物の言えない動物の生存を信じるというまでに広がった。
95:5.14 人民へ一神崇拝を押しつけるこのエジプト人支配者の努力は失敗するかに見えたが、その働きの影響は、何世紀ものあいだ、パレスチナとギリシアに存続したということ、そしてその結果、エジプトは、結合されたナイルの進化的文化とユーフラテス川の天啓的宗教を西洋のその後の全民族への伝道剤になったということが記されるべきである。
95:5.15 ナイル渓谷におけるこの長い道徳的発達と精神的成長時代の栄光は、ヘブライ人の国民生活が始まる頃に急速に過ぎ去り、これらのベドゥインは、エジプト滞在の結果としてこの教えを携え、彼等の人種的宗教においてイフナトンの教理の多くを永続させた。
95:6.1 数人のメルキゼデク宣教師は、パレスチナからメソポタミア経由でイラン大高原へと進んだ。シャレイム教師は、500年以上、イランにおいて前進し、支配者の交替が悲惨な迫害を早めているとき、国全体は、シャレイムの集団礼拝の一神の教えを実際に終わらせるメルキゼデク宗教へと揺れていた。道徳復興のあの偉大な世紀に、つまり紀元前6世紀にゾロアスターがシャレイム福音の残り火を蘇生させるために出現したとき、アブラーハームの盟約の教理は、ペルシアで実質的に消滅した。
95:6.2 新宗教のこの創設者は、男性的で冒険好きな若者であり、メソポタミアのウールへの最初の巡礼の旅においてカリガスティアとルーキフェーレンスの反逆の伝統について—他の多くの伝統に加えて—知った。そのすべてが、彼の宗教の素質に強く訴えた。それに合わせて、かれは、ウールでの夢の結果、人民の宗教改造に取り掛かるために北の故郷に戻ることにした。かれは、正義の神についてのヘブライ風の考え方、神性モーシェの概念を取り込んだ。最高の神についての考えは、彼の心の中では明確であり、かれは、他のすべての神をメソポタミアで聞いたことのある悪魔の位置に付した。伝統ウールに残存したていたので、かれは、主たる7精霊の話を知っており、したがって、アフーラマーズダをその長にした七柱の最高神の華やかな1群を創り出した。彼は、これらの従属的な神々を正なる法、善なる思考、高潔なる政府、聖なる品性、健康、不死の理想化に関連づけた。
95:6.3 この新宗教は、行動の1つ—仕事—であり、祈りや儀式ではなかった。その神は、最高の知恵をもつ者であり、文明の後援者であった。それは、悪、無活動、後退とあえて戦う好戦的な宗教哲学であった。
95:6.4 ゾロアスターは、火の崇拝を教えなかったが、普遍的で最高の支配である純粋で賢明な聖霊の象徴として炎を利用しようとした。(残念なほどに本当であるが、後の追随者は、この象徴的な火を崇敬もし崇拝もした。)最終的に、この新宗教は、イラン人の王子の転向後武力によって広げられた。そしてゾロアスターは、「光の主の真実」を信じたそれのために、戦いで勇ましく死んだ。
95:6.5 拝火教は、主たる七精霊に関するダラマティアとエーデンの教えを永続させる唯一のユランチア教義である。三位一体概念の発展に失する一方で、それは、ある方法で神の7重の概念に近づいた。本来の拝火教は、純粋な二元性でなかった。初期の教えは、たしかに悪を善と等位において描写したものの、それは、確実に永遠の、究極の善の現実に水没した。この思考体系は、後になりやっと、善と悪は同じ条件で争うという支持を得たのであった。
95:6.6 ヘブライ経典に記録される天国と地獄、それに悪魔についてのユダヤ人の伝統は、ルーキフェーレンスとカリガスティアの存続する伝統に基づく一方で、ユダヤ人が、ペルシア人の政治的、文化的支配下にあった時期のゾロアスター教徒に主に由来していた。ゾロアスターは、エジプト人のように、「裁きの日」を教えたが、この出来事を世の終わりに関連づけた。
95:6.7 ペルシアで拝火教を引き継いだ宗教ですら、著しくその影響を受けた。イラン人の聖職者達が、ゾロアスターの教えを崩壊しようとしたとき、かれらは、ミースラの古代の崇拝を復活させた。そして、ミースラ教は、レヴァントと地中海地域に蔓延し、しばらくはユダヤ教とキリスト教双方と同時代に存在した。ゾロアスターの教えは、その結果、連続して重要な3宗教の注目を引いた。ユダヤ教とキリスト教、それらを通してのイスラム教。
95:6.8 ゾロアスターの高い教えや堂々たる詩篇は、ゾロアスターが決して身を落とさなかった詭弁への信条をもつことに結びつけて、死者に関し大きな恐怖をもつパルシー教徒によるゾロアスターの福音の現代のこじつけとはほど遠いのである。
95:6.9 この偉人は、暗くされた世界にいる人に永遠の命へと導く光の道を示すためにほんのかすかに燃える間、シャレイムの光が完全に、そして最後に消されないように守るために紀元前6世紀に登場したその特異集団の1人であった。
95:7.1 一神のメルキゼデクの教えは、比較的最近アラビア砂漠で確立されるようになった。シャレイム宣教師は、過度の組織化に関するマキヴェンタの指示に対する誤解からギリシアでそうであったようにアラビアにおいても失敗した。しかし、かれらは、軍事力、あるいは民間への強制で福音を広げる全努力に対するマキヴェンタの訓戒の解釈においてはこのようには妨げられなかった。
95:7.2 メルキゼデクの教えは、中国、あるいはローマにおいてさえ、シャレイムそれ自体にとても近いこの砂漠地域ほどには完全に失敗しなかった。東洋と西洋の民族の大半がそれぞれに仏教徒とキリスト教徒になったずっと後、アラビア砂漠は、数千年間もそうであったように当然の報いが続いた。それぞれの部族は、その昔の物神を崇拝し、また個々の家族の多くは、家庭ごとの神をもっていた。長い間、バビロニア人のイシュタール、ヘブライ人のヤハウェ、イランのアフーラ、そして、主イエス・キリストのキリスト教徒の父の間での戦いが続いた。1つの概念は、他のものに決して完全に置き換えらることはできない。
95:7.3 アラビア中のあちこちに漠然とした一神の考えにすがる家族と一族がいた。そのような集団は、メルキゼデク、アブラーハーム、モーシェ、ゾロアスターの伝統を大事にした。イエスの福音に反応していたかもしれない多数の中心地が存在したが、砂漠の地のキリスト教使節団は、地中海の国々で宣教師として機能した妥協者や革新者に比べると厳格で頑固な集団であった。イエスの追随者が、より真剣に「全世界に進み、福音を説けよ」という彼の命令を受け止めていたならば、またその説教においてもっと丁重あったならば、自身が考案する社会的必要条件の厳しさが控え目であったならば、それならば多くの国々が、その中のアラビアが、大工の息子の簡単な福音を喜んで受け入れていたことであろうに。[16][17]
95:7.4 重要なレヴァント人の一神教が、アラビアに定着しなかったという事実にもかかわらず、この砂漠の国は、その社会要求にあまり厳しくはないものの、それでもなお、一神教である信仰を生み出すことができた。
95:7.5 砂漠の原始的で組織的でない信仰に関する部族、人種、あるいは国家の特徴のただ1つの要因があり、それは、ほとんど総てのアラビア部族が、メッカのある寺院の特定の黒い石の呪物に進んで表す独特の、一般的な敬意であった。共通の接触と崇敬のこの点が、次にはイスラム宗教の確立へと導いた。ユダヤ人のセム族にとっての火山の霊のヤハウェは、彼らのアラビアのいとこにとってのカーバ神殿の石になった。
95:7.6 イスラム教の強みは、唯一無二の神としてのアラーの明快かつ明確な提示である。その弱さは、女性の地位の低下とともに、その普及と軍事力との関連。しかし、それは、すべての者の唯一の宇宙の神格の提示「見えないものと見えるものを知っている方、彼は、慈悲深く情け深い。」をしっかりと保ってきた。「本当のところ、神はすべての人への善に満ちている。」「そして、私が病気であるときに、私を癒すのは彼である。」「3人もの人が同時に話そうとも、いつでも神は4人目として出席している、」というのも彼は、「最初でも最後でもなく、また見られるものでも隠れるものでも」ないではないか。
95:7.7 [ネバドンのメルキゼデクによる提示]